松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

松野哲也


1942年横浜市生まれ。

国立研究機関でインターフェロンの作用機作、ウィルス・化学発ガン、ガン胎児性タンパク質、腫瘍細胞ののエネルギー代謝機構、抗ガン物質検索などの基礎医学研究に従事。1996年渡米。コロンビア大学ガン研究センター教授。現在は退職しニュージャージーでノエティック・サイエンス研究室主宰。


自らのガン治癒体験をふまえて、ガンになった方からのご相談に応じています(ご希望される方は下記のメールアドレスにどうぞ)。


また日本・米国での講演活動も行っております。少人数でも会場を用意して頂ければお話しさせていただきますので、お気軽にお問い合わせいただければと思います。


著書に「ガンはこわくない」(中央アート出版社)、「癌では死なない」(ワニブックス)、。「プロポリスでガンは治るのか!?」(中央アート出版社、) 「がんは誰が治すのか」(晶文社)、「病気をおこす脳病気をなおす脳」(中央アート出版)など。




連絡先t.m.noetic@gmail.com


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魂は体外にあるのだろうか(3)

 
 Kama-Glin-Pa and Walter Evance-Watz ” Tibetan Book of the Dead”(『チベットの死者の書』)で「魂」は生命存在、死、心の本性、再生のバルド(途中、過程あるいは中間という意味)を辿る「イー・キ・ルウ」という肉体を持たない意識だけの身体として捉えられます。死の直後、生命活動が解体を始めると、意識は思考や感情から解放され全く自由で、純粋で、裸の状態に近づき、自らを強烈な光や色彩のパターンとしてあらわすようになるというのです。
LSDを服用したときに視られる「バーチャル・リアリティ」と共通項をもつものと言えましょう。
 同書は山中に埋めて隠されていた原典である高度なゾクチェン密教に属している秘教的な書物『バルド・トドゥル』の一部を、チベット語がわからない訳者がヴェーダ―ンダ哲学の知識をもとに神智学的、オカルティズム的アプローチによって解釈したものとも言われています。
 そのせいか同書はユングの興味を喚起し、1930年代のヨーロッパ思想にも大きな影響を及ぼしただけでなく、その後、ベトナム戦争の泥沼に入り込んでしまったアメリカのニューエイジ・ムーブメントに携わる若者たちの聖書ともなったのです。


 これより古い『太陽と月の結合』タントラ(その一部の英訳がGiacomella Orofino ”Sacred Tibetan Teachings”です)では、古くからの死の教えがゾクチェンの瞑想的な教えと結合を果たしています。


 大脳を異常に発達させた動物である、私たち人間は、そのことによって幻想の能力を発達させてきました。幼児でも鏡をみて、幻想の自分のイメージを作り上げるといわれています。人は美に強い期待を抱きます。それは美(容貌あるいは肉体美。その基準には大きな個人差がありますが)がセックスや恋愛では大きな役割を果たすからです。人間には無意識的な記憶にもとづく感受性のパターンがあり、自分の生存を守るのに欠かせないものだといえそうです。
そのために、人間という生命システムのなかでは、「心の本性」が躍動しているのに、幻想と言語(概念)の仕組みによって、実在をみることなく自分にとっての「意味ある世界」を生きることとなるのです。
ダニには目も耳も味覚もありません。ダニは皮膚の明度覚を使って動き、嗅覚、温度覚を使って獲物から彼らにとって意味のある血を吸います。この三つの感覚によってつくられる世界像は、はるかに複雑な器官をもつ高等動物の世界像に比べれば異質のものといえるでしょう。また、カエルには色彩のある形といったものはなく、近づく女性が美人か不美人かあるいは男性の場合は、イケメンかどうかを区別できないし、その必要もありません。

要するに、人間もダニもカエルも「途中」であるそれぞれの「バルド」を生きているのです。
「意識存在は、すべてランシン・バルドにあり、そこを出ることがない」。- ゾクチェンはこのように説きます。

 具体的な例をもう一つあげましょう。視覚は、ものの裏側や欠けた部分を、それがあるかのように思いこむことによって成り立っています。それを実際に見ないことによって、ものの形が判断できるのです。紙面に空白があることによって、文字も判読できます。その意味では、私たちは自分が作り上げたイメージを、あたかもそれが実在するかのように思いこんでいるだけであり、本当は「存在の現実」を見たり感じたりしてはいないのかもしれません。だとすれば、日常の常識的世界像こそ「幻想」そのものということになります。 
要するにこの宇宙は巨大な夢の集積体ということになるのでしょうか。
 生きてランシン・バルドの中にある間、私たちは「心の本性」に触れることがありません。それができる稀有の機会が「死」であるとチベット哲学は説くのです。


