穏田神社へやってきましたあしあと



ここは原宿



おしゃれな店が沢山並んでいる道を
一本入った所にありました神社



『穏田』

「おんだ」
と読んでましたが

「おんでん」
と読むのだそうですパーアセアセ



Wikipediaで調べてみると


穏田(おんでん)は
東京府南豊島郡などに
かつて存在した村だそうです

1932年(昭和7年)に
東京市が15区 → 35区に拡大した際
東京市に編入
同市渋谷区隠田となり
東京特別区成立後の1965年(昭和40年)に
住居表示が施行されたのに伴って
「穏田」の名は
住所から消滅したという



江戸時代の穏田は
村の中央を流れる渋谷川(隠田川)に
水車がかけられ
稲作が行われる田園地帯だったそうです

ただし
渋谷川は沼のある低地を流れているために
水田の灌漑には使うことが出来ず
村人は現在の明治神宮境内にある
南池の水を山手線の下を東流させて
水田に引き入れていたようです

川筋には
米の賃つけをする水車稼業の小屋が
点在していた…

とありますが

「水車稼業」というのが
どんな稼業なのかがイマイチ…??

動力源として
何らかの生産をしていたんでしょうね


稲作も行われていた穏田ですが
明治時代以降には急速に市街化が進行し
この地の水田は
明治42年頃には姿を消しちゃったそうです


穏田の地名は消滅しましたが
商店街の名称で「穏田商店会」や
渋谷区の施設「神宮前穏田区民会館」
などで
その名を残しているようですよ上差し







車がいっぱい



近くが工事中で
駐車場として貸してるようですね



穏田神社は
旧穏田一円の産土神で
天正19年に
伊賀衆が穏田の地を家康より賜り
給地となったそうです

江戸時代は
「第六天社」と称し
明治の神仏分離の際に
「隠田」から「穏田」に改め
穏田神社と改称したとか







手水舎







水鏡の文字が見えます


『水鏡』

水がありのままに
武士姿をうつすように
行いを正しくし
人の模範となること
(辞書より)


だそうです







狛犬



これはまた
面白い形状ですねイヒ







ネットで調べてみたら

『肥前狛犬』
に分類される…

と誰かが書いておりました







拝殿



御祭神は


淤母陀琉神(おもだるみのかみ)
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)
櫛御食野神(くしみけぬのかみ)



「淤母陀琉神」と「阿夜訶志古泥神」は
夫婦だそうです


神世七代(かみよななよ)の第6代の神で
「オモダル」が男神
「アヤカシコネ」が女神だそうです

オモダルは
「完成した(=不足したところのない)」の意
アヤカシコネは
それを「あやにかしこし」と美称したもので
人体の完備を神格化した神なのだとか上差し


中世には
神仏習合により
神世七代の六代目であることから
仏教における欲界の六欲天の最高位である
「第六天魔王」の垂迹であるとされ
特に修験道で信奉されたそうです


明治の神仏分離により
第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり
「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」
などと改称したそうです


もう1つの祭神
「櫛御食野神(くしみけぬのかみ)」は
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
の事だそうですパー


別の神だという説が
最近になって出ているそうですが

神社明細帳でも

 「須佐之男命
     またの御名を
     神祖熊野大神櫛御気野命」

とあり
同一神という伝承に忠実なことでは
一貫しており
別の神とするのは
あくまでも現代人の説にすぎない

とWikipediaにありました


これら3柱の神を祀るこの神社は

美容
技芸上達
縁結びの神として

尊崇されているようですよキラキラ



ちなみに


「神世七代の6代目」って何だろう…
と調べてみたら


『古事記』上巻の冒頭では
天地開闢の際高天原に
「造化の三神」

天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
神産巣日神(かみむすひのかみ) 

という
男女の性別が無い神
「独神(ひとりがみ)」として現れ
そのまま身を隠したという


「造化の三神」
これは…

つい最近訪れた
「東京大神宮」の
ご祭神にいましたねー!パー


いやはや
勉強は無駄にはならないチョキ



その次に

国土が形成されて
海に浮かぶくらげのようになった時に

宇摩志阿斯訶備比古遲神
(うましあしかびひこぢのかみ)
天之常立神
(あめのとこたちのかみ) 

という

二柱の神が現われ
この二柱の神もまた
独神として身を隠したという


これら五柱の神を
天津神(あまつかみ)の中でも
特別な存在として
『別天津神(ことあまつかみ)』
と呼んだそうです

そして


別天津神(ことあまつかみ)の次に現れた
十二柱七代の神を
『神世七代(かみよななよ)』
と呼ぶのだそうです


最初の二代は一柱で一代
その後は
二柱で一代と数えて七代としたそうな

(一代目)
国之常立神(くにのとこたちのかみ)

(二代目)
豊雲野神(とよぐもぬのかみ)

(三代目)
宇比邇神(うひぢにのかみ)
須比智邇神(すひぢにのかみ)

(四代目)
角杙神(つぬぐいのかみ)
活杙神(いくぐいのかみ) 

(五代目)
意富斗能地神(おおとのじのかみ)
大斗乃弁神 (おおとのべのかみ)

(六代目)
淤母陀琉神(おもだるのかみ)
阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)

(七代目)
伊邪那岐神(いざなぎのかみ)
伊邪那美神(いざなみのかみ)


なるほどねー






拝殿前の狛犬







こちらの狛犬は
「準江戸型」
と誰かのブログにありました


そのうち
そんなことも見分けが付くようになるのかなぁ







大正14年9月に作られたようですね







折れた柱がポツリ







旧第一鳥居の柱基部



旧穏田3丁目79番地に鎮座した
熊野権現の参道に
今から約330年前に建立されたそうです


明治18年
熊野権現を合祀の際に
手水石と共に移設された

とあります

震災・戦災を免れ
宮居を守り氏子の発展を見守ってきたそうです







お稲荷さんがありました神社







出世稲荷神社



祭神は
宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)







河野カタ女史像

 
河野カタ女史は
漢方医薬の大家にて敬神の念厚く
特に当穏田神社には日参数年
その間戦災に依る境内の荒廃に心寄せられ
拝殿、神楽殿、稲荷社、渡橋等
ご奉納の篤志に対し
氏子総代相はかり胸像を建立
永遠に女史の志を彰するものである

 昭和40年(1965)6月吉日
 穏田神社氏子総代  


だそうです


一説には


この神社の氏子さんであった
河野カタという方の夢枕に

「境内の草むらに稲荷の祠が埋まっていて
    昔は参拝者が多く大事にされていたのに
    いつの間にか跡形もなくなっているのを
    稲荷様が怒っておられる」

と老神が言ったので
昭和36年に建てられたと






隠田神社と
出世稲荷神社の御朱印

2つ戴きましたチョキ