松野哲也の「がんは誰が治すのか」

治癒のしくみと 脳の働き

松野哲也


1942年横浜市生まれ。

国立研究機関でインターフェロンの作用機作、ウィルス・化学発ガン、ガン胎児性タンパク質、腫瘍細胞ののエネルギー代謝機構、抗ガン物質検索などの基礎医学研究に従事。1996年渡米。コロンビア大学ガン研究センター教授。現在は退職しニュージャージーでノエティック・サイエンス研究室主宰。


自らのガン治癒体験をふまえて、ガンになった方からのご相談に応じています(ご希望される方は下記のメールアドレスにどうぞ)。


また日本・米国での講演活動も行っております。少人数でも会場を用意して頂ければお話しさせていただきますので、お気軽にお問い合わせいただければと思います。


著書に「ガンはこわくない」(中央アート出版社)、「癌では死なない」(ワニブックス)、。「プロポリスでガンは治るのか!?」(中央アート出版社、) 「がんは誰が治すのか」(晶文社)、「病気をおこす脳病気をなおす脳」(中央アート出版)など。




連絡先t.m.noetic@gmail.com


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1;30pm~(開場1pm)

連絡先: サロンDOLPHINもりた 090-9477-6766

       酵素温浴ゆるり 092-201-1607

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こんにちは。

 

巣鴨に引き続き講演会のお知らせです。

福岡でのお話ははじめてです。

 

講演会

「がんは誰が治すのか?-自然治癒を探る」

 

講師:松野哲也博士(アメリカ在住。Laboratory of Noetic Science主宰。元コロンビア大学・がん研究センター教授)

 

2016年11月20日(日) 12:15~6:00pm

 

福岡宗像ユリックス

(宗像市久原400 JR東郷駅 Tel:0940-37-1311)

 

連絡先: 森田俊美( yakusoku1206@gmail.com  Tel: 0940-72-4297)

 

よろしくお願いいたします。

 

 M

 

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こんにちは。

 

健康古民家かのうさんで、 自主開催セミナー「がんの自然治癒」を行うことになりました。急な告知ですみません!

 

2016年11月13日(日)

講師:松野哲也

 

1~4pm(開場:12;30pm)+ 懇親会(希望者のみ)

参加費:5000円

 

 

場所:東京都文京区千石3-28-5(JR巣鴨駅より徒歩8分。をご参照ください)。

http://www.kenko-kanoh.com

連絡先:03-3941-4303(谷口実知子)

 

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現代医学の「薬」第一号

 

 

 19世紀末以降、次々と細菌が発見されました。なかでも最も忌まわしく悲惨な結末を人類に与えるという意味で恐れられた梅毒菌を殺す薬(サルヴァルサン)を化学合成したのがドイツ系・ユダヤ人であるパウル・エールリッヒでした。 

現代医学でいうところの「薬」をはじめてつくった人です。

 

 

 彼は1854年、ドイツのシレジア(現在はポーランド、ドイツ、チェコに分割されています。私が講演に行ったことのあるシレジア医科大学はポーランド領にあります)に生まれました。

 

 学校の成績はよくなかったそうです。例えばブレスラウのギムナジウムに通っていた頃の話です。国語の先生から「人生は夢である」というタイトルで作文するよう言われると次のように書いたそうです。

 「人生は身体の酸化作用いかんで何とでもなる。夢は脳髄の活動によるものであり、それは単なる酸化作用にしかすぎない。・・・夢は脳髄の燐光の一種なのである!」

 

 私よりはるかにましです。名文ではないでしょうか。私は小学校からのクセだと思いますが、仮病でミッションスクールの中学(関東学院六浦中学)もよく休んでいました。

学校に行くと数学のテストでした。プラスとマイナスの掛け算です。全く意味が分かりません。冷や汗をかいているうちにベルがなりました。白紙。0点です。 

国語の試験のとき、ある和歌を解釈するよう言われました。「あなたがいらっしゃると分かっていればタマを敷いておくのでしたが」といったようなものだったと思います。私はタマを砂利と解釈しました。宝石のことだったそうです。教師はあきれたような顔をしました。私は今でもこのような表現が嫌いです。