 『太陽と月の結合』タントラの一部を引用してみましょう。
 説者(ドルジェ・チャン)はこう語ります。


 肉体をもってこの世界に生まれたものにとって、生とは夢のように儚いものだ。生とは水のように定めない。また生とは風のように掴み難いものである。
 人には死というものが訪れる。物質的元素の集合体としてつくられている身体は生の終わりには解体される。そのとき人の意識(マナ識)は透明な光に溶けていく。肉体の感覚器官に結び付けられていた物質的ヴィジョンが消え去って、夢と同じような「意識の思考」だけがあらわれる。光のヴィジョンとなって。
 光はすべてを満たし尽くし、波動が充満し、それを押してみると圧縮され、押す感覚をやめてみれば、またもとどおりに拡大していく。
 その色彩は透明な輝きに満ちて、色彩の混合は全くおきていない。あらゆる方向に向かって、光はまっすぐに伸びていく。
 つぎの生がどのようなものになるかは、定かではない。様々なヴィジョンが瞬間的に現れては消えていく。それをバルドの状態と呼ぶ。
最後の瞬間に人は再生する次の形態への変容を遂げる。次の再生がどのようなものになるか、この瞬時にわかる。自分が生まれる世界の生き物や環境のヴィジョンがありありと現出するからである。


 この場合、「魂」は「意識」そのものなのです。量子力学では、粒子の状態は観測することによってはじめて決定されます。はだかの物質、つまり何の解釈も入っていない物質いわゆる原物質というものは存在しません。物質とは、必ず人間の心によって解釈・意味づけがなされたものといえましょう。そこで、物と心は意味を介したひとつのリアリティとしてのコインの裏表であり、その背後には根源的なリアリティがあるという考え方も成り立つのです。
雰囲気、気分、表情、情景といった言葉には、共通する特徴があります。それは、外的世界を描写しながら、同時に個人の内面をも捉えていることです。このように、心的なもの、身体的なもの、世界的なものは、ひとつに融合します。逆にいえば、すべてを包含した「存在」の流れが、すべてを生かし脈動させているといえるかもしれません。これこそが、人間にとっての内面的な自然であり、生命なのです。
人間の知覚がある一定の時間と感覚をもとに、「生きているもの」と「死んでいるもの」とを相対的に区別しているだけかもしれないのです。
世界としての自然は、ニューロンという変換器を介した脳のメタファーと考えることもできるのではないでしょうか。それは、1個の巨大な脳がつくりだしたイメージの投影でもあるのです。
その意味で、魂が身体に出入りするというのは、ゾクチェンがそのようなメタファーを使わなければ表せないような深遠で究極的な洞観に基づいているからではないでしょうか。


 ゾクチェン哲学のオートポイエシス(生命の自己組織化)がゴオウ(本体)から踊り出すリクパ(叡智)を始点とするのはそのためと思われるのです。
死にゆく人の枕元に座るチベット僧は死者の耳元で「赤くイメージされるゴオウには入らないように」と言ったそうです。そこに入るとまた生まれ変わるから。そして、うすぼんやりしたイエシェに入るよう誘導するのです。再生しないように。それはゾクチェン哲学そのものではなく、それを通俗的に解釈した僧のパーフォーマンスにしか過ぎないものと思われます。

続く
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魂は体外にあるのだろうか(2)


 正月になると何となく神詣でする日本人は今でも何百万いや1千万あるいはそれ以上もいるらしい。
 私は神社というと、霊を祀る。そしてお祭りのことを思い浮かべます。

追号を以って死後の称号とするのが常であった当時にも関わらず、漢風諡号を奉られた天皇がいます。崇徳・安徳・顕徳(のちの後鳥羽)・順徳の四帝です。
これら四帝の共通点は全て内乱に敗れ畿外で崩じている点です。

崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子として誕生するが、様々ないきさつで政治の場から遠ざけられ、鬱屈した日々を送るようになる。不満を募らせた崇徳上皇は保元の乱をおこすが、罪人として流刑を受け、失意のうちに悲運の生涯を閉じたといわれています。
崇徳天皇は怒りと絶望のあまり、舌をかみ切り、「日本国の大魔縁になる」と言い残し(経典に血で記したともいわれている)、生きながらにして天狗となり、その後も怨霊となって人々に恐れられたと記されています。真偽のほどは分かりませんが。
では、なぜ崇徳天皇=怨霊が定着したかというと、彼がなくなってから後鳥羽上皇の身内が相次いで亡くなった(白河天皇の第一子・二条天皇は23歳で、保元の乱で後白河法皇方の重鎮であった近衛基実は24歳で死去)。京の都では竜巻のような強風が多発するとか、社会情勢が悪くなり、治安が大きく乱れました。 
このようなことが最大の原因とされ、崇徳天皇は祟り神とされ、災いを鎮めるために鎮魂の対象となったと思われます。平将門、菅原道真とともに日本三大怨霊とよばれるまでに恐れられる存在となってしまったようです。

