アイビーの独り言

加藤りつこのブログ


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    【春を待つリサイタル】 テノール歌手・上本訓久


日時 : 2016年2月28日(日) 13:00開演(12:30開場)

会場 : 広島県民文化センター ホール

      広島市中区大手町1丁目5-3(駐車場はございませんので公共交通機関を

      ご利用ください)


入場料 前売券     大人 3,000円 (当日券3,500円)

            中・高・大 1,500円 (当日券2,000円)

             小学生   500円


※収益金全額を被災地の復興支援活動に活用させていただきます。



チケットお申し込み・お問合せはホームページからもできます。

http://hiroshima-fukushima.com/registration/index.html


お問合せ TEL 090-6840-7943(加藤) 080-4553-3612(小田)





お茶目な訓久さんのステージは楽しくて笑いがいっぱいです。 






上本訓久(うえもとのりひさ)さんは、高校卒業するまで、クラシック音楽に興味を示さなかったので、基礎を学んでいませんでした。それにも関わらず、彼は音大に入学したいと目標をかかげました。


しかし、いきなり受験はできず、短大で声楽を学びました。

そして、勉強の嫌いな彼が猛勉強を始め、良い成績を収めることができたのです。

彼は、洗足音楽大学の3年生に編入でき、晴れて音大生となることができました。

そこでも頑張りました。遂に彼は首席で卒業したのです。

他の学生達は、クラシック音楽の基礎ができている人ばかり。

そんな学生たちの中で首席で卒業するということがどれ程難しいことか。

そして彼は大学院生となり、そこでも首席を通したのです。


その後イタリアへ留学。国際音楽コンクールで1位を受賞。

めきめきと力をつけていきました。










また、ご両親もクラシック音楽にはご縁のない方々でした。

訓久さんが大学時代に、「第九をソロで歌うアルバイトが決まった」と喜び勇んで電話すると、お母さんは嘆かれました。

「せっかく音大に入ったのに、どうして大工のお仕事するの?」 と。


人生って、面白いですね。

上本訓久さんは、私たちに生きる勇気や元気を与えてくださいます。

歌声はすばらしく、生で聴くと大迫力ですが、聴衆の心をふわっと包んでくれる不思議な声なのです。


ぜひ会場で、その歌声に包まれてみてください。 とても元気になれるのですよ。




間借りしている学校の通用口が現在山木屋中学校の玄関となっています。





この度の収益金は全額、福島の中学生達の笑顔を作る支援に活用させていただきます。


福島県伊達郡川俣町山木屋は、原発事故のため避難区域に指定され、住民の皆さんは全員避難されています。

今年の3月で5年になります。

山木屋地区は、田畑や宅地の除染が終わり、4月から帰還許可が出ました。

しかし、帰還されるのは、人口300人中、30人ばかり。それも60歳以上の方々ばかり。

若い人たちは、子供たちのためにと、他の地域に移住されるそうです。


当然、小学校は新入生がいなくて、3~4年後には廃校となるでしょう。と言われました。

中学校も小学生がいなくなったら廃校に追いやられます。




学校名のプレートは生徒と先生が彫刻刀で彫った手作りです。胸が熱くなりました。






山木屋小学校・中学校の校舎は2011年3月以来閉鎖されたままです。

全校生徒30名に減少した山木屋中学校は、今も街中にある川俣中学校の4階に間借りした状態で窮屈な学校生活を送っています。


休憩時間でも遠慮してグランドで遊ばないそうです。

人数が足りないのでクラブ活動もできません。


運動不足で体力が減退することを先生方もご家族も心配されています。


そんな情報を得て、一昨年の暮れに広島の村田均整の村田先生が、広島県廿日市市が発祥の地として有名な、けん玉を寄贈してくださいました。

子ども達は、ネットで調べて技を習得しようと当初は頑張っていたようですが、1年経った今では、教室の片隅に眠ったままの状態になってしまったと聞きました。




