松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

松野哲也


1942年横浜市生まれ。

国立研究機関でインターフェロンの作用機作、ウィルス・化学発ガン、ガン胎児性タンパク質、腫瘍細胞ののエネルギー代謝機構、抗ガン物質検索などの基礎医学研究に従事。1996年渡米。コロンビア大学ガン研究センター教授。現在は退職しニュージャージーでノエティック・サイエンス研究室主宰。


自らのガン治癒体験をふまえて、ガンになった方からのご相談に応じています(ご希望される方は下記のメールアドレスにどうぞ)。


また日本・米国での講演活動も行っております。少人数でも会場を用意して頂ければお話しさせていただきますので、お気軽にお問い合わせいただければと思います。


著書に「ガンはこわくない」(中央アート出版社)、「癌では死なない」(ワニブックス)、。「プロポリスでガンは治るのか!?」(中央アート出版社、) 「がんは誰が治すのか」(晶文社)、「病気をおこす脳病気をなおす脳」(中央アート出版)など。




連絡先t.m.noetic@gmail.com

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魂は体外にあるのだろうか(補遺)

 

 

 犠牲という単語にはなぜ牛がつくのでしょうか?色々な説があるようですが、私は神への生贄に牛が使われたからではないかと思っています。旧約聖書には牛、羊、ハトなどが生贄に使われることが書かれています。ということは古代にはユダヤ人が日本に居た。エジプトを追放され、日本まで辿りついたユダヤ人の2部族が日本人の祖先の一部を占めるという説はかなりの説得力があります。 

確かにユダヤ人と接していると、欧米人と違って、冠婚葬祭一つとっても日本の風習と似ているところが多いのです。

 

日本独特といわれる神道の神社が古代イスラエル宗教の影響を受けていることは明らかです。

 

本殿に置かれているのは三種の神器(十戒の石板、アロンの杖、マナの入った壺)をなぞらえた鏡、石、剣、お札。石の柱を「ご神体」とする風習はヤコブ以来のもの。お神輿は古代イスラエルの「契約の箱」をモデルにしたもの。神輿を担ぐときの掛け声はイスラエルの言葉に由来。神主の服装は、古代イスラエルの祭司たちのものと一緒。

 

平成(私はこの言葉が大嫌いなのですが)天皇は即位の際の大嘗祭で白無垢の衣に着替え、裸足になったそうです。モーセやヨシュアが裸足になったように。神社の拝殿の前でパン、パンと二回手をたたくのは、古代イスラエルで「私は約束を守るものです」を意味すると言われています。

 

神社特有の鳥居は赤いです。イスラエル人の家の「二本の柱と鴨居」は羊の血で赤く塗られていました。

日本人は「罪」という観念よりも「けがれ」という観念の方をよく理解できるようです。「けがれ」や「きよさ」の観念は今でも神道の中に生き続けています。「清浄を貴び、汚れを忌み嫌う」ことは神道の根本理念にほかなりません。塩をまくのも汚れをとるため。

 

ところで、動物の「いけにえ」(犠牲)はもう行われません。エルサレムの神殿が滅亡したのと、イエス・キリストが十字架にはりつけにされ、私たちの罪の犠牲となり死んでくれたからです。要するに旧約聖書の中にこそ、日本人の魂のふるさとがあるのです。

 ここまで書いて、私は誘われた神社には行かないことにしました。そうしたら急に、『般若心経』の眼耳鼻舌身意の「意」は何故書かれたのかを知りたくなり(最後を除く5語は五感。そこになぜ「意」?)、同経典の英訳本を取り寄せることにしました。

 

 

「生命」のことに思いをはせているうち、もう一度読んでみよう(もう読む気など本当はないのですが)という本のことを思い出しました。私の人生を変えた本です。江上不二夫『生命の起源と生化学』(岩波新書)。ロシア・科学アカデミーのオパーリンという生化学者が日本で生命の起源について述べた説を解説したものです。既に絶版で、アマゾンでみたら、中古品を1円から売っていました。

 

私は何も将来のことを考えることなく、東大に入りました。東大といえば法学部だったのです。しかし、社会に出て生きていけそうにありませんでした。

生化学者になろうと思って退学し、また多大のエネルギーを使って無駄な受験勉強をし(数Ⅲも自習)、理科に再入学しました。またくだらない体育とか英語の授業。うんざりしました。 