 考明天皇の遺志を継ぎ、明治天皇は白宮神宮を創建し崇徳天皇の神霊を祀った。後白河院が崇徳天皇の怨霊を慰めるために鴨川の東に建立した栗田宮のお祭りはみこしの先棒争いをして豊作豊尭を祝うものだそうです。
 梅原猛氏が言っていたと思いますが、本当は「魂」に思う存分暴れて気を晴らしてもらい、落ち着いたところで願い事を聴いてもらうという発想があったのではないでしょうか。

 切られた首がはるか彼方まで飛翔したと言い伝えられる平将門は、神話の神である大貴命、小彦名命とともに神田明神に祀られています。そこで行われる神田祭は日本三大祭りのひとつだそうです。

 このような祟りとは関係なく、歴史上の故人あるいは神話上の神の霊を祀った神社は数多くあります。

 まさに日本人は、プラトンが『パイドン』で説いた霊魂不滅説を当たり前のように受け入れているのです。縄文時代を遡る古代からのアニミズムにみられるような生命に対する捉え方に起因するものと思われます。日本の古代人は動物や木の精とも対話していたのではないでしょうか。
 日本人ほど清潔を好む民族はいないようです。それが禊にもつながるのでしょうか。欧米人には雑音にしか過ぎない虫の声を聴いて情緒にひたれるのも日本人の特性です。人殺しの武器を振り回しても、それは「道」に立脚したものとなります。日本人はそのような精神構造を備えているように思われてなりません。



私は小学生の頃、雨戸がどしんといった異様な音をたてて衝撃を受けたのを聞いたことがあります。そのとき親類が亡くなったそうです。
 大学院に入った頃のことです。当時は駒場の教養学部・化学教室で実験を行っていました。夜遅くなったので、横浜に帰るよりもと思い、北千束にある叔父の改修中で誰も住んでいない家に泊まりました。夜中に何かを察知し、起きて見に行くと、白いボールのようなものが転がって押し入れに入ったのです。明らかに猫とは違いました。ある霊能者にそのことを話すと、それは洗足池の水神の霊なのでお祀りするようにと言われたことがあります。
 『新生地球の歩き方』(キレイ・ネット)の中で、山内尚子さんは8年前に亡くなられたご主人の声をはっきりと聴き、彼の手が身体を触るのを感じ、エネルギー的に「一緒になった」と述べられています。対談者の川田薫さんは「魂」には重量があると言われます。そのようなことを言ったイギリス人もいました。

続く
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「魂」は体外にあるのだろうか(1)

 「血」は動脈と静脈を通って流れます。動脈を示す英単語arteryはラテン語のarteriaですが、元来は古代ギリシャ語に由来します。そしてそのもとの意味は何と「気管」。更に語源を辿れば空気(air)と同根なのです。これに対して静脈のveinははじめから「血」とか「水脈」を意味します。動脈は気管で、静脈が血管という奇妙な言い方はどうして起こったのでしょう。
 古代の西洋医学において有力だったアレクサンドリア学派の医学者たちは動脈には一種の気体が流れ、静脈には血液が流れると考えていました。この学説はコース学派の医聖・ヒポクラテス以来の大医学者と言われるガレン(ガレノス)が出るまで四世紀以上にもわたって定説だったのです。ヒポクラテスは学説というよりは医術の人でした。彼は発熱した患者の身体を温めて治療したこともあると文献に記されています。

 血液そのものに関して古くアリストテレスは、「血液は栄養。それは液体か固体で、それらが熱の力によって調理され変化を受ける」云々といったように現代の生理・生化学における代謝の概念の萌芽ともよべるような記述をしています。

アリストテレスは、おそらく幼い時から、生き物には、天才的な眼光を煌かせた博覧強記の人だったと思われます。彼の分厚い著作がそれを物語っています。彼の『動物誌』には言葉はでてきませんが、明らかにミツバチと関連したプロポリスにまで言及した文章が見られます。
彼は生成・消滅してやまない多彩な自然物の中には、どうしても「生」という言葉を冠して呼ばざるをえない自然物とそうでないものとが区別されると深く観得していたものと思われます。
生個体を生個体たらしめている根本は、この形ある動きに自己を現実化しているある何者かがあるからです。生き物を、そうでないものから見分けさせているのは、帰するところ、この或る「生の原理」とも呼ばれて然るべきものだったのでしょう。
このあるものをアリストテレスは「霊魂」(プシュケ)と呼んでいます。
私たちの目の前に茂る草木や、その下を走り回る動物は、それぞれに霊魂と身体との結合体、理論的には「形相―質量結合体」なのです。