村田均整の村田國人先生から寄贈されたけん玉






そこで、私たちは、日本けん玉協会の方に相談し、福島在住の有段者で協会員の方を派遣し、毎月1回、けん玉教室を開いて指導していただくことを、学校へ提案しました。

山木屋中学校の校長先生が職員会議にかけてくださり、その方向で考える運びとなりました。

その支援にこのイベントの収益金を活用させていただきます。


一人でも多くの方が、「上本訓久リサイタル」 にご参加くださり、私たちと共に彼らの笑顔を見ることができますように。


心から願い、ご支援をお願いいたします。


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国立ハンセン病療養所長島愛生園にて金泰九さんと盈進ヒューマンライツ部     延和聰・撮影







広島県福山市 私立盈進中学高等学校の創立111周年記念式典で

ヒューマンライツ部から、5名の生徒が 【優秀生徒】 に選ばれ表彰されました。


橋本瀬奈さん(高2) 松田殊里さん(高2) 作原愛理さん(高1)

高橋悠太君(中3) 後藤泉稀さん(中3)




更に謙虚に、感謝を忘れず、更に向上を。    (コサギ)          内藤達郎・撮影





顧問の延和聰教頭先生から、次のようなメールをいただきました。


【彼らの能力もさることながら、りつこさんはじめ、苦難を経験し、「人としての生き方」 を示してくださっている方々に、感謝する契機になって欲しいと願っています】


先生のこのひと言で、彼らの能力は更に謙虚に開花するでしょう。




大きく羽ばたけ。 美しく咲け。       (皇帝ダリア)            内藤達郎・撮影





皆さん、本当におめでとうございました。

これからも、学問と同時に心を磨き、人としてもすてきな大人になってくださいね。






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活動報告の展示会場で輝く笑顔のヒューマンライツ部              撮影・延和聰








第3回 広島国際大学・毎日新聞社主催 「こころからの手紙コンテスト」


☆最優秀賞(全国1位)


テーマ : 「家族」 に宛てたこころの手紙


タイトル: 2人のお母さんへ ~「ベリギャル」 からの感謝のお手紙~



                      盈進高等学校2年 ヒューマンライツ部

                        副部長 松田 殊里(まつだ ことり)



 ひろこお母さんへ。 不良だった私を見捨てず支えぬいてくれてありがとう。

 りつこお母さんへ。 不良だった私に更生するきっかけをくれてありがとう。



 遅刻は当たり前。 授業に出ない。 暴れ回るし、ことばは汚い。 極めつけは茶髪にピアス。

そんな私を最後まで一番そばで支えてくれたのは、ひろこお母さんだった。




どんな時も支えてくれたお母さん        (ジョウビタキの母)        撮影・内藤達郎






 今、正直に心を開く。 家族の事情で、兵庫から広島に越してくることになって、 私は、ただ寂しかった。 私の故郷、「兵庫」 がなくなってしまう感じがしていた。 仲良しの友だちもいなくなり、さびしかった。 兵庫で立てた目標も消えた。 広島には広島のいいところがあるけど、 私らしさがどんどん消えていってしまいそうな焦りや不安があった。 「郷に入れば郷に従え」 なのだろうけど、その頃はまだ、未熟な私。 そんな私にはどうにもできなくて、 さびしさが恐くて、荒れていた。




自分らしさが消えてしまいそうな・・・・・                       撮影・内藤達郎






 ひろこお母さん。 振り返れば、広島に越してきて、備後弁と播州弁で毎日、大喧嘩ばかりでしたね。 毎日、本当に激しい近所迷惑だったと思う。 私は、ひろこお母さんに暴言を吐きまくっていましたね。 家の中は散らかり、壊れ、まさに私は、「不良」 でした。 その私が、「ビリギャル」 よろしく、高校すら危ういのに、「絶対、大学行く。慶應に行くんよ」 と、突飛なことを言い出しました。 受験3ヶ月前だったね。 そして、やっと本気で勉強をはじめて、めざした高校に合格。

