続『愛別離苦』
出会い、付き合い、別れも概念であり、全ては唯一無二である。
別れと思っても、本当の別れがあるのか?
『別れ』と思っても、頭の中での認識で、本当は、出会いも別れも無いのかもしれない。
だから、話ができなくても、目に見えなくても、感じられなくても、
ずっと一緒だ。
愛別離苦
四苦八苦に並べられる苦しみの一つに、
愛しい人との別れが避けられない苦しみ。
『愛別離苦』がある。
本当に苦しい。
どうにも出来ない。
どうにも出来ない事が非力に感じて、余計に苦しい。
『自分に⚪︎⚪︎できたら』
『もっと早く⚪︎⚪︎できていたら』
『どうして、この人が・・・じゃなければ、いけないんだ!』
『こんな大事な時に、何も出来ないなんて』
離れなければならない苦しみが、暴れ出す。
でも、そうなるまでに、出会いがあって、
本当に、
楽しくて、
嬉しくて、
暖かくて、
愛おしく感じて、
そんな大事な人と一緒に居る事で、『幸せ』があった。
だから、この『苦しみ』がある。
単なる『苦しみ』じゃない。
本当に『幸せ』だったんだ。
この『苦しみ』の分だけ、
『幸せ』に感謝する。
ありがとう。
本当に、幸せな時をありがとう。
一緒に居られるだけで、幸せだった。
他に言葉が浮かばなくても
『本当に会えてよかった。』
『一緒に居ると、楽しくて、幸せだった。』
『ありがとう。』
愛しい人との別れが避けられない苦しみ。
『愛別離苦』がある。
本当に苦しい。
どうにも出来ない。
どうにも出来ない事が非力に感じて、余計に苦しい。
『自分に⚪︎⚪︎できたら』
『もっと早く⚪︎⚪︎できていたら』
『どうして、この人が・・・じゃなければ、いけないんだ!』
『こんな大事な時に、何も出来ないなんて』
離れなければならない苦しみが、暴れ出す。
でも、そうなるまでに、出会いがあって、
本当に、
楽しくて、
嬉しくて、
暖かくて、
愛おしく感じて、
そんな大事な人と一緒に居る事で、『幸せ』があった。
だから、この『苦しみ』がある。
単なる『苦しみ』じゃない。
本当に『幸せ』だったんだ。
この『苦しみ』の分だけ、
『幸せ』に感謝する。
ありがとう。
本当に、幸せな時をありがとう。
一緒に居られるだけで、幸せだった。
他に言葉が浮かばなくても
『本当に会えてよかった。』
『一緒に居ると、楽しくて、幸せだった。』
『ありがとう。』
真実も解らないのなら?
更に前回からの記事の続きになるのですが。
簡単に言ってしまうけど、
信じられる事の結晶が、常識(無意識の通常性)であると思う。
真実を知りたいと思う事はある!
でも、真実や信じられる事が無ければ、生きていけないのか?
常識が無ければ、本当に生きていけない訳では無い。
良いことをしたいと思っても、どうあがいても、良くも悪くもある。
確かに自分の中で、自分の信じられる事が壊れた時には、創造、維持、破壊の法則に従って、新たに「信じられる事」が生まれる。
ただ、それを繰り返しても、永遠に迷い続ける事が解ってくる。
自分の場合は、鬱病になってから「何故?」と答えを探し続けてきた。
でも、終わらない答え探しのループに気づいて、最後に今までの知識、知恵を壊してみた。
その後には、「また、そうなるのが怖かった。」「そこに何かを失いたくない執着があった。」という答えが出てきた。
もう考える必要性が消え去って、失いたくない対象を失ったとしても(破壊)→また別な対象に会える(創造)と思って、手放せるようになった。
最後に気付いたのは、「失いたくないと思っている執着は、人として生まれてから、得たたものばかりだった」
だから、失っても、また会える。
もう、考える必要性が無い。
手放せる。
まあ、途中、途中で色々と、学んだから言えるのもあるけど、また鬱病になる必要性があるのなら、それも仕方ない。
とても、落ち着けて、不安も無く、自由だ♪
瞑想も趣味程度に続けるけど、気楽になった。
簡単に言ってしまうけど、
信じられる事の結晶が、常識(無意識の通常性)であると思う。
真実を知りたいと思う事はある!
でも、真実や信じられる事が無ければ、生きていけないのか?
常識が無ければ、本当に生きていけない訳では無い。
良いことをしたいと思っても、どうあがいても、良くも悪くもある。
確かに自分の中で、自分の信じられる事が壊れた時には、創造、維持、破壊の法則に従って、新たに「信じられる事」が生まれる。
ただ、それを繰り返しても、永遠に迷い続ける事が解ってくる。
自分の場合は、鬱病になってから「何故?」と答えを探し続けてきた。
でも、終わらない答え探しのループに気づいて、最後に今までの知識、知恵を壊してみた。
その後には、「また、そうなるのが怖かった。」「そこに何かを失いたくない執着があった。」という答えが出てきた。
もう考える必要性が消え去って、失いたくない対象を失ったとしても(破壊)→また別な対象に会える(創造)と思って、手放せるようになった。
最後に気付いたのは、「失いたくないと思っている執着は、人として生まれてから、得たたものばかりだった」
だから、失っても、また会える。
もう、考える必要性が無い。
手放せる。
まあ、途中、途中で色々と、学んだから言えるのもあるけど、また鬱病になる必要性があるのなら、それも仕方ない。
とても、落ち着けて、不安も無く、自由だ♪
瞑想も趣味程度に続けるけど、気楽になった。