あまりにもつらい状況は人の品位を落とす。そのからくりはつぎの点にある。高尚な感情によって供給されるエネルギーは─通常─限られており、その状況がこの限界を乗越えて行くことを要求するときは、もっとエネルギーに富んだ低級な感情(恐怖、渇望、新記録の趣味、外面的な栄誉など)に頼らねぱならないからである。
このような限界のあることが、多くのあともどりの理由を説き明かす鍵になっている。

善への愛にうながされて、苦しむべきことの多い道に足を踏み入れ、ある期間を経過してから自己の限界に達して品位を落とす人びとの悲劇。



人間的なからくり。苦しんでいる人はだれしも自分の苦痛をうつそうとする

ある場合はだれかをひどい目にあわせることによって、またある場合はほかの人に憐れみをもよおさせることによって─それは苦痛をやわらげるためであり、実際そうして苦痛はやわらぐものである。極端に低いところにいる人が、(子供がなかったり、愛してくれる人がなかったりして)だれにも同情されず、だれをひどい目にあわせる力ももたないとき、その苦痛は彼のうちにこもり、彼を毒する。それは重力のように権柄づくである。どのようにしてそれから解放されることができるだろう?


重力のようなものからどのようにして解放されることができるのだろうか?



人間の悲惨には、神の叡知の秘密が含まれている。楽しみには含まれていない。楽しみの追求は、どんなものにせよ、人工楽園の、酩酊の、膨脹の追求である。 だがそれはわれわれにそれがむなしいものであるという経験を与えるだけで、そのほかのものはなにも与えない。われわれの限界と悲惨を観想することだけがわれわれをより高い面に上昇させる。

「みずからへりくだる人は上げられる」(ルカ14の11). 

われわれのうちにある上昇のうごきは、それが下降のうごきから生ずるものでなければむなしいものである(というよりは、それ以下のものである)



報酬をぜひ欲しいと思う気持、与えたものと同じ価値のものを受け取りたいという欲求。だがもし、この気持をむりにおさえて、真空にしておくと、一種の誘いの風が生じて、超本性的な報酬が不意にやってくる。ほかに報酬のある場合はやってこない。真空がそれをまねき寄せるのである。

負債を免除するときも同じ(他人に害を加えられた場合だけではなく、他人に善いことをしてやった場合についても)。この場合もまた、人は自分自身のうちに真空を受け容れる。自分自身のうちに真空を受け容れること、それは超本性的なことである。

代償のない行為を行なう場合エネルギーをどこに求めたものだろう? エネルギーはほかからこなければならない。 しかしながら、そのまえに根こぎの状態が必要であり、なにかしら絶望的なことが起こらなければならない。 まず真空が生じなければならないのである。真空、暗夜。感嘆、憐憫(とりわけこの二つの混合)は、現実のエネルギーを供給する。しかしこのようなエネルギーは、なしですまさなければならない。本性的なものにせよ、超本性的なものにせよ、報酬をあてにしない時間をすごさなければならない.


世界が神を必要とするためには、世界をいくらか真空を含むものとみなさなげればならない。そのためには、まえもって悪を必要とする。

真理を愛することは、真空に耐えること、したがって死を受け容れることを意味する。真理は死の側にある。


「重力と恩寵」シモーヌ ヴェイユ著・・・より適当に抜粋。


シモーヌ ヴェイユもユダヤ人。なんですね。

ユダヤ人という色眼鏡を通すとまた・・・・

色々思うことも多いのですが。

ヴェイユが好きだと言う人が結構僕の周りには多いです。


父はユダヤ系の医師で、数学者のアンドレ・ヴェイユは兄。

リセ時代、哲学者アランの教えを受け、若くしてパリの女子高等師範学校に入学、哲学のアグレガシオン(1級教員資格)を優秀な成績で取得する。卒業後、1931年にはリセの教員となるが、その間、労働階級の境遇を分かち合おうと工場や農場で働き、まもなく政治活動に身を投じた。1936年、スペイン内戦に際して、人民戦線派義勇兵に志願。1942年にはアメリカに移住し、その後、ロンドンに移り、ド・ゴールの自由フランス軍にレジスタンスとして参加した。戦争の悲惨さ、残酷さに抗議してハンストを行い、1943年、34歳でその生涯を閉じる。主著は『重力と恩寵』などで、著書はすべて死後出版されたものである。


美のほかに不幸が真理に至る道になると説いたユダヤ人ヴァイユ。

この世はひたすら下落へと向かう重力に支配されており、それから免れようにも重力に支配された魂は誤りを犯す。だから自分から高まろうとするのではなく、待望こそ必要とされるのである。すべてをもぎ取られた真空としての待望である。そして真空とは自然なことではない。ヴェイユによれば下落からのがれて高みに昇るのは恩寵によってのみ可能であるが、重力の下降運動、恩寵の上昇運動とともに恩寵の二乗としての下降運動があり、これは重力と無関係に自ら下降する。

(○ ̄ ~  ̄○;)ウーン・・・ と唸るのみです。

僕の血の一部にユダヤの血が流れているんじゃ?などと妄想する時が多いです。

父方は江戸っ子で・・・その前江戸中期以前は近江のほうにいたらしい。

母方は笠間の馬番の下っ端武士。

だから・・・まあ妄想なんだろうけど。

日本人の25%にアイヌの血は流れていると言われ。

これは、間違いなくながれているのだろうし。

まあ、朝っぱらからそんな妄想をしております。

血は水よりも濃く。

遠くの身内より身近な他人。

などと。。。

戯けたことなどをあいも変わらず妄想中。



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