日本の教育制度には腹が立ちます。妻は高校に編入するとき、アメリカに行っていれば飛び級でハーバード大学に入れたのにと言います。しかし、私の周囲にこのような考えをもつものは誰一人見当たりませんでした。もっとも不登校だったので、アメリカでも同じだったかもしれませんが。

ともかく第二外国語としてとったロシア語は独習し、専門課程の本は原書で読みました。最初のロシア語の試験ではトップでした(全く授業に出ないので後半は落伍しましたが)。

 

 

専門課程に入ったとき、私の最大の関心事は「なぜ生きるのか」というものでした。幼い子供の頃と変わらなかったのです。横浜の家を出ると、伊勢佐木町の有隣堂で哲学の本を買います。本郷三丁目・赤門前のルオーという喫茶店でそれを開きます。何が書いてあるのか全くわかりません(今思うと、わざと難しくみせるようへたな翻訳をした日本の哲学者に問題があったと思われます)。気分転換に構内に入り、授業に顔を出します。医学部の生化学は人気がなく、文化人類学科の学生が数名参加する程度でした。薬理学や生理学は盛況でしたが。組織・解剖学の実習にも出ました。助手は研究室に私を連れていき、いらないというのに組織標本のプレパラートを貸してくれました。養老猛司さんもいたのではないでしょうか。もっとも後年、彼に聞きたいことがあり電話すると、電話に出た人が「彼はしょっちゅうどこかへ行ってしまうので困ります」と言ったのを覚えています。養老さんと話したのは一度だけです。胎児の眼の発生についてでしたが、彼はよく知らないと言っていました。

 

 生化学の授業の時、教授と二人きりになったので、色々な話をしました。「生化学で体質改善はできるのでしょうか」と聞くと、彼はしばらく真剣に考えた末、「分かりません。難しい問題です」と答えてくれました。のちに妻となるのり子が病弱で、横浜の雙葉を母親の意見で始終休まされ、落ちこぼれになっていたのでそういう質問をしたのですが。

 

物理学科の熱力学はデンビッヒの本を読んでいたので、エントロピーのことは完全に理解し試験に臨んだのですが、何も書けませんでした(計算問題で計算尺持ち込み可だったのです。知りませんでした)。もっとも熱力学の開祖である発狂した天才物理学者・ボルツマンの考えは読んでいるだけで疲れましたが。動物学科の生化学の試験は、教授が学生を指名し、質問に答えさせるものでした。私は答えられない学生にかわってすべて正解の答えを出したのです。しかし成績はかんばしくありませんでした。もう一学期続いていたのを知らなかったのです。

 

生化学実習も単位が足りませんでした。欠席ばかりしてレポートを出さなかったからです。実習はそれが始まる前の休みに研究室に行き、実習書の実験を一人で行ってしまっていました。足りない薬品は本郷の試薬店に買いに行きました。単位が足りそうもないので、植物学科の教授にうそをつきました。身体の具合が悪くて授業に出られなかったと言ったのです。彼は「大丈夫ですか」といって心配し、「可」をくれたのではなかったかと思います。

 

大学院の試験の時はあとで述べます石本眞先生が面接官でした。ある分子の原子間距離を聞かれました。間違えました。

実習の単位が足りなかったので、本当は卒業できなかったのです。石本先生と参考書の裏表紙にパスツールのことを挙げるなど、彼の崇拝者であるT助教授(すぐ動物学科教授になりましたが)に呼ばれて出向きました。「この分野の学問は実験が大事なので、考えてばかりいてもだめです」と言われました。「はい」と答えると、卒業させてもらえることとなりました。

 

卒業実験は江上研究室ですることに決まっていました。江上先生(彼は鉄腕アトムのお茶の水博士のモデルと言われています)に「代謝の実験がしたいのです」と言うと、K君はロックフェラー研究所に留学中なので、石本助教授につくよう言われました。あとになって知ったことですが、K助手は緑膿菌に寄生するウイルス毒素・ピオシンの実験を行っていたのでした。私の言う「代謝」とは無縁です。

 

上記著書は実質的には石本先生が書いたものです。彼はロシア語が堪能でした。ハンガリーに留学したことがあり、奥さんはハンガリー人でした。彼は私が大学院に入ると助手二人を連れて、北大・薬学部の教授になりました。