 高校に入学しても、いっぱい勉強しました。 3年前の我が家。 今の私を誰が想像したでしょうか。 高校1年生1学期中間テストでは、クラス順位一桁をとりました。 ひろこお母さんと二人で飛び上がって喜んだことは今でも鮮やかに覚えています。 その日の晩ご飯は、ひろこお母さんのはからいで、美味しい焼き肉だったことをしっかり覚えています。





自分を取り戻す時。出会いの瞬間。素直な心で。                 撮影・内藤達郎





 りつこお母さん。 お母さんは阪神淡路大震災で、神戸大学の学生だった愛息子を亡くしました。 りつこお母さんは、 私が更生するきっかけをくれた大切な人なのです。

 最初の出会いは中学3年生の時にあった学校の講演会。 不良だった私は、いつもならば間違いなく、「めんどくさ!」 と言って保健室でサボっていたと思う。 でも、兵庫県生まれで、小学校まで兵庫県で生活していた私。 講演タイトルの 「阪神淡路大震災」 という文字に導かれて、 なぜか 「今日は話を聞いてみようかな」 と思ったのだろう、 気がついたら体育館で話を聞いていた。 

不良娘の私は、「見当違いだったら寝てしまえ!」 と思っていた。

友達や先生は、私が体育館に座っていることに驚いていました。





感動する心が細胞を甦らせる                  撮影・内藤達郎





 講演中、寝るなんて・・・ 終始聞き入って、涙ぼろぼろ泣いていた。 感動して、人生観がひっくり返った。

 りつこお母さんは教えてくれましたね。 目標を持つ大切さを。 人との出会いの大事さを。 命の重さを。 生きることの意味を。

 「亡くなった貴光は、湾岸戦争に疑問を持ち、世界平和のために国連職員になるという目標に向かった。 そのために猛勉強して神戸大学に合格した。 でも、それからしばらくして亡くなった。」

 もがき苦しんだりつこお母さんを救ったのは、貴光さんが遺した生涯でたった一通の手紙でしたね。 「私はあなたから多くの羽根をいただいてきました。 人を愛すること、自分を戒めること、人に愛されること・・・ 力の続く限り翔び続けます。 あなたを母にしてくださった神様に感謝の意をこめて」。

 りつこお母さんは、この手紙に共感した方々とたくさんの出合いをもらったとおっしゃっていました。 りつこお母さんは、同じように、東日本大震災被災者支援活動をやっていた 「ある高校のクラブ」 と出合い、つながったのでした。

その 「クラブ」 では、りつこさんを 「お母さん」 とお呼びしているとのことでした。 りつこお母さんは、出合った時、そのクラブの高校2年生が、 貴光さんの亡くなった 1995年生まれだと知り、衝撃を受けたのでした。 もし、貴光さんが生きていたらその年齢分、その高校生たちが生きていることになるからです。 りつこお母さんは、その不思議なご縁を大切にしたい、その高校生たちに 「どん底を経験したからこそ、凛として生きている姿を見せるんだ」 とおっしゃっていました。 りつこお母さんは泣きながら、体育館の私たちにおっしやったんです。 いや、聞き入る私には、りつこお母さんが直接、私に語りかけてくれているようでした。




悲しかった過去。苦しかった過去。全てを糧に飛び立とう!!           撮影・内藤達郎





 講演会の後に書いた感想文は、感想用紙が真っ黒になるほどギッシリ書きました。 担任の先生からはじめて、大きな大きな花丸もらいました。 そしてその日・・・

 家に帰ってすぐに美容院に急ぎ、髪の毛を真っ黒にして、ばっさり切って更生のスタートを切りました。 目標は、りつこお母さんから教えてもらった 「ある高校のクラブ」 に入って活動することでした。 そして念願叶い、今、私は、貴光さんの遺影のある 「ある高校のクラブ」 の副部長として、貴光さんの笑顔に毎日見守られ、りつこお母さんのたっぷりの愛に包まれて、大好きな仲間たちと心を一つにして、人権と平和をしっかり学んで、反戦 ・ 平和 ・ 反差別の視点でしっかり活動しています。 しかも時々は、りつこお母さんといっしょに。