 アリストテレスの死後(紀元前322年)まもなく、アレクサンドリアには解剖学の父と呼ばれるフェロフィラスと、生理学の父と呼ばれるエランシストラトゥスが現れ、極めて有力な医学の中心ができました。
 
ヘロフィラスは、公開で人間の解剖を行った最初の人との記録があります。脳の機能を把握し、神経の性質も知り、動脈と静脈の区別も認めていたそうです。

一方、エランシストラトゥスの生物観はアリストテレスのそれを逆転したものでした。アリストテレスは先に述べましたように霊魂を内在的に考えていました。
彼はそれを体外にある諸力と関係があるとみなしたのです。
エランシストラトゥスは人間の体内を走る3つの枝脈状のものに注目し、人体内のすべての器官はこの3種類の管状物から成り立つと唱えたのです。つまり静脈、動脈、神経である。「静脈」は血を体内に運ぶ(アリストテレスは、血は食物が肝臓で処理精製されてできたものであり、それは心臓に送られると唱えました)。一方、空気は肺によって体内に取り込まれ、心臓に送られて特別な気体、つまり「生気」に変えられ、これが「動脈」を通じて体内に送られるとしたのです。この「生気」は脳に行くとさらに精妙にされて「霊気」となり、これが「神経」によって体の各部に送られるとしたのです。
 彼はこのような人体観に基づき治療を行い、相当の効果を上げたと言われています。当時は瀉血法が盛んで、ほとんどどのような症状に対してもこれが行われていましたが、エラシストラトゥスはこれを行わず、むしろ保健を重視したそうです。具体的には適度な運動と節食と蒸気風呂であったそうです。食薬一如、養気摂生の古代西洋版といえましょう。

生命の根源的なものが体外にある、という見方に立てば、俄然、人間の呼吸というものが重要になります。というのは不断に人間の体内に出入りするのはまさに息だからです。ここからエランシストラトゥスの思想、及びその系統に繋がる思想はニューマティズム(pneumatism)と呼ばれるようになりました。精気説、気霊説です。プネウマ(pneuma)は「ぷうー」と吹くときの音象徴を語源としています。


ところが、これより先、ターレス、アナクシマンドロス、ヘラクレイトスと並んで前6世紀、小アジアの地中海岸のイオニア地域に発生したといわれるイオニアの自然科学思想を代表するアクシメーシスは「『気』が存在するものの原理である。なぜなら、それから一切のものが生成し、また一切は再びそれに消滅していくから」、「我々の魂は『気』であることによって、われわれ同志を結び合うあたかもそれに似て、プネウマ(気息)すなわち『気』は全世界を包む」と『断章』で言っています。

この観念は、古典ギリシャの自然学者たち、わけてもストア派の自然観では、生命(いのち)を問題とするときに、いろいろな姿で登場してきて、生物学や医学の基本概念の一つとなるという点で、マクロコスモスーミクロコスモスの思想の根底となりました。



 エラシストゥスから約四百年して現れたガレンは、アレキサンドリアにも学び、地中海周辺の医学のすべてを習得したと言われていますが、彼の本領は独自の解剖にありました。彼は「動脈」は「気管」ではないことをつきとめまたのです。これは画期的な発見であり、彼の医術は16世紀までも用いられたと言われます。彼の著書は19世紀まで研究されていたそうです。
 
 ガレンは哲学的にはアリストテレス的だったと思われます。しかし解剖学的には驚くほどエラシストラトゥスの見解を踏襲していました。動脈には気体ではなく液体である血液が流れているとしたのは大発見でした。しかし、彼はそれでもやはり「気」はそこにあると考えたのです。
つまり、肝臓によってつくられ、静脈によって配給される自然の気、つまり「自然精気」、心臓によってつくられ動脈によって配給される「生命精気」、神経によって配給される「動物精気」といった記述がそれを示しています。
気は解剖学的には目に見えません。しかし解剖学的な存在の背後に、それを生かしている何者かがあることを想定せざるを得ず、エラシストラトゥス以来の「気」の説を作業仮説として用いざるを得なかったといえるのではないでしょうか。この仮説はその後十数世紀にわたってキリスト教及びイスラム教ヨーロッパにおいて支配的だったのです。


生命の本質は変化です。その変化は<気>によって生じるのではないでしょうか。つまり、生命は。常に気のバランスをとろうとして変化をつづけるプロセスだということができます。しかし、20世紀後半にあって、「生気論」は生化学や分子生物学の台頭により精彩を失いました。それを公言することは、非正統的であり、排斥されるべきものでもあったのです。
 