音楽の試験の時は、LPレコードを聴いて、感想文を書くように言われました。私は「つまらない。退屈だった。」とだけ書いて提出しました。成績表は1だったと思いますが、下に赤線がひいてありました。

 

家では物置小屋を改修して化学の実験ばかり行っていました。よく三文判だけ持参した中学生に、横浜の野毛にあった試薬店は劇薬や毒薬を売ってくれたものです。つくったニトログリセリンや火薬は学校にもって行って、校外の平潟湾の入り江で爆発させました。

そのあと私は極度の劣等感に苛まれ、自分で選んだ参考書の内容を徹底的に理解するような勉強を始めるようになったのです。頭がスポンジで、それが水を吸い込んで膨らむように感じました。

高校2年の時、都立の進学校に編入しました。最初のうちは横浜から通っていたのですが、あまりにも時間がかかるので下宿しました。しかし受験勉強は高校2年で終わりました。3年生の時は、授業に出ず、上履きを履いたまま、喫茶店や映画館に入り浸っていたのです。昼食はくじら屋という店で、3対1の割合でクジラのから揚げ定食かくじら肉カレーを食べていました。当時、学校で受けた受験産業で有名だった旺文社の全国模試では文科で全国2位でした。私は劣等生と優等生両方を経験することができたのです。

 

 

 エールリッヒは4つの医学校を渡り歩きましたが、そのときは非凡な学生と評価されていたそうです。解剖学実習のときは、ただ死体を切り刻むだけでなく、それを自分が勝手に持ち込んだ色々な染料で染色していました。彼は染められた組織のきれいな色が好きだったのです。

 エールリッヒはアニリンによる生体染色へと研究を発展させ、「脳関門」の存在に世界で初めて気づきました。脳関門とは、脳が大きい分子を自身の血管へ取り込まないようにする仕組みです。脳腫瘍にも抗がん剤は効きませんが、使われるのは脳の血管に入る分子量が小さい、いってみれば形が小さなものに限られます。

 

 

 彼は、罹患患者肝臓の切片を染色しているうちに、結核菌を見ていたのですが、当時はそれを染料の結晶とみなしたため、その発見には気づきませんでした。

コッホによる結核菌発見は1882年のことです。そこでエールリッヒはコッホのところへ留学しますが、結核に罹りエジプトへ静養にでかけます。

そして運よく死ぬことなくベルリンのロベルト・コッホ研究所に働きに戻るのです。そこでは、ベーリングがジフテリア菌、北里柴三郎が破傷風菌の純粋培養を行っていました。細菌学の分野ではドイツ医学全盛期の時代を迎えていたのです。

森林太郎(森鴎外)が東京帝国大学・医学部卒の最初の軍医本部付としてコッホのところへ留学したのは1884年のことです。

 

 

隣国オーストリアのウイーンでは、ウイーン総合病院-産科に勤務していたゼンメルワイスが消毒という概念を生み出しました。当時、外科医たちは手術の際、血の付いたメスを靴底で拭うとか使いまわしをしていたのです。彼は医師によるよりも助産婦による分娩のほうが産褥熱によって死亡する確率が低いことを見抜き、塩素水で手を洗うことを提唱します。しかし誰も彼の説を受け入れませんでした。それは、「患者を殺しているのは医師の手である」という結論にあったといえましょう(当時、ゼンメルワイスの論文を読んだ医師が自殺するという事件まで起き彼の説を認めることは医師が大量殺戮を行ってきたことを認めることだったのです)。

ゼンメルワイスは発狂しました。医師の集団が嘘の説明で、ゼンメルワイスを精神療養施設に呼び出します。彼は逃亡を図りますが、みつかり、集団から殴打を受け、その際の負傷で死亡しました。1865年のことです。