 今、とっても生活が充実し、こんなに幸せでいいのかって思うほど楽しい毎日です。








大好きな仲間たちと活動できる幸せ    (盈進ヒューマンライツ部)        撮影・延和聰




 先日、クラブの顧問の先生が私にこんなことを言ってくださった。 「マイクを持った声がとてもいい。 声が通るし、聞いていてとても落ち着く」。 そして 「アナウンサーが似合うと思うぞ」 って。 うれしかった。 だから、きっと、そうなれるように、努力を積み重ねます。




もう不良の道には戻りません!  (盈進レンジャー・レッドの殊里ちゃん)      撮影・延和聰





 私の2人のお母さん。 今の私は、2人のお母さんがいるからこそあるんです。 私はほんとに贅沢ですね。 こんなに素敵なお母さんが、 しかも2人もいる。 私は日本一の 「ベリーラッキーギャル」 (略して「ベリギャル」) です。

 「ビリギャル」 のように慶應義塾大学は厳しいかもしれませんが、大学受験は本気で戦います。 ですからこれからも支えてくださいね。 2人のお母さんがいれば、私は何も怖くありません。 これまで、本当にありがとうございます。 

これからもどうぞよろしくお願いします。 







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母急死の翌朝、平和公園の空に日輪が現れた。亡き人の魂と人はいう      撮影・内藤達郎





2015年8月8日~11日


福島県立いわき海星高校【チームじゃんがら】 (生徒19名、引率教諭2名) を広島に迎え、被爆70年の平和公園と、広島大規模土砂災害から1年の安佐南区八木ヶ丘で、じゃんがら念仏踊りを奉納していただいた。