実験は彼が発見した硫酸還元菌の代謝経路をしらべるものでした。私は生命あるいは病気に関する実験がしたいと思っていたので、失望しました。医学部に入りなおして臨床医になることを真剣に考えたほどです。大学院を終えるまで。

これから私の暗中模索が始まったのでした。

 

このような追想にふけりながら、私は「生命」「魂」について考えていました。ゾクチェン哲学は古臭いただの観念論なのかもしれない・・・・。

そのとき確固とした考えが私を包みました。「生物であろうと無生物であろうと宇宙のなかのものすべては振動エネルギーという言葉でしか表現できない『超意識』すなわち『生命』で貫かれている。私たちが生物は生きていると思っているのは、肉体の活動を介する働きをそのようなものとして錯覚し認識しているにすぎない」。

突然のひらめきでも何でもありません。ただそれだけのことでした。そして私は納得したのです。私たちは脳をもったために、一瞬一瞬奇跡的な体験をしていると思っていることを。私たちは死んでも死なないのです。

 

 松野

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魂は体外にあるのだろうか(4)

 ドッぺルゲンガー現象というのがあります。もう一人の自分と出会うのです。気味悪い現象と思わるかもしれませんが、これを実際に体験した人は意外にも不気味とは感じないようです。

 Rita Carter “Mapping the Mind”のなかでこの現象に触れている個所の一部を引用します。

 「ブリストルの医師による症例報告によると、元・教師だったB夫人は夫の葬儀を終えて帰宅したとき“もう一人の自分”を見たのです。寝室に向かう途中のドアーを開けると、目の前に女性の顔のような影が見えました。B夫人は右手でスイッチに触れ、明かりをつけようとしました。するとその影のような女性も左手で同じようにしたのです。二人の手がスイッチに触れました。『その女性の手に触ると、瞬時に冷たさを感じ取りました』と彼女は医師に言っています。少し驚きましたが怖くはなかったそうです。侵入者に構うことなく、彼女は帽子をとり、コートを脱ぎましたが、もう一人の女性も自分の姿を鏡で映したように同じしぐさをしたのです。そのとき彼女は、そこに“もう一人の自分”がいることに気づきました。その瞬間、疲労と戦慄感に襲われた彼女はベッドにもぐりこんだのです。目を閉じると、“もう一人の自分”の姿は消えていました。すると身体に暖かさとエネルギ―が戻ったのでした。彼女は医師に彼女の「アストラル体」の生命が身体に戻ったからではないかと言っています。
 それからB夫人は毎日のように“もう一人の自分”と出会うことになりました。しかし、彼女はもうそのことを気にしなくなったそうです。
 『私たちは二本ずつの手足をもっていますが、それが四本になっただけのことです。要するにそれはただの分身にすぎないのですから』と彼女は言っています。」
 
 著者は、このような現象を体験する際に、強い情動の揺れ動かしが伴わないので、脳の内部にある大脳辺縁系ではなく、それを覆う大脳皮質の働きが関与しているのではないかと述べています。

 脳の部位で、注意を向けるメカニズムの一端を担う(前部帯状回とともに)Tegmentum(腹側被蓋野)(脳幹の背後部分に散在する網様体の上部に解剖学的には位置します)に障害のある人は、よくカラフルな幻覚をみることがあることが知られています。

魂は体外にあるのだろうか4


     * * * * * * * * * *


 最近、日本に出向くと、私の身の回りには神社に興味をもたれる方が多くなりました。中には神社でイベントを行うので参加するよう勧誘される方もいらっしゃいます。私は神田明神には甘酒を飲みに、東京郊外にある菅原道真を祀る谷保天神には銀杏を拾いに行ったことしかありません。
 
そこで「魂」というか私の生命の捉え方のルーツを探ってみることになってしまったのです。

 宇宙にあっては、生物も無生物も、すべては精一杯の活動を続け、完成を目指しています。ひとつの生物種にすぎない人間も同じく、完成へ向かうプロセスとして生きています。しかし、自分という意識を持ってしまった人間にとって、生と死が自分を通り過ぎていくただの現象であると思うことは耐えられないことではないでしょうか。私たちの大半は、他人の死を聞いても、自分だけは死なないと思いたいのです。要するに死を考えたくないのです。ところが、死に際して肉体の崩壊だけは拒みようがないので、自我や心を魂として投影し、それを別次元の存在として切り離し、それが存在し続けると思うことによって、自らの
消滅から目をそらそうとするのではないでしょうか。