パスツール研究所長だった分子生物学者のジャック・モノ―は「遺伝暗号の理論は生物学の本質的な基礎をつくりあげることとなる」、しかし、「もちろん、このことは、生体の構造や複雑な機能がこの理論から演繹可能であるとか、さらにはそれらが分子の尺度でいつでも直接分析できるといったことを意味しているのではない」、また「今日、DNA暗号理論が生物圏すべての問題を予見するとか解決したりすることは不可能であろう」と述べています。生命的自然における個的形態の形成ないし造形に係る問題は同理論では対応できないと言うのです。


人間が「気」の説を考えずに、「血」のことを考えるきっかけとなったのは、何といってもウイリアム・ハーヴエイの血液循環論(1629年)です。ここにおいて動脈と静脈の血液は同じものであり、血液を動かすのは心臓であるということが明確にされたのです。ここで明らかになるのは「心臓と血液」の関係が「ポンプと水」との関係に還元されたことであって、当時ますます有力になりつつあった機械的宇宙観とも合致していました。
そして西洋医学はこの線で進んできたように思われます。心臓は人間の作ったモーターによって代用され、弁膜も血管も人工あるいは再生医療でつくったものが天然のものに変わりつつあります。血液も人工血液で間に合うのです。
このように考えると、西洋医学の歴史とは、「自分」から「自分の身体」を切り離していくプロセスだったとも言えるのではないでしょうか。


血液の循環はハーヴエイ以来の生理・解剖学の説明でよいでしょう。しかし人が怒ったり、恥ずかしがったりしたときに顔が赤くなるのはどういうわけなのか。赤くなるのは顔への血液の供給が少し増加することによって起きます。
しかし、「恥ずかしい」と思うのは、全く血液循環を物理的に左右する因子ではありません。しかし現実に恥ずかしいと感じた時には顔が赤くなるのです。今の科学はこれに答えてくれません。「科学」といっても説明できるのはほんの一部なのです。それでは無知と大した変わりはないように思えます。
「自分」が血液循環に参加・関与し、「気」の働きの介在を経て血液に影響を与えると言ってはいけないのでしょうか。

熟睡者と死者は一見よく似ています。どこが違うかと言えば、夏の暑い時に、何時間眠っていても腐りださないのに、死体ならば腐臭を発し、ハエが来ることでしょう。両者の外見的な違いは呼吸だけなのです。魂は呼吸と離れがたく結びついているので、その魂は人間の身体の中に自在に出入りするものと古人が考えてもおかしくはありません。



プラトンは不滅の霊魂は人間の体外にあるものであって、それが誕生時に人体と合体すると言いました。それは彼の直覚的洞観というよりむしろ古代に広く行き渡っていた信念を代弁したものと言ってもよいのではないでしょうか。
本当の「自分」が一種の「気」を内蔵しているという立場に立てば、それは先に述べたように現象に参加することができます。逆に自分の魂が肉体の外にその存在の根源を持っていたとすると、「自分」と外との関係もずいぶん違うものとなるに違いありません。その場合、人間の魂は、森の精や水の精とも親密なかかわりをもつのではないでしょうか。

生まれる前も存在していた霊魂が死後に消滅するはずはない。かくしてプラトンは肉体とは別に存在する不滅の魂の存在を説いたと思われます。つまりプラトン的な考え方は、アリストテレスが出てくるまでは地球の方々にあったと推定した方が無難なのではないでしょうか。

西欧の哲学はプラトンの注釈にすぎないといった人もいます。
プラトンの思想は「実在論」(リアリズム)といわれます。プラトンは自分のアカデミアの後継者に、その後「唯名論(ノミナリズム)」を説くアリストテレスではなく、スぺウシッポスという甥を選んだのでした。
ローマ帝国がキリスト教を公認した際に哲学として採用したのがプラトンの「イデア論」です。「魂」は「神」に置き換えられました。

それに反してアリストテレスの思想はキリスト教にとって不都合だったので、ヨーロッパから追放され、アラビア語に翻訳されてイスラムに伝わることになりました。しかし、10世紀になると十字軍遠征を契機として東西の貿易と文化交流が盛んになり、当時イスラム支配下にあったスペインの首都トレドでイスラム神学者とユダヤ教のラビによってアラビア語のアリストテレスの著書がラテン語に翻訳され、12世紀にヨーロッパ各地でできつつあった大学でその著書の注釈が行われます。それがスコラ哲学といわれるものです。
古代ギリシャにアリストテレスという偉大な哲学者がいたということは驚きをもって迎えられ、その影響は画期的なものだったそうです。一世紀の間、アリストテレスの著作はヨーロッパから失われていたのです。


