偉人の言葉 【白洲次郎】 | 堀江信明

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2014.3.19(wed)

偉人の言葉 【白洲次郎】

   $          匿名のブログ-白洲次郎

▼ 白洲次郎
   (生年月日)   1902年2月17日 - 1985年11月28日
   (出身)     兵庫県武庫郡精道村(現・兵庫県芦屋市)
   (学歴)     ケンブリッジ大学 クレアカレッジ
   (職業)     官僚、実業家
   (趣味)     車(ポルシェ911)
            大工
            ゴルフ
   (信念)     プリンシプル (原則に忠実である)

  
  
  □ 略年譜
  22歳 1924年 ケンブリッジ大学入学(翌1925年卒)
  35歳 1937年 日本食糧工業(後の日本水産)取締役就任
  39歳 1941年 太平洋戦争突入
  40歳 1942年 町田市に農地を買って農民になる
  43歳 1945年 終戦連絡事務局参与に就任
          当時の外務大臣 吉田茂氏の要請を受ける。
  44歳 1946年 日本国憲法制定作業に参加
          終戦連絡事務局次長に就任、
          高等官一等
          経済安定本部次長に就任
  46歳 1948年 貿易庁長官に就任
  49歳 1951年 東北電力会長就任
  50歳 1952年 外務省顧問に就任
          軽井沢ゴルフ倶楽部理事長に就任
  80歳 1982年 軽井沢ゴルフ倶楽部常任理事に就任。
  83歳 1985年 死去



  □ 親族
  父  白洲文平 ハーバード大学卒業後、
          三井銀行、鐘淵紡績(カネボウ、現・クラシエ)を経て
          綿貿易で巨万の富を築き豪放磊落な人柄。
  妻  白洲正子 随筆家 (第15回、第24回 読売文学賞受賞)
  息子 白洲春正 東宝東和 二代目社長


  □ 関連ブログ
  2013.7.19(fri) 本 【レジェンド 伝説の男 白洲次郎】
    ┃目次

レジェンド 伝説の男 白洲次郎

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  □ 格言 ①

  『自分より目下と思われる人間には親切にしろよ。』

  Noblesse Oblige
   ⇒ 教養、知恵、あるいわ「徳」を持っている者は、
      それなりの義務、責務を果たさなければならんらい。
   2009.10.21(wed) 夢をかなえるノート記載

   $          匿名のブログ-白洲次郎 格言

  大前研一
     (生年月日) 1943年2月21日 -
     (出身)   福岡県若松市(現北九州市若松区)
     (学歴)   早稲田大学理工学部
            東京工業大学大学院原子核工学科
            マサチューセッツ工科大学大学院原子力工学科
     (職業)   経営コンサルタント、起業家

     (格言)
           恵まれた人は、
           ノブレス・オブリージを
           (身分に伴う道義上の義務)
           果たさねばらならいことを、
           もっと自覚する必要があると思います。

     $        匿名のブログ-大前研一 ノブレス・オブリージ


  □ 格言 ②
  1940年 次郎(38歳)
  すでに英米と日本の間に戦争が起こり、
  日本が敗戦すること、
          
  『日本が敗戦すれば
   東京は焼け野原となり食糧難になる』ことを予想する。

  1942年 次郎(40歳)
  町田市に農地を買って農民になる



  □ 格言 ③
  終戦連絡事務局参与となり、GHQとの交渉にあたる。
  日本政府がGHQに振り回される中、
  白洲次郎はケンブリッジ仕込みの英語でGHQと渡り合った。
  GHQは、アメリカ本国に次郎を
  
  『従順ならざる唯一の日本人』として報告した。

  ほとんどの日本人は、卑屈になり、アメリカに従った。
  その中で唯一、

  『戦争に負けたけれども奴隷になったわけではない』
  
  と言って毅然とした態度を貫き通した。
  白洲次郎は、免職になることなく職務を全うした。
  これは、白洲次郎の言うことは筋が通っていたからに違いない。



  □ 格言 ④
  GHQの民政局長であるホイットニーと初めて対面した時、
  ホイットニーから

  『白洲さん、
   あなたの英語は大変立派な英語ですね』と言われ、

  白洲次郎は

  『あなたも、
   もう少し勉強すれば立派な英語になりますよ』

  と答えた。
  きちんとした英国英語を話し、
  きちんと英国スーツを着こなし、
  身長も180センチ以上あり
  体格的にもアメリカ人に決して劣らなかった白洲次郎は、
  アメリカ人にとっても一目置かれる存在であったであろう。



  □ 格言 ⑤
  日本で初めてジーパンを穿いた男

  サンフランシスコの講和会議のためにアメリカへ行く飛行機での中、
  周りの日本人は皆きちんとしたスーツの身なりであったが、
  白洲次郎は機内をジーパンにTシャツで過ごした。

  『これから行くアメリカなんて
   たかだかジーンズにTシャツの国だ。
   たいしたことなんてない。』

  という次郎の気概が感じられる。

   $          匿名のブログ-白洲次郎 日本で初めてジーパンはいた男




  □ 格言 ⑥
  軽井沢ゴルフ倶楽部理事長に就任
  当時、首相であった田中角栄がこのクラブでプレイをしたいと申し出。

  秘書 『これから田中がプレイしますのでよろしく』

  だいたい事情を察した白州次郎は、

  次郎 『田中という名前は犬の糞ほどたくさんあるが、
      どこの田中だ』

  秘書 『総理の田中です』

  次郎 『それは、(ゴルフクラブの)会員なのか?』

  秘書 『いえ、会員ではありませんが、総理です』

  次郎 『ここはね、会員のためのゴルフ場だ。
      そうでないなら帰りなさい。』

  そう言うと白洲次郎はそっぽを向いてしまったという。
  当時、飛ぶ鳥を落とす勢いであった首相の田中角栄に対してさえも、
  一歩も引かなかった。

  首相であろうと誰であろうと、ルールを守るということを第一にしたのだ。


  
  □ 格言 ⑦
  1985年 次郎(83歳)死去
  遺言は、わずか二行だった。

  『葬式無用、戒名不用』