そのあとすぐクレゾールによる消毒を提唱したのがイギリスのリスターです。生ごみの集積所をクレゾールで処理していることを聞いたためでした。

 

ウイーン大学外科教授のビルロートが現在広く応用されている残胃と十二指腸を吻合させる胃切除法(ビルロート法)を発表したのは1881年です。

レントゲンが発見したレントゲン写真が医学の診断に応用されたのは1914年でした。

 

   

エールリッヒは色素で細菌を殺そうと、染料工場が多かったフランクフルト・アム・マイン(アム・マインとはマイン川沿いという意味)に移り、赤痢菌の発見者である勤勉な志賀潔の協力を得て、人には無害だが馬に睡眠病(カデラ病)をおこすトリパノゾーマを殺すべく殆ど500に近い色素をスクリーニングしました。志賀は北里柴三郎の推薦でエールリッヒのところへやってきたのです。

 

 失敗に次ぐ失敗でした。しかし彼はそのことなどものともしませんでした。というよりも彼の発想はことごとく間違っていたのです(彼の研究は一時免疫学に移り、エールリッヒは「免疫側鎖説」で「免疫食細胞説」を唱えたロシア系ユダヤ人のメチニコフと1908年にノーベル生理・医学賞を受賞しています)。

 

よく科学者ほど独創性のないものはいないと言われます。彼らは文献を見つけてきては、他人の発想をもとに実験材料を変えてそれを真似するのです。そのようなことをしているうちに別のグループの実験結果が学術誌にのったりすると、先をこされてしまったと言ったりします。実際にそのような実験結果がえられたのは既にかなり前のことなのですが(出版されるまでに時間がかかるため)。

 アインシュタインこそ例外的な天才科学者の一人と言えましょう。彼は光となって宇宙を飛ぶことを空想して精神に異常をきたしたこともありました。神様はサイコロを振らないと言って、確率であらわされる新しい量子力学は間違っていると言って嫌いました。ところが、それがもし本当ならばこのようなこともありうるのではといった説を提案したのです。例えば「量子の絡み合い」といったような。それはのちに実証されています。

 

 エールリッヒは手当たり次第に思いついた奇妙な図(化学構造式等)を人のシャツであろうとところかまわず書きなぐりました。彼が立ち去ったあとには、どこにでも必ずこうした考えを図に描いた、幻想的な絵の名残が残されていたそうです。

 私もある大学の研究員をやめ、国立の研究所に無給で出入りしていたころ、何をしていいかわからず寝込んでいましたが、ある日突然、神経とは「神の径である」というひらめきを得て、実験を開始しました。手伝ってくれた早稲田大学・大学院生の白沢君には、実験室のリノリウム床のあちこちに水性マジックペンで書きなぐりをして説明していました。最初の実験は2週間程で終え、論文はパスツール研究所長のJ.モノ―を審査員として選び、彼のもとに送りました。彼が亡くなる1年前でした。当時はまだ電動タイプライターを使っていましたので、differentiationtiiをぬかしたことに気づきませんでした。3番目の論文が彼の学位論文になりました。インターフェロンの神経網膜での酵素誘導の阻害作用がDNAの転写レベルでおきることを明らかにしたものです。当時インターフェロンは夢の新薬としてもてはやされる前のことでした。インターフェロンが正常細胞に及ぼす影響をモデル実験で傍証したものでした。彼は3年前、Y大学・医学部・教授を定年退職しました。

 

 エールリッヒほどたくさんの徹底的に間違った説を立てた研究者はいないといわれています。彼の頭のなかは化学に関する百科事典でしたが、その手は化学者のそれではありませんでした。込み入った学説を好むくせにそれを実験でどう扱うのかも知らなかったのです。しかし、微妙な化学合成、すなわち染料の調整改造の細かな仕事となると、飽きることなく染料会社にこれらを化学合成するよう指示したのでした。