 日本民族は病み、色々な意味で消滅に向かっているように思われてなりません。神社に祀られている魂あるいは古代人の魂に思いをはせる人は、無意識裡にそのことに気づき、上述の「私」を「日本民族」に置き換え、それを取り戻せば再生あるいは新生が起きることを期待しているのではないでしょうか。

 日本では学校で神話が教えられません。GHQによって禁止されたからです。

 歴史学者のA.トインビーは「12,3歳くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」と言っています。

  ユダヤ人は国がなくても神話をもち、生き延びてきました。中には巨万の富を得、政府を動かし、自分たちに都合の良いように人口削減に乗り出した一族もいます(ロックフェラー家は古くユダヤ教に改宗したクルド人に由来するともいわれますが)。

地球自体もそのうち暗転し闇の中に消え去るでしょう。クオークの発見者であるサンタフェ研究所のマレー・ゲルマンは太陽の寿命は既に半ばを過ぎたと言っていました。それよりも先に人類は科学がいったんつくりだしたら制御できないものによって絶滅する可能性があります。それは、目前に迫っているのかもしれません。
 
 私は「魂」が何者であるのか皆目見当がつきません。というよりこの言葉は、私が「言霊」と表現せざるを得ない時しか使わない単語なのです。



 聞かれることもないでしょうが、この機会に私の頭を整理させて頂いても宜しいでしょうか。


 私は、現時点では、魂を「量子真空」(ゼロ・フィールド)からエネルギー的記憶痕跡が脳神経を活動させた際に発する「思念」とも呼ぶべき量子的振動エネルギーになぞらえています。それはゼロ・フィ-ルドに「記憶」として刻印・記録されるでしょう。これを同フィールドから取り入れ、神経で意識活動として展開(通常は五感をはじめとする意識で)したものが「霊」とか「魂」と呼ばれて認識されるのではないでしょうか。振動エネルギーが刻印・保存されるのは肉体活動がある間ですが、いったん同フィールドに取り込まれたものが死後に現れた場合、私たちはそれをもって霊魂不滅と言うのではないかと思っています。

 この考え方はこの世で学習したものです。そしてこのように表現するのも幻想に基づいています。私にとっては、魂があるかないかよりも、ものが時間・空間的にあたかも実在するように認識される奇跡的な生を生きていることの方が驚くべきことだと思い、毎日を無能で無智なでくの坊(blockhead)のように過ごしているのです。
嫌な性格の人も一杯います。でも私は彼らから自分もそうであることを教えられるのです。毎日が天国にいるようにも感じられこともあります。しかし、肉体が崩壊するときは間近に迫っています。精神年齢はまだ子供のそれなのですが。臨死体験で今までと違った風景をみるとか、意識状態が変ることを期待するときもあります。それを過ぎれば私という考えも消え去るでしょうから。
私が自然に死ぬのはよいのですが、残った人たちには、放射能を浴びるとか、放射能を含むあるいは遺伝子組み換えによってつくられた食品の摂取によってガンになり、抗ガン剤といった毒物で殺されてほしくはありません。

 私にとって、生命体が再生を繰り返すのは当然のように思われます。しかし自分自身の生まれ変わりは信じていません。それは自分とは近縁(ゼロ・フィールドへの繋がり方という点で)の他人の魂の記憶痕跡に繋がることだと思っているからです。人生は一回きりです。というよりすべての物事は1回しか起きないと捉えています。それは宇宙の摂理によってそうなっているのです。
“Many Lives, Many Masters: The True Story of a Prominent Psychiatrist, His Young Patient, and the Past-Life Theory That Changed Both Their Lives”(『前世療法』)の著者である誠実そうなブライアン・ワイスとこのことについて話し合おうとも思いますが、どちらが正しいというものでもないでしょう。

