俳優の堀内正美さんとは、十数年ぶりの再会だった。
だが、久しぶり感がまったくなかった。
堀内正美さんは、気骨のある人だ。
反骨精神もある人だ。
社会のために身体を張ってきた。
阪神淡路大震災、東日本大震災、福知山線事故…、
災害や事故が起きるたびに、ボランティア活動の渦中にいた。
それは、彼を育み、彼を培ってきた一貫したものがあるからだろう。
祖父の堀内文吉さん、祖母のまつ代さんは、山梨県富士吉田市の自宅を開放し、大人と子どもの共学の場を作っていた。その名を
「学半舎」。互いに学び合う場だった。そこにいくと必要とされる自分がいた。
父は社会教育映画の監督として活躍した堀内甲(まさる)。
エログロとは一線を画し、社会派の映画を撮り続けた。
堀内さんの宝物に、古びた一冊の写真集がある。
写真集のタイトルは「筑豊のこどもたち」。
写真家土門拳さんの作品である。
60年前に出版されたこの写真集は、週刊誌のような体裁で、紙はザラ紙、写真は白黒、値段は100円。
この写真集は、映画化を考えていた父親が買ってきて、食卓テーブルの上に置かれていた。
表紙には、寂しげに指をくわえる女の子が映っていた。
当時の堀内さんは小学校3年生。
同じ日本の中で、自分と同じような年頃の子どもが、劣悪な環境で生活し、父親を待っている…。自分の知っている世界とはまるで違う、もう一つの世界が写真集の中にあった。
写真集を見た影響は計り知れなかった。社会にはなぜ貧富があるのか、社会を変えたいと60年代に学生運動に参加した。
20歳の頃、成田空港建設に反対する千葉県での三里塚闘争に参加。その地で出会った農業従事者から投げかけられた一言が人生を変えた。
反対派の農民のおじいさんに言われた。『あんた、帰るところあるんだろ。ワシら、帰るところないから』と。
その言葉で運動から離れた。いっぱしの革命家気取りでいたが、そのおじいさんの一言に打ち砕かれた。
逃げるように俳優の道に入った。
1974年には、NHK朝ドラ『鳩子の海』でヒロインの憧れの人を演じ、全国に名を知られるようになった。
その後、個性的な役柄を次々と演じるようになる。
若い頃はナイーブな青年役に持ち味を発揮していたが、しだいに乱心する公家役・エキセントリックな黒幕的役柄を中心に、特撮作品や時代劇にも多く出演してきた。
順風満帆の俳優生活だったが、生き方を変えようと、1982年、神戸に移住。
1995年、阪神大震災に遭遇。
震災直後にボランティア団体「がんばろう!!神戸」を立ち上げ、被災者に寄り添った支援活動を続けてきた。
神戸市役所の南側に位置する東遊園地には「慰霊と復興のモニュメント」がある。震災の犠牲者、その後亡くなった被災者、復興に携わった人たちの名前が刻まれ、追悼の「希望の灯り」が燃え続けている。その灯りの設置に尽力したのも堀内さんだ。
堀内さんの座右の銘は、「生き尽くす」。
祖父から教わった生き方の指針だ。
人のために生きることが、自分の喜びだ。
いろんな縁や恩義の中で、俳優を続けて来られたと思っている。
「他のために」生き尽くすことが、自分の役目と心得ている。
堀内正美さんの3つの縁を聴く、シャナナTV『縁たびゅう』。
配信は、
6月3日(月)からの週と17日(月)の週に予定。
11:30~と20:30~の毎日2回配信。
ほどなく、YouTubeで、いつでもどこでも見られる。
24時間常時放送のインターネットテレビ局 - シャナナTV (shanana.tv)