古代ギリシャの賢人たちは、「広大な宇宙」に思いをはせ、今日の「原子」といった概念を打ち立てました。また、自然的生命の発現を「生成」(ポイエーシス)、いってみれば種から茎、葉が生じ、花を咲かせ、散っていく生命現象として観察し、その真相を把握・理解しようとしたのです(プラトンによれば、同語は「あるものがまだそのものとして存在していない状態から存在(on to)へと移行することについての一切の原因)」のことを指します)。


時代は移り、ニュートン力学を超え、電子や原子といった目に見えないものを扱う量子力学が20世紀に誕生しました。その基盤となったのが東洋思想です。
エルヴィン・シュレジンガーはヒンズー教の「ヴェーダンタ哲学」に深い興味を示し、彼の波動方程式が東洋の諸原理を記述していると述べ、著書の中で言っています「一切の精神は一つであり、私はあえてそれが不滅だと言いたいのです。西洋の言葉でこれを表現することはできません」。
ニールス・ボーアは「我々は仏陀や老子がかって直面した認識的問題に向かうべきである」と言っています。彼はナイトに叙せられたとき『易経』に由来し、道教で重視された「陰陽対極図」を家紋としました。
「ボーム・アラハノフ効果」を見出したデイヴィッド・ボームはクリシュナムルティと親交を深め、あの世に対応する「暗在系”Implicate Order”」を提唱しました。

なかでも殆ど知られることのない14世紀のチベットで大成されたゾクチェン哲学はまだ現代科学にとってはとりつく島のない「宇宙の根源」と「生命の創出」を説く未来的な可能性を秘めたどこにも類似のものがないような独自の思想体系なのです。

今の科学は「生命」がどのように生じるか全くわかりません。ましてや「病気」とは何であるかも。科学は生命をつくれません。操作することはできますが。科学をつくったのは生命なのです。
私が生命の自己生成・組織化(オート・ポイエーシス)に同哲学を引用したのは、それが古代のギリシャ哲学者をはるかに凌駕した深遠で究極的な直覚的洞観に基づいたものだからなのです。


続く。(4)まであります。

 松野
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深夜の雑感


 私は12時半頃就寝したのですが、夢をみてから、夜中に目を覚ましました。時計を見ると3時でした。
この際、「夢を見たら不思議な夢だと思い、何でこのような夢を見たのだろうと考え始めると同時に意識活動が盛んになり目が覚めた」というのが私の言う「意味の病」です。勝手な理由をつけて理解しようとする脳のくせを指したものと言えるでしょう。

 覚者であり著名な思想家として知られるクリシュナムルティは、私たちの思考が条件づけられているので、これを解除しなければならないと説きました。
 しかし、彼はすい臓がんが発覚したとき、「自分は何か悪いことをしたのだろうか」と言ったそうです(清水友邦『覚醒の真実』から)。彼も「意味の病」から抜け出ることはなかったと思われます。生身の人間として生きたのですから。 
 ロンドンで彼をケアする医師から、講演会の知らせをもらったことがありますが、私は彼に会ったことがありません。カセットテープに録音された彼のスピーチを聴いたことがあります。後方でおしゃべりをしている人に大きな声でやめるよう注意していました。長年彼と接した女性の書いた本によると彼はひとりの女性にもハグしなかったそうです。彼女とさえも。

 私は「意味の病は治らないが、がんは治るべくして治る。それは目的ではなく結果である」と思っています。

 
 眠れないので、コーヒーを飲むことにしました。私は夜中に眠れないとよくコーヒーを飲むのです。高校生の頃から濃いコーヒーを飲むのが好きでした。コーヒー中毒なのかもしれません。
 今まで一番おいしかったコーヒーは「天然物薬理」(天然物とは天然の化合物のことです。ある女性編集者はこれを「天然もの」と読んで、こういう言葉を使ってはいけないと指摘されたことがあります。天然物有機化学という単語はあるのですが)と題するイタリア南部の保養地マラテヤで開催された極めて小規模の国際会議に出席し、ホテルで朝食の際飲んだものでした。ウエイターが片手にコーヒ-、もう一方の手にミルクのポットを持ち、こちらの言う通り注いでくれるのです。もちろん私はミルクなしでした。
 
 講演のハイライトは私の「プロポリスから単離したPRF-1 (1)の抗腫瘍作用」と共同研究者で当時ハイデルベルク大学・薬理学研究所にいたネパール人のバスネット博士の「プロポリスに含まれる抗糖尿病活性を示す化合物(2)の化学構造決定」でした。当時、私は夢の抗ガン剤開発を目指していたのです。まだ化学構造もわからない同物質が本命ではなかったのですが。その化合物はガンの治療、予防のどちらに使うことを考えているかという質問に、bothと答えたのを覚えています。

