「飛礫の研究」を最初にしたのは中沢厚氏(宗教学者、中沢新一氏の父、網野氏の義兄)で「つぶて」という著書(法政大学出版局)がある。その研究の動機は1968年新左翼の学生や労働者が佐世保のエンタープライズ寄港阻止のデモで、はじめて角材と投石で武装して戦っている姿をみて、少年の日に笛吹川のほとりで体験した石投げを思い出し、「つぶて」に問題意識を持ち研究を始めたといわれている。
網野善彦が「異形の王権」(平凡社ライブラリー)の中の「中世の飛礫について」という章で書いたり 「歴史の中で語られてこなかったこと―おんな・子供・老人からの「日本史」」で語ったりしている。
まず網野は、中沢厚「つぶて」、八幡一郎編著「弾談義」などを例に出して、「飛礫を打つ」=「石を投げる」という行動が、単純であるだけに人間の本源と深くかかわっており、飛礫、石打ちにまつわる習俗は、民族を越えて人類の社会に広く根をはり無視しがたい大きな役割を果たしてきたことが、民俗学、考古学、国文学の分野から明らかにされてきたことを指摘している。
礫打を分類すると、
1子供の遊びとしての石合戦
2祭礼、婚礼などハレの行事にあたっての石打
3一揆、打ち壊し、騒動などにおける石礫
4弱者に対する礫
5手向けの礫、天狗礫など神意、超人的なものに関わる飛礫
6「銭形平次」的な裏の世界の飛礫の名手によるもの
これら「投げる」という行為の現代版が「プロ野球じゃないか?」などいう話も出てきたり・・・・プロ野球を廃止出来る政権というのはあり得ないなどとのたまうのだ。
殊に5手向けの礫、天狗礫など神意、超人的なものに関わる飛礫に関してはポルターガイスト現象として怪異談などとして怖い昔話が沢山ある。
「石を投げる」ことで他の動物から身を守ってきた人類史などとも考えられるし手首=スナップが他の動物と比べ断然と優れているのが我々だという。
そして道具を作り使うという我々の習性も手首の構造に拠る所大らしい・・・・・
ということは。道端の石を投げる事と劣化ウラン弾を放つことは直線的に繋がる。
網野善彦さんの本にはこんな話がゴロゴロしていて趣き深い。
日本史とは、北海道と沖縄の歴史を除いた歴史のことだから日本史という言葉は使うべきじゃないとか。
いちいち頷く話ばかりなのだ。
こういう本を眺めながら物思いに耽るのがしみじみと心温まりホクホクと楽しい。
僕にとってはそんなことが生きる歓びだ。
これに匹敵するのがフェレットたちと遊び心和む事なのだ。
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