古代のギリシア神話に登場するナルキッソス(Narcissus)は、卓越した美貌を誇る美青年でしたが、エコー(Echo)というニンフ(妖精)の求愛を無残に断った為、オリンポスの神々の怒りに触れて「死ぬまで、自分自身の美貌に恋焦がれる」という呪いを科されました。


自分以外の誰も愛せなくなったナルキッソス(ナルシス)は、来る日も来る日も、池の水に映る自分の美しい顔や完全なスタイルに見とれて胸を焦がしますが、自分で自分の性的身体を手に入れようとする『フロイト的な自己愛(ナルシシズム)』は決して満足させることが出来ません。


食事も喉を通らないほどに自分の美貌に陶酔してしまったナルキッソスは、遂に池の岸辺で力が尽き果てて、その姿を、清楚に咲く一輪の水仙(narcissus)の花へと変えてしまいました。


このように、ナルシシズム(自己愛)やナルシスト(自己陶酔者)の語源は、古代ギリシア神話の美青年ナルキッソスの逸話(エピソード)にありますが、精神医学分野で『自己愛(narcissism, self-love)』という用語を始めて使用したのは分析家のヘイベロック・エリス(Havelock Ellis)だと言われています。


精神分析学の始祖であるシグムンド・フロイト(S.Freud, 1856-1939)は、性的精神発達理論(リビドー発達論)の見地から、ナルシシズムを『乳幼児期の正常な自己愛』と『思春期以降の異常な自己愛』に分けて考えました。


★S.フロイトの一次性ナルシシズムと二次性ナルシシズム


“母子一体感に基づく幻想的万能感”が強い男根期(4~5歳)以前の一次性ナルシシズムは、発達過程で生じる必然的なものです。


一次性ナルシシズムは、母親と自分とが物理的にも精神的にも異なる人間であることを認める時に生まれる『母子分離不安』を弱めようとする防衛機制の一つですが、母子分離不安を完全に脱却するには児童期(6~12歳)の終結を迎える必要があると考えられています。


対象関係や社会的要因を伴わない一次性ナルシシズムは、自分の性的身体そのものを愛する『自体愛』としての特徴を強くもっています。


マーガレット・S・マーラー(1897-1985)の乳幼児期パーソナリティ発達理論では、『分離・個体化期(separation-individuation)』は生後5~36ヶ月(3歳頃)と定義されているので、母子分離不安が高まりやすいこの時期に一次性ナルシシズムが芽生えてきます。


S.フロイトは、正常なリビドー(性的欲動)の充足対象の変遷として『自体愛→自己愛→対象愛の発達ライン』を考えていたので、異性に性的な関心が芽生えてくる思春期以降の二次性ナルシシズムは『病的な性倒錯』であると主張しました。


思春期や成人期にある男女が、自分の持つ魅力(属性)に自己愛的に陶酔したり、自己の性的身体を自体愛的に欲望するのは、リビドー発達が障害された結果としての性倒錯であり、成人の持つべき生殖能力を失わせる『幼児的な部分性欲への退行』であると言うのです。


フロイトは正常なリビドーの発達過程として『自己愛から対象愛への移行』を仮定し、そのリビドーのベクトルの移行過程を『本能変遷』と呼びました。


本能変遷とは、誰かと関係を持ちたいという人間の本性的欲求のベクトルが『自己→自己外部の家族→家族外部の他者(異性)』へと移行していくことを言います。


人間は本能変遷によって、『閉ざされた家族関係』から『開かれた社会関係』へと行動範囲を拡大し、人間関係の発展と社会参加(責任の履行)によって心理社会的な自立を達成していくのです。


思春期から成人期にかけて生起する病的な二次性ナルシシズムは、自己の才能に耽溺し、他者の魅力に関心を抱かないだけでなく、自分の能力や実績を賞賛しない他者を排除する不適応行動へとつながっていきます。


フロイトは、他者と対等な人間関係を結ぶことができない二次性ナルシシズムの成立を、早期発達段階(心的外傷を受けた年齢)へ幼児的な逆戻りをする退行(regression)と固着(fixation)の防衛機制の働きで説明しました。


二次性ナルシシズムは、正常な男女の性愛と心理社会的自立を阻害する発達上の病理であるというのが正統派精神分析の見方であると言えます。


二次性ナルシシズムは、自己愛性人格障害の主要原因の一つと考えることもでき、二次性ナルシシズムの原因としては『過保護・過干渉・甘やかし(他者依存を強化するアプローチ)』と『無視・拒絶・暴力(自己否定を強化するアプローチ)』という正反対の原因が想定されていますが、どちらも子どもの精神的自立を障害する作用を持つという点では共通しています。