バスネットさんとハイデルベルグ大学構内にて
7/20


 
 会議が終わった懇親会の食事のとき、隣のテーブルに着いた車で来たハンガリーのグループにワインのボトルを提供しました。私は日本での極度の飲酒がたたって肝臓に問題がありました(このときも携えていたのですが、自分で調製したプロポリス抽出液を飲むと、異常高値を示すALT,AST,γ―GTPは3ヵ月以内に基準値範囲内に収まりました)。列車で来たそうですが大学の宿舎で瞑想を欠かさないバスネットさんはアルコールを飲まなかったのです。
 そして、以前ハンガリーから日本へ鳥類に肝臓がんを誘発するMC-29というウイルスを送ってくれたセメルワイス大学のラピス教授と、それを確かめに(彼が送ってくれたドライアイス中で冷凍保存したウイルス液は粗末な発砲スチロール容器の密閉度が悪く溶けていました。実際には日本の大学に留学する大学院生がシベリア鉄道経由で持ってきてくれたのです)学会出席を兼ねて私の研究室を訪れた美人のハンガリー科学アカデミーのマルガリータ・タラス室長のことを尋ねると、二人ともまだ当時の職についているとのことでした。
 ラピス教授のことを知ったのは、彼がアメリカで行った実験を”Cancer Research”という雑誌に発表した論文を私が読んだからです。彼から贈与された上記ウイルス(ブルガリアで分離されたものです。後に私の論文を読んだブルガリアの研究者から私のところに留学したいという申し出を受けたことがありました)で誘発した肝臓がんが私のがん研究の最初の実験材料となりました。 
 彼は私をコロンビア大学につなげてくれたグルンバーガー名誉教授の友人でもあり、家にも泊まったことがあるそうです。世の中狭いものだと彼の妻マルタが言ったのを思い出します。グルンバーガー博士(私の共同研究者でもあるポーランドのシレジア医科大学・シェラー教授は彼の姓のuにウムラルトがないので、すぐユダヤ人だとみぬきました)は大腸がんを患っていました。亡くなったのは抗ガン剤の副作用によるものと私は捉えています。
 バスネットさんは母国に戻り、大学教授と研究所所長を兼任したそうです。手紙には赤ちゃんの写真も同封されていました。 

 彼が単離し、命名した化合物をアメリカのある製薬会社に化学合成してもらいました。しかし同物質に彼がいうような強い活性酸素除去活性はみられませんでした。彼に測定してもらった私のPRF-1も。彼が読んだ測定法を書いた論文(3)に何らかの問題があったものと思われます。
 乳がんが消えたり、骨転移ガンがなくなったりする現象にPRF-1が関与したと思われる症例を私はもっています。

左から妻(のり子)、グルンバーガー博士、彼の妻・マルタ
7/20

ハイデルベルグ大学薬理学研究所で所長・ナイドレイン(Neidlein)博士と
7/20


 私は秋、日本に出向く前にNYで講演をと思い、今までとは違った会場である日本クラブの一室を借りられないかと、同クラブの会員の方のことを思い出し、そのご婦人にお願いしたところ、医師会の反対に遭いキャンセルとなりました。
 同クラブの会員である医師たちにも参加して頂きたかったのですが。

 講演は:9月10日。Global Labo, Inc. ( 545 8th Avenue, Suite 1410, New York, NY Tel: 212-921-8788)。1:30~4:30PM となりました(連絡先:umishinnju@gmail.com (海谷菜央子))。

 英語での講演を希望される方も多いのですが、今のところその予定はありません。

 今年の春。盛岡で講演させて頂きました。先程の清水友邦さんと奥さんのプラダ・ヒサコさんの主催によるものです。
 この時使ったスライドを非難する方はいらっしゃらなかったようです。終わってから会場外で個人的ご質問に対応させて頂きましたが、後ろから 「オナニーしていたらガンが治った」とかいう声が聞こえましたし、「ガンで死ぬならば、クルーズに出かけてからにしようと旅を目一杯楽しまれ、ガンが治ったのはよいのですが、お金がなくなってしまい困っているご夫婦を知っている」と教えてくださった方もいらっしゃいました。


 山崎辨榮『無邊光』の序文で、数学者の岡潔は「人は生きている。だから見ようと思えば見える。見ようと思えば見えるのは何故であるか。果たして自然科学はこれに対して一言も答えることができない」と言っています。物質現象のごく一部しかわからないというのでは全くの無知とあまり変わらない。そして、「唯識」に言及し、それに類する説をそのまま信じようとも思わないが、釈尊に聞くわけにもいかないのでと言って、僅か四年足らずという史上最短距離で仏眼了々と開いて見仏し大正9年に亡くなった彼を紹介するのです。