 あるときベンゾプルプリンにスルフォン基がついた化合物が送られてきました。志賀潔がこれをトリパノゾーマに感染したマウスに注射したところ、一時は菌を殺したと思えたのに、動物も死んでしまったのです。こうしてエールリッヒは、この初めての成功とうらはらに大変な失望を味わったのでした。エールリッヒのような我慢強い人だからこそ、このような心魂をすりへらすような仕事に耐えられたのです。このようなことがあっても彼はめげることなく、研究所内をあちらこちらとのぞき回り、所員をしかりつけ、肩をたたき、かみなり声を張り上げて教えて歩いたのでした。その間、裕福な銀行家の未亡人からの莫大な寄付もあり、研究所は成長していきました。

 

 色素の実験は大失敗でした。化学者たちは、彼はばかだと噂しました。ある日、書斎の中でただひとつ、本の積み重なっていない椅子に腰を下ろし、彼は化学雑誌を拾い読みしていました。そしてある毒素にぶつかったのです。「アトキシール」。

それは亀の甲であらわされるベンゼン環に有毒なヒ素が結合したものでした。

「無毒」であるといって命名された化合物です。エールリッヒは弟子のベルツハイムとともにそれがアルサニル酸であることを証明しました。そして、この化合物を母核として化学構造を変え、様々なヒ素化合物を合成しようと思い立ったのです。それは、ひらめきというよりはいつもの不撓不屈の精神からでたものと思われます。

 それから2年間、研究所は総力をあげ、アトキシール類似化合物の化学合成に没頭しました。そしてある化合物はハツカネズミに感染したトリパノゾーマを殺したのでした。

 「成功した!」と全員は叫びたかったでしょう。ところが、この絶妙な治療法は治ったと思われるハツカネズミの血を水のようにしてしまうか、黄疸でたおしてしまったのです! またこのヒ素化合物のあるものはネズミをきりきり舞いさせ、飛んだり跳ねたりさせました。死ぬまで。

 彼はこう書いています。「ハツカネズミに与える唯一の障害はそれを躍らせることだ、というのは極めて興味がある。私の研究所を訪れる人々は、多くのハツカネズミが踊りを踊っているのをみて驚くに違いない・・・」。

 彼らはこの後も数え切れないほどの化合物をつくりだしました。そして、これはことごとく失敗の連続だったのです。ヒ素の耐性という問題があったためです。トリパノゾーマはヒ素に対して免疫を獲得してしまい、殺されずに、ネズミだけが次々と死んでいきました。しかしエールリッヒは勇気を奮い起こし熱狂し、不可能を無視したのです。弟子たちも彼の不屈のがんばりに元気づけられたのでした。

 1909年。製品606号が化学合成されました。その名は「ジオキシージアミノーアルゼノベンゾール二塩酸塩」。「魔法の弾丸606号」です。

 

 606号はトリパノゾーマを一掃しました。しかも動物は生きていたのです。

エールリッヒは、1905年にドイツのシャウディンとホフマンが発見した青白いらせん型の微生物の記事を目にします。彼によると「この青白いスピロヘータは動物界に属するものであり、事実、これはトリパノゾーマと密接な関係がある…スピロヘータはときとすると、トリパノゾーマに変わることがある・・・」。エールリッヒはこの二つの微生物がいとこ同士であるかないかなどどうでもよかったのです。早速実験にとりかかりました。

 同菌はウサギの睾丸で増殖することがわかっていました。動物実験を担当したのは背の低い、しかし極めて勤勉、有能かつ敏捷で、同じ実験を何度でも繰り返すのを厭わない秦佐八郎(1873-1938)です。菌はイタリアのヴェローナ大学から供与されました。実験成功です!秦はそのことを1910年の『細菌学雑誌』で詳細に記しています。エールリッヒの夢は実現したのでした。

 