福島県立いわき海星高校チームじゃんがらによる念仏踊り奉納(平和公園)   撮影・内藤達郎





 【広島と福島を結ぶ会】 設立時から3年越しの念願だった。

多くの支援者のおかげでこの大事業を感動のうちに終えることができた翌朝、疲れ切った身体を休めることもできないほどの衝撃に、私の心は打ちのめされた。


田舎で一人暮らしをしていた母が倒れているという知らせが近所の方から入ったのだ。




心身耗弱状態・・・状況把握までに時間がかかった                 撮影・内藤達郎





 私は今年になって大変忙しく無理をして動いていたので心身共に限界だった。

 そんな中、連日酷暑の中でのチームじゃんがら招待の4日間は大変きつかったが、それ以上に想いが強く乗り切れた。


 終了の翌朝いつもお世話になっている村田均整で整体治療の予約を入れていたが、急遽予約キャンセルして、妹の車で実家へ向かった。

救急車を呼んでいただき処置をされるものと思い、実家に着いてみると、隊員の方から「死亡」の宣告を受けた。

 到着した途端、いきなり亡くなって日にちが経過していると聞かされても、私たちは信じられず、事態を把握するまでに時間がかかった。


 配達された朝刊が9日、10日、11日と3日分取り込まれていなかったこと。

8日の午前中は自分で介護タクシーをお願いして、整形外科で受診していたこと。

近所の方も帰ってきた母を見たとの証言を得たこと。


 それらの状況検分と警察による検死結果により、亡くなったのは、8月8日の昼過ぎに心筋梗塞により死亡と診断された。




8月8日午後2時31分広島駅にてお迎え。この頃母は倒れた           撮影・浜田敏子





 その時間は、奇しくも私たち 【広島と福島を結ぶ会】 が、【福島県立いわき海星高校チームじゃんがら】 のご一行を広島駅でお迎えしていた時刻だった。


その日から4日間、私たちは交流会や歓迎会、じゃんがら念仏踊りの奉納、世界遺産である宮島案内、平和公園碑めぐり、お別れ会など、スケジュールびっしりの毎日だった。




あの4日間母はそっと独りで待っていてくれた                    撮影・内藤達郎





「大切な4日間が終わったら、整形外科へ連れて行ってあげるからね」 と母と約束していたのに・・・・・・

 その日を待てず母は独りでそっと逝ってしまった。

まるで、我が子の負担にならないようにと、じゃんがら招へいの4日間、誰にも発見されず、そっと待っていてくれたかのように・・・・・









 母は、私たち3人の子どもに介護もさせず、認知症にもならず、最期まで一人で立派に生活していた。

 「どこへも行きたくない。この家で最期まで暮らしたい」 と言って生きることに一生懸命だった。

毎年、野菜の種を蒔き、それが実り収穫することを生きる目標にしていた。

 「今年も野菜を作ることができた」

1年の目標を達成したことは、生きた証として、母の最上の喜びであり誇りであった。

 「きつい仕事はしないように手伝いに行くから」 という私たちの言葉をバネにしていたのか、手伝う前に自分で終えて、電話してくる母だった。

 「じゃがいも掘ったよ」 

 「タマネギも全部掘って吊るしたよ」

私が驚くと、「今年も一人でできたけど、来年はどうなることやら? でも、種だけは買っておいてそれを目標に頑張って生きるんよ」 と誇らしげに言っていた。


 89歳で母は逝った。

デイサービスも利用せず、ヘルパーさんにも、私たち子供にも頼らず。





子を失った母の気持ち。母を失った子の気持ち。両方の気持ちを知った私  





私は20年前、最愛の息子を21歳で亡くした。

たった1人の我が子を亡くし、私は溢れる母性を注げる相手を失った。

もがき苦しみ悲しみ、のた打ち回る私がいた。


そんな私を心配し苦しんだ母だった。

身体を壊さないで・・・

心を病まないで・・・

食欲はあるか・・・

睡眠は取れてるか・・・

そして,私が最も聞きたくない言葉を母は私に浴びせかけた。


「りつこにもしものことがあったら、私は生きられない」


70歳の母には当然の想いであっただろう。

しかし、心がズタズタに傷つきゆとりのない私には、耐えに耐え、伸びきったゴムひものような心がプツーンと切れてしまった。


子供にもしものことがあったら母は生きられないと言う。


そうよ・・・私の子どもには その ”もしものこと” があったんですよ。

あなたの子ども達は3人共、生きている。

私にはそんな心配をしてやる子どももいなくなったのに、よくそんなことが言えるね。


私は母に反抗した。

46歳で反抗期の子供のように。

私の心はストレスで爆発した。

そんな日々は10年続いた。

母が大嫌いになった。

故郷を想うことさえ辛くなった。

それでも高齢になった母に会わなければならないことでストレスは溜まった。


そんな気持ちは心の奥にしまって、人の前では善人の顔をする自分が許せなくて、葛藤の連続だった。




心の中では葛藤の連続           (芙蓉)               撮影・内藤達郎





私は多くの方々から愛をいただいた。

いただく愛の大きさに、ふと我に返った自分がいた。


冷静に考えられるようになっていった。




ふと我に返って・・・・・            (アオサギ)               撮影・内藤達郎






私は、他者から母と同じような意味あいの言葉を何度もかけられたけど、耐えられた。

なぜ?


「もし、今私の子供が亡くなったら、私だったら生きてゆけないでしょう」


そんな言葉は日常に溢れていた。

それでも笑顔で対応できた。

なぜ?


ある時、ふと気づいた。

そんな日常のストレスを、母に全部吐き出していたのではないか?