 レモンや梅干をイメージしただけでも唾液が出る。性的に興奮すると、身体にも様々な変化がおきる。私はこのような現象はゼロ・フィールドに繋がることにより、フィードバックを介して肉体の変化として現れるものと理解しています。 

 快感を味わう、感動する、直観的に感じとるといった意識活動が同フィールドの深部に繋がることにより<運>が変れば、抗腫瘍免疫態勢も誘導される場合があると私は捉えているのです。



 私たちは脳を介してものをみるので、私はすべてが幻想、妄想だと思っています。要するに私たちは夢の夢のまた夢の世界に生きているのです。ですから、私の話などただのたわごとにしか過ぎません。


Reality is merely an illusion albeit very perfect one.
(実在は完璧なものにみえようとも、ただの幻想である)
 アインシュタインの言葉です。彼は対談の時など母国のドイツ語で話しました。彼の臨終の言葉は誰も知りません。付き添っていたナースは彼が発したドイツ語が分からなかったからです。ですから、albeitをドイツ語由来だと勘違いし、アルバイトなどと発音してしまうことが多いようです。本当は オール ビー イッツ です。

 ガンで問題のある日本人の奥さんとアメリカ人のご主人がマンハッタンからタクシーに乗って我が家に相談にこられたことがあります。英文で作ったスライドをベースメント(地下室)で観て頂くことにしたのです。彼はこのアインシュタインの言葉を大きな声で復唱していました。


 もう夜が明けました。頭は朦朧としています。
支離滅裂な脈絡のない文章となってしまい申し訳ありません。昔のことを思い出しながら書いたものですから。呼び出された記憶は、夢と同じに向こうの世界からやってくるので、論理的に取り扱うことができないのではないでしょうか。



1) T. Matsuno, C. Chen and P. Basnet
A tumouricidal and antioxidant compound isolated from an aqueous
extract of propolis
Med. Sci. Res. 1997: 25, 583-584

2) Purusotam Basnet, Tetsuya Matsuno and Richard Neidlein
Potent Free Radical Scavenging Activity of Propol Isolated from
Brazilian Propolis
Z. Naturforsch. 52c, 828-833 (1997)

3) Hatano, T et al.
Chem. Pharm. Bull. 37, 2016-2021 (1989)
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テーマ:
本の表紙

こんにちは。

昨日も書きましたが、きれい・ねっとさんから『ゼロ・フィールド・システム』を出版していただきました。

きれい・ねっとの山内さんをご紹介してくれたのは、六甲にあるサラシャンティを主宰している清水さんです。とても良い出会いになりました。感謝です。


今日は、この本を書いた経緯について、私の気持ちを少しお伝えしようと思います。


私はガンは自分でなければ治せないと思っています。必要な場合は、身体に大きな損傷を与えない外科手術等の医療処置を利用されるのは一向に構いませんが。
現代医療にとってはガンだけを除去するか殺すことが治療とみなします。自己治癒力を引き出そうという考えが全くないのです。
免疫力が低下しているからガンが発症したのに、免疫力を下げるような治療を行っても再発するのは目に見えています。効かない抗がん剤で命を落とす例もあとを絶ちません。
私は日本に居た頃、大学病院の医局員や大学院生の学位をとるお手伝いをしたことがあるため、上司や教授の挙動を目の当たりにしました。彼らには命を預けられないと思ったものです。
私のところには、患者さんあるいはそのご家族からご相談が寄せられます。このような方たちとは電話でお話ししますが、なかなか言葉では通じないのです。
気づきをもって情動が強く動かされることは治癒を導く大事なことですが、これは言葉では説明できません。そのような訳で本を出すことにしました。
ゼロ・フィールドやオートポイエシス(生命の自己創生・組織化)についての記述は、一見難解で訳が分からないと思われる方もいらっしゃるでしょう。これは、宇宙の摂理を感じ取る際のヒントとなると思い、敢て記述することにしたのです。
私はガンを治すのが目的で生きるのではなく、よく生きるよう一変された方に治癒が導かれるように思えてなりません。
日本の心身医学のパイオニアである故・池見酉次郎教授は「ガンの自然治癒は実存的変換をとげた人にみられる」と言っています。
一見難解で読者を選ぶようなものになってしまったかもしれませんが、本書は私のこのような気持ちから生み出されたものなのです。



以下で入手可能です。
よろしくお願いいたします。

ゼロ・フィールド・システム―がん研究者が自ら体験したガン克服法/きれいねっと

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