 皆さんの中には梅毒菌を発見したのは野口英世だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。野口英世が渡米したのは1900年です。当時彼は北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(のちの東大・医科学研究所。GHQにより2分されてできたのが厚生省管轄の国立予防衛生研究所です)の所員ではありましたが、東大閥の同研究所では下働きで、図書館係をやっていたのです。彼が借りた本が古本屋に売られたということで横浜市にある長浜の検疫所に補佐官として移されました。彼を医学においては当時未知だったアメリカに送り出したのはパトロンである現在の東京歯科大学を設立した歯科医・血脇守之助でした。野口はペンシルバニア大学の蛇毒を研究していたフレキシナー教授が伝染病研究所を訪れた際、東京見物の案内役をするよう命じられたのです。野口はフレキシナーに何の連絡もなく彼のもとに転がり込みました返すのもかわいそうだと思った教授は彼に地下室で毒蛇の飼育をさせました。

 旅費は箱根の温泉で知り合った医学校進学を希望する娘の親から結婚を前提に受け取ったものでした。アメリカ行きが決まると、彼は検疫所の所員を大勢誘い、伊勢佐木町にある2階建ての大きな料理店で飲み食いし、泊まったそうです。なくなった船旅の代金は血脇に泣きついてもらいました。その後血脇は婚約持参金300円を払い、婚約を解消したそうです。

 

 一時、デンマークの血清研究所に出向いてから、野口は正規研究員ではない立場としてロックフェラー研究所で働きもちまえの不屈の努力で梅毒スピロヘータ探しに没頭するのです。

1911年に「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」となっていますが、野口株は病原性を失っていたそうです。試験管内の同菌培養はニコルズⅠ株について1981年以降いくつか報告がありましたが、その培養条件は野口の報告とは異なり、純粋培養の成功は現在ではほぼ否定されています。

彼が進行性麻痺・脊髄癆(脳梅毒)患者の脳病理組織において同菌を確認したというのは1913年のことです。

 

 

 1910年。エールリッヒはケーニスベルグで開かれた学術会議において熱狂的な拍手の嵐をあびました。

 彼は魔法の弾丸がいかにして発見されるに至ったかを物語ったのです。また、あのいまわしい名をもつ病気の恐ろしさを、それから、その恐ろしい破壊のあげく死んでいく悲惨な例を、あるいはまた、更に悪い場合には精神病院に送られた例などを話したのです。水銀療法があったとはいえ、患者はどしどし精神病院に送り込まれる。水銀は、彼らの歯が抜け落ちそうになるまで身体にすりこまれ、うちこまれる。しかし何の効き目もなく死んでいくのだ、というふうに物語りました。

 今、ベースメント(地下室)でドイツ映画『エゴン・シーレ』のDVDを観てきたところです。彼はクリムトのモデルの一人であったヴァリー(ジェーン・バーキンが演じる)を愛人にしますが、彼女は第一次世界大戦戦の際、1917年に従軍看護婦として梅毒のため亡くなりました。馬小屋の中で彼女は横たわっていました。顔にはかさぶたができ、ハエが歩いています。医師と思われる声。「ヴァリー・ノイツィール。梅毒の第3期。発見と手当てが遅れたんだな。しょう紅熱の症状が出たので騙された。看護婦だったのに」

 ところが、606号の注射1回で梅毒患者は立ち上がり、その足で歩き、体重も増えました。まさに聖書の中のような奇跡的できごとだったのです。

 

エールリッヒが難題の梅毒化学療法の共同研究者として秦を選んだのも、秦が長年にわたって危険極まりないペストの研究と防疫にあたった実績をかったからでした。エールリッヒは秦に「注意深き精緻正確なる君の輝かしい実験なくしては、この好結果を挙げえなかったであろう。君の協力に対して私は深く感謝するものである」と深甚の謝辞を表しています。

 

 だが、どんな作用にも反作用があります。パウル・エーリッヒの場合も、その例外ではなかったのです。

 梅毒治療薬として好結果を得た魔法の弾丸606号は、1910年ヘキスト社が製造・販売するに際し、サルバルサン(ラテン語でSalvareは「救う」の意味)と名づけられました。サルバルサンは1950年代にペニシリンが世に出回るまでの約40年間、梅毒の治療薬として、まさに魔法のような効果を発揮し続けたのでした。

