予告の長文~俺はなぜ「ノバラ」を運営してるのか。 | 野ばらと浪漫

予告の長文~俺はなぜ「ノバラ」を運営してるのか。

彩流社さんから夏に出した『虹色の貧困』(http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4779115493/hanmotocom-22の続きみたいな話になるんだけど、それが宗教であれ、社会運動であれ、政治活動であれ、ボランティアとかで関わろうとするのであれば、まずは主宰者(または主要メンバー)に「総合的なヴィジョン(=最後には一体どうなりたいのか)」というのをキチンと示してもらってほしいのです。それを聞いたうえで、「うん、なるほど!」と納得できたのであれば仲間に加わればいいし、「う~ん、なんだかなぁ……」と合点がいかないのだとしたら止めておきましょう。これは自分の過去の失敗を踏まえた上での忠告なんだけど、何だかわからない「種」や「苗木」だけを見せられて「これを一緒に植えて育てましょう!」と云われたとしても、そんなのに軽率に(思考停止状態で発作的に)乗っかってしまっては絶対にいけないのです。何の花が咲くのか、どんな木になるのか、それをしっかり確認した上でなくては、あとで必ず悔やむことになる。そこのところを曖昧にしちゃうと、正義の仕事を行なうつもりで始めたのに、気が付いたら他人の尻馬に乗って誰かをリンチしていた……なんて悲喜劇も充分に起こりうるわけです。戦争なんてのはたいていその図式なわけで、まさに「短絡思考は大ケガのもと」ということですネ。

俺はイデオロギーとかでは動かない(=机上論からは運動には関わらない)ことにしているんだけど、それは「●●するなら××」という先入観で行動すると、たいてい誤るからです。「政治をする=議員になる」「政治家にならなきゃ政治はできない」というのも典型的な「先入観」「思い込み」のひとつですね。「迷信」「都市伝説」と云っても過言ではない。バッジがなければ政治がやれない、なんてことは誤解もいいところ(まぁ、「センセー」と呼ばれてエバるためにはバッジが不可欠ですが……)で、普通の仕事をしながら、「民」の立場からだって世の中を明るくすることは十二分にできるのです。逆に、議員になったところで、本当に世の中の役に立てるかどうか、なんてのは怪しいもので、昨今の職業政治家(=政治を食い扶持にしている人々)のていたらくを見れば納得できるでしょ? 悲しい、そして情けない話だけれど、今の政治家……いや「政治屋」なんかをアテにしていたら、少なからぬ弱者がバタバタ死んでしまいかねない。でも、「民」の側でその気になって動けば、いつするのかわからない(あるいは永遠にしないかもしれない)政治決断なんか待たなくたって、それこそ明日からだって世の中は変えられるのです。

たとえばますます深刻化の度合いを増し続ける「ホームレス問題」にしても、法改正を待たなくたって、街の大家さんたちが「敷金・礼金」を放棄してくれればかなりの割合で解消できると思うのです。ネットカフェ難民とかは、スポット派遣とかで日銭を稼いでも当座の生活費として右から左へ消えてしまい、入居時に必要な初期費用がなかなか貯められないからいつまで経ってもアパートが借りられないんだからサ。大家さんたちは一応、不動産持ちの「資産家」なんだから、べつに敷・礼なんか取らなくたって食い詰めるわけではありません。敷金・礼金なんてのは法的拘束力を含めて「絶対に必要なもの」なんかでは全然なく、優しく云えば「悪しき慣習」、ありていに云えば「あくなき強欲心の産物」でしかないんだから、そのちょっとした(?)執着を捨てさえすれば、助かる人が大勢出てきて、世の中はもっと明るくなるはずなんですワ。そしてそれは、「愚鈍な永田町勢に代わって、民が行なう政治活動」なんです。あるいは個人がベランダとかを使ってプチトマトだとかを栽培し、身近にいる「食うに困っている人」にお裾分けすることも「個人レベルで無理なく行なう世直し」と云えるでしょう。ボランティアなんて聞くと、「余暇をすべて捧げる」「困っている人たちがいるのに自分はヌクヌク過ごすなんて罪悪!」みたいな「滅私奉公」系に流れがちなんだけど(だから敬遠されたり、バッシングされたりする)、そんなのもナンセンス! 少なくとも俺は「変だろ、それ」と思います。まず考えるのは「自分の幸せ」でいいんです。人として、それが当たり前というもの。

「政治とは何か?」ということでひとつ思い出したけど、昔、欽ちゃんのところに某政党から出馬要請が来たとき、「政治って何ヨ?」と訊いたら、「世の中の人々を笑顔にすることです」と云われたので、「あ、それならもう俺、政治やってるヨ」とオファーを蹴った……という話を聞いたことがある。これなんかは数少ない「芸能界イイ話」のひとつですね。俺はコメディアンではなくモノカキですが、やっぱり欽ちゃんのようなアプローチを通じて、世の中を住みやすくしたいと思っているわけです。高邁な理想だとか高尚な学説なんかで人は本当には動かないし、恐怖感や不安感をあおる(たとえば「●●はお前たちの生存権を奪おうとしているぞ!」みたいな言説を突きつけること)ような工作をしたところで、それもまた長続きはしない。いずれ破たんするのが目に見えているんです。なんだかんだ云ったところで、人は結局「楽しいこと」でしか動かない享楽本能の生きもの。それを踏まえて云いますが、宗教であれ、社会運動であれ、政治活動であれ、一介の庶民である我々がするべきなのは「一般社会とは別の世界での難行・苦行」なんかではないはずなのです。「当たり前の生活」をしながら無理なく行なう「楽しさをつなぎにした連帯」なのだと俺は思います。「ノバラ・セイサクショ」というのは、それを実証するための場として今年3月に設けられたものでありますが、じつは来年元旦より次の段階に突入します。マイナーチェンジも含めて色々新しいことにチャレンジしますが、その詳細はもうちょっとしたら公表します。つーことで、乞うご期待ナリ!