 人が自分の「前世」や「来世」がどのようなものかを知りたがるところに、誤りの第一歩があるのではないでしょうか。人は、それを具体的な「事実」として知りたいのです。しかし、それが事実であるならばまさにその故に、それを知ることに意味はなくなります。なぜなら、「前世」「来性」とは、現在を規定し、また現在が規定する事実なのです。ということは、「前世」「来生」とは現在という事実なのです。ですから、現在を知るということが、それを知ることなのではないでしょうか。「前世」「来世」が「現在」とは別であるかのように考えるところに変な「スピリチュアリズム」が発生する下地があるのです。別であるならそれは事実ではないわけで、事実でないものを知って、一体何になるのでしょう。

「転生」とは、「唯一者」(宇宙)によって為される宇宙大の行為の謂ではないでしょうか。そして行為とは、ほかでもない「記憶」を介していると私は思います。ですから「今・ここにある」ということが「<私>が唯一である」というまさにその意味なのです。だから、「転生」を語ろうとするなら、<私>の唯一性は放棄せざるをえなくなるのではないでしょうか。両者は同時には語れないからです。もし両者を同時に語れたとしたならば、それは「<私>の転生」ではなく、何か別のことを語ることになってしまうのです。
ですから私は「前世」を知りたいとは思いません。<私>はそこまで特別なものなのでしょうか。

 ともかく、死ぬことを意識して、今この一瞬、与えられた役割を果たすよう善き生を生きるだけです。

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こんにちは。


ニューヨークのグローバル・ラボにて講演をすることになりました。
よろしくお願いいたします。

写真はクリックすると大きくなります。


日程: 2016年9月10日(土)午後1:30~4:30 完全予約制

場所: グローバル・ラボ
545 8th Avenue, Suite 1410 (bet. 37th St. & 38th St.)

参加費: $20(飲み物付き:ワインまたはソフトドリンク)

お問い合わせ/予約: Naoko 646-591-7045 umishinju@gmail.com

2016.9.26講演会
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魂は体外にあるのだろうか(3)

 
 Kama-Glin-Pa and Walter Evance-Watz ” Tibetan Book of the Dead”(『チベットの死者の書』)で「魂」は生命存在、死、心の本性、再生のバルド(途中、過程あるいは中間という意味)を辿る「イー・キ・ルウ」という肉体を持たない意識だけの身体として捉えられます。死の直後、生命活動が解体を始めると、意識は思考や感情から解放され全く自由で、純粋で、裸の状態に近づき、自らを強烈な光や色彩のパターンとしてあらわすようになるというのです。
LSDを服用したときに視られる「バーチャル・リアリティ」と共通項をもつものと言えましょう。
 同書は山中に埋めて隠されていた原典である高度なゾクチェン密教に属している秘教的な書物『バルド・トドゥル』の一部を、チベット語がわからない訳者がヴェーダ―ンダ哲学の知識をもとに神智学的、オカルティズム的アプローチによって解釈したものとも言われています。
 そのせいか同書はユングの興味を喚起し、1930年代のヨーロッパ思想にも大きな影響を及ぼしただけでなく、その後、ベトナム戦争の泥沼に入り込んでしまったアメリカのニューエイジ・ムーブメントに携わる若者たちの聖書ともなったのです。


 これより古い『太陽と月の結合』タントラ(その一部の英訳がGiacomella Orofino ”Sacred Tibetan Teachings”です)では、古くからの死の教えがゾクチェンの瞑想的な教えと結合を果たしています。


 大脳を異常に発達させた動物である、私たち人間は、そのことによって幻想の能力を発達させてきました。幼児でも鏡をみて、幻想の自分のイメージを作り上げるといわれています。人は美に強い期待を抱きます。それは美(容貌あるいは肉体美。その基準には大きな個人差がありますが)がセックスや恋愛では大きな役割を果たすからです。人間には無意識的な記憶にもとづく感受性のパターンがあり、自分の生存を守るのに欠かせないものだといえそうです。
そのために、人間という生命システムのなかでは、「心の本性」が躍動しているのに、幻想と言語(概念)の仕組みによって、実在をみることなく自分にとっての「意味ある世界」を生きることとなるのです。
ダニには目も耳も味覚もありません。ダニは皮膚の明度覚を使って動き、嗅覚、温度覚を使って獲物から彼らにとって意味のある血を吸います。この三つの感覚によってつくられる世界像は、はるかに複雑な器官をもつ高等動物の世界像に比べれば異質のものといえるでしょう。また、カエルには色彩のある形といったものはなく、近づく女性が美人か不美人かあるいは男性の場合は、イケメンかどうかを区別できないし、その必要もありません。