 しかし、とびきり破格の治療成績が得られた記録もありましたが、同薬を注射されると、まもなく死んでしまうような例も再々ならずあったのです。

 エールリッヒの顔にはしわが深く刻まれ、灰色の目の下には、黒ずんだ輪ができました。彼は、あまりにも深遠な神秘を解こうとして、みるかげもなく憔悴したのです。その後、弱毒狂犬病ワクチンを開発した生化学者・パスツールが晩年そうだったように。

 

 

 

 私と妻は、東大・医科学研究所の山本正教授(その後すぐ所長に就任)のお宅を訪ねたあと、中目黒にある古い洋館の秦邸にお邪魔しました。結婚する旨を伝えるためです。私はその頃、山本先生の研究室に夜中に車で行き、持ち込んだ実験機材を運び出しました。もうそこで実験するのを辞めたのです。まるで夜逃げのようだったと妻に言われます。辞めることにしたのは、彼が医学系大学院生に当時、逆転写酵素(RNAからDNAを合成する酵素)をみつけてノーベル賞をとったテミンの実験を追試するよう指示するのを聞き、ここにいても先はないと思ったためです。

秦佐八郎の娘さんである奥様はとても質素で優しく感じの良い方でした。婿養子に秦家に入った秦藤樹先生はマイトマイシンCという抗ガン剤の発見者 です。妻は秦研究室で卒業実験を行ったのでした。

 

 

秦研究室は菌培養タンクを備え、夏休みで帰省する学生に土をとってくるよう指示し、培養した菌から抗菌作用を示す成分が分泌されることがわかると、それを抗がん剤として開発する根気強い仕事を大人数のスタッフで続けていたのです。それを利用したのがOさんです。彼は当時、学歴コンプレックスの塊でした。でもとても人付き合いの上手な人でした。彼の奥さんは「秦先生がまた学長になるようでは、K大学も人材がいない」と言われたそうです。Oさんは昨年ノーベル賞をもらいました。

 同窓会にでたとき、妻ののり子はOさんから私が何をしているかと聞かれました。彼女は「アメリカでメ-ソーしています」と答えたそうです。瞑想?そのまねごとをしたのはもう30年以上も前のことです。迷走? 私は、このつぎ彼に会ったら、「チェロの練習を始めました。暗中模索しています。「メイソー」は迷走です。オレンジのマスタング・コンバーティブルのマフラーをレーシングカー用のものに替えて暴走族のように走っています」と言うよう伝えました。

 

 

 

Barn’s & Nobleという書店へLPとDVDを見に出かけた折、そのコーナーを出たところで、ヴィルチェックの回想録と出会いました。私は彼のモノグラフInterferon”を読んで、同物質に興味を覚えたのです。プラハの春の時、祖国からアメリカに移住した彼はNYU(ニューヨーク大学)で研究していました。

同書を手にして、改めて彼の実直さと頭脳明晰さに触れることとなりました。

彼も今では齢80代半ば。サイトカイン(細胞間刺激伝達物質。インターフェロンもその一種)の研究を長年続け、TNF(腫瘍壊死因子)と拮抗する働きをもつ因子を製剤化することができました。クローン病と関節リウマチ炎の治療に使われるそうです。彼は多額のロイヤルティを得、数々の栄誉に輝きました。

 しかし、同薬剤には重篤な副作用が伴うのです。上記疾患が治るかどうかはわかりません。生体由来の物質だからといって薬に向いているかどうかは分かりません。ステロイド然り。TNFも肝機能障害を与えます。

 

 

 

昨年の秋。私が来日するのに合わせて大学の専門課程の同期会が開かれました。同窓会のようなものはなく、これが2~3回目ではないかと思います。

 20数名いるはずですが、出席したのは地方から来た10人弱でした。都内に住んでいるのは殆ど来ませんでした。メールの近況報告からみると、皆、私とは違って秀才なので、研究者として国立大学の教授(一人は出身学科の教授)か国立研究所の管理職となり、定年退職しています。中には大学を辞めてからもまだ私立大学の教授として研究を続けているのもいました。話題性や実用性など考えることなく、自分の好きな研究テーマに没頭しているようです。