誰にも吐けなかった 「心の毒」 を、私は母に吐き出していたのだ。

私は 「大嫌い」 と思っていた母を、一番近い存在だと感じ甘えていたのだ。

どんなことでも許してくれると信じ、安心できるのは母親だけだ。 と。

もし、あの慟哭の日々を、耐えて耐えて耐え抜いていたら、私はいつか爆発して命を絶っていたかもしれない。

そんな想いを母に告げた。

母は号泣して 「ありがとう」 と言ってくれた。




どんな時も許して耐えてくれた母          (ムクゲ)            撮影・内藤達郎








 突然、元気だった我が子を失うという残酷なできごとは、親の心をこれ程までの狂気に曝す。


そんな私が、真から心の解放を得たのは2~3年前頃だった。

母はとても喜んでくれた。

私の活動する姿を褒めてくれた。

私の心は揺るぎない安定感を得て、他者の幸せを心から喜べるようになった。


すると、私の周りにも幸せがどんどん舞い込んでくるようになった。

昨年暮れ頃から、本の出版を薦められ、長い時間をかけて説得され、執筆を始めた。

来月、亡き息子の誕生月に出版の運びとなった。

それを一番喜んで待ってくれていたのが母だった。

でも、母に完成本を贈ることができなくなってしまった。

その自分の心に生じた落胆の度合いを知って、私は母を生きる支えにしていたことを知った。




失って初めて分かる母の偉大さ                             内藤達郎・撮影






母とは・・・

子とは・・・

母と子の両方を失い、想像を絶する苦しみの中で、初めて見えた命の心髄。

暗闇の中でしか見ることのできなかった一筋の光明。

母の偉大さ、子の貴さを、更に深く考えさせられた。


母の急死から3ヶ月。

私はブログを書くことができなくなっていた。


その私に、次々と感動のできごとが押し寄せた。

それは、漆黒の空を染める満天の星のように、私の足元を照らし、冷えた心を温めてくれた。

そのおかげで、ふたたびブログと向き合うことができた。


母への想いをここに記そう。

ふたたび歩き始めるために。







  




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8月9日平和公園での慰霊の後、最も暑い午後1時30分から、いわき海星高校【チームじゃんがら】は、昨年8月20日の土砂災害被災地を訪問し、あれから1年目の現場で慰霊の舞を奉納しました。











被災された地域の方々が、猛暑の安佐南区八木ヶ丘へ、大勢駆けつけてくださいました。













いわき海星高校の生徒たちも、津波で自宅を流された者、原発事故で未だ解決していない問題を抱えている者、形は違えど、同じ被災者として、他人事としては考えられない生徒たちです。






災害状況の説明をうけるチームじゃんがら。


土砂災害の現場で黙祷






まだ生々しい現場での慰霊の舞に魂が込められ力が入っていました。


また、集まってくださった地域の方々も、遠く福島からやってきてくれた生徒たちの真剣な舞に心を打たれ涙される方々もありました。




向って左から、山根副会長、奥迫会長、いわき海星高校校長の澤尻先生とお土産を渡す生徒



キャプテンの古川瑞希君も津波で自宅を流された被災者です。広島の被災者の皆さんへの想いを語りました。



地元の被災者の方々も、このじゃんがら念仏踊りに温もりを感じてくださったようです。






【このじゃんがら念仏踊りには、何か見えないものが働いていたような不思議な力を感じました。町内会の人たちの気持ちが一つになれました。ありがとうございました。】


翌日の早朝、町内会長さんからこのようなお電話をいただきました。


【お忙しいとは思いながら、電話をせずにおれませんでした。本当にびっくりしています。感動です。】


会長さんの嬉しいお言葉に、一緒に居たいわき海星高校の先生も生徒たちも、大変感動されていました。






猛暑の午前と午後の2回公演に生徒達疲れていましたが遅い昼食【薫風のお好み焼き】に力づけられたようです。「美味しい!」「うま~い!」あちこちから感動の声が上がっていました。お茶は薫風さんの取引先の飲料会社からのご提供でした。集会所は早くからエアコンでヒンヤリ冷やしてくださっていました。八木ヶ丘町内会様の温かい想いに、救われました。冷たいお茶や水もたくさん用意してくださっていました。すてきな交流会にもなりました。





想いが通じ合うことで、想像以上の力になる。

そんなすてきな発見もあった、この度の慰霊の交流でした。


                                  撮影は内藤達郎(ひろふく会)


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