要するに、人間もダニもカエルも「途中」であるそれぞれの「バルド」を生きているのです。
「意識存在は、すべてランシン・バルドにあり、そこを出ることがない」。- ゾクチェンはこのように説きます。

 具体的な例をもう一つあげましょう。視覚は、ものの裏側や欠けた部分を、それがあるかのように思いこむことによって成り立っています。それを実際に見ないことによって、ものの形が判断できるのです。紙面に空白があることによって、文字も判読できます。その意味では、私たちは自分が作り上げたイメージを、あたかもそれが実在するかのように思いこんでいるだけであり、本当は「存在の現実」を見たり感じたりしてはいないのかもしれません。だとすれば、日常の常識的世界像こそ「幻想」そのものということになります。 
要するにこの宇宙は巨大な夢の集積体ということになるのでしょうか。
 生きてランシン・バルドの中にある間、私たちは「心の本性」に触れることがありません。それができる稀有の機会が「死」であるとチベット哲学は説くのです。


 『太陽と月の結合』タントラの一部を引用してみましょう。
 説者(ドルジェ・チャン)はこう語ります。


 肉体をもってこの世界に生まれたものにとって、生とは夢のように儚いものだ。生とは水のように定めない。また生とは風のように掴み難いものである。
 人には死というものが訪れる。物質的元素の集合体としてつくられている身体は生の終わりには解体される。そのとき人の意識(マナ識)は透明な光に溶けていく。肉体の感覚器官に結び付けられていた物質的ヴィジョンが消え去って、夢と同じような「意識の思考」だけがあらわれる。光のヴィジョンとなって。
 光はすべてを満たし尽くし、波動が充満し、それを押してみると圧縮され、押す感覚をやめてみれば、またもとどおりに拡大していく。
 その色彩は透明な輝きに満ちて、色彩の混合は全くおきていない。あらゆる方向に向かって、光はまっすぐに伸びていく。
 つぎの生がどのようなものになるかは、定かではない。様々なヴィジョンが瞬間的に現れては消えていく。それをバルドの状態と呼ぶ。
最後の瞬間に人は再生する次の形態への変容を遂げる。次の再生がどのようなものになるか、この瞬時にわかる。自分が生まれる世界の生き物や環境のヴィジョンがありありと現出するからである。


 この場合、「魂」は「意識」そのものなのです。量子力学では、粒子の状態は観測することによってはじめて決定されます。はだかの物質、つまり何の解釈も入っていない物質いわゆる原物質というものは存在しません。物質とは、必ず人間の心によって解釈・意味づけがなされたものといえましょう。そこで、物と心は意味を介したひとつのリアリティとしてのコインの裏表であり、その背後には根源的なリアリティがあるという考え方も成り立つのです。
雰囲気、気分、表情、情景といった言葉には、共通する特徴があります。それは、外的世界を描写しながら、同時に個人の内面をも捉えていることです。このように、心的なもの、身体的なもの、世界的なものは、ひとつに融合します。逆にいえば、すべてを包含した「存在」の流れが、すべてを生かし脈動させているといえるかもしれません。これこそが、人間にとっての内面的な自然であり、生命なのです。
人間の知覚がある一定の時間と感覚をもとに、「生きているもの」と「死んでいるもの」とを相対的に区別しているだけかもしれないのです。
世界としての自然は、ニューロンという変換器を介した脳のメタファーと考えることもできるのではないでしょうか。それは、1個の巨大な脳がつくりだしたイメージの投影でもあるのです。
その意味で、魂が身体に出入りするというのは、ゾクチェンがそのようなメタファーを使わなければ表せないような深遠で究極的な洞観に基づいているからではないでしょうか。


 ゾクチェン哲学のオートポイエシス(生命の自己組織化)がゴオウ(本体)から踊り出すリクパ(叡智)を始点とするのはそのためと思われるのです。
死にゆく人の枕元に座るチベット僧は死者の耳元で「赤くイメージされるゴオウには入らないように」と言ったそうです。そこに入るとまた生まれ変わるから。そして、うすぼんやりしたイエシェに入るよう誘導するのです。再生しないように。それはゾクチェン哲学そのものではなく、それを通俗的に解釈した僧のパーフォーマンスにしか過ぎないものと思われます。

続く
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