定年後は家にいるのが半分。あとは学術審議会の副会長になるとか、ストックホルムでノーベル賞の選考に携わるとか、まだ研究に関連する仕事に携わっているようです。

 一人だけ、修士課程を終えると製薬会社に就職したのがいます。研究所長をやめ子会社の社長になっているそうです。彼がひとりで喋りまくっていました。

「マイトマイシンC(先程の秦先生がみつけ、同製薬会社で製品化して発売しましたが、副作用があまりにも強いので、現在は殆ど使われていません)を膀胱がんに直接塗布する使い方もある」とか同社の製品が〇十億円売れたとかいうのです。「GCSF(Granulocyte Stimulating Factor: 抗がん剤治療で減少した白血球を増加させる薬)は思いもかけず売れた」とか。この薬で顆粒球はいくらでも増やせますが、同白血球が増えるのは、活性酸素の放出という意味で望ましくないのですが。彼は「君のようにガンに対処するのも一つの方法ではあるけれど」とも言いました。20年以上も前、彼のスタッフが同研究所の機器を使って私の単離・精製した化合物の構造決定をしてくれたので、私はただ黙って聞いているだけでした。どこで私のことを知ったのでしょう。「がんになったら君に相談すればいいね」と言ったのもいましたが。

 東大・理学部・化学科を出た渡辺格教授は慶應義塾大学・医学部に分子生物学教室をつくりましたが、東大では「生物化学科」(時代の流れで、「情報…科」と名称が変わるようです)が生化学といって生命現象を研究する学問の拠点とみなされ、人気も高かったのです。教養課程で良い成績をとらなければ入れませんでした。多分私はビリで潜り込んだのでしょう。しかし、そこは私が学ぶ場ではなかったようです。授業にでなかったのも分かるような気がします。

 

 今、日本に用事で出向き、この文章を書いています。大隅君がノーベル賞をもらったそうです。彼は教養学部・基礎科学科出身で私と同学年です。駒場の化学教室では今堀和友教授を指導教官としていたので、同じコールド・ルーム(冷蔵実験室)で実験をしていることもありました。私はよく休みましたが、コロキュームとよばれた研究会議でも同席だったようです。勤勉・実直な大学院生だったのを覚えています。留学先のロックフェラー研究所で研究テーマをみつけたのでしょうか。

 

 私はインターフェロンからスタートし、ガンを治す方法を見つける研究を行いましたが、ガンを治す「薬」は本来体内に備わっていることを身をもって体験しました。私は、薬というか抗腫瘍メカニズムが働きやすくなるようにさせる物質類を見出したに過ぎません。

 

今、私が本当に知りたいことは、幼い頃の疑問に遡るようです。小学校に入るかなり以前、私は家の近くの路地に呆然とたたずんでいました。ここにいることが不可解で仕方がなかったのです。その謎を探っても分からないまま私はこの世を去ることになるのでしょうか。

 

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こんにちは。

 

神戸のサラ・シャンティさんで講演会をさせていただくことになりました。

 

今回のタイトルは

 

『ゼロ・フィールド・システム』

ガン研究者が自ら体験したガン克服法

 

です。自分の体験談をシェアできたらと思います。

そして一緒に考え感じてみましょう。

 

日時 2016年11月23日(日) 定員60名

 

   第一部 13時半〜15時半(講演)

   第二部 15時半〜17時(質疑応答*ガン患者さん優先に)

 

会場 サラ・シャンティ(六甲駅より5分)

 

参加費 当日3000円 前予約2000円

 

お問い合わせ サラ・シャンティ事務局

電話・ファックス 078−802−5120

メール sala_santi@rondo.ocn.ne.jp

 

 

 

 

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