アン・ブーリン | よくわかりたい歴史
 ヘンリー八世の2番目の王妃、アン・ブーリンです。
 アンはヘンリー八世の妹メアリーの侍女でした。父の家柄は低かったのですが、母の家柄はノーフォーク公であり、その縁で父は宮廷で重用されていました。
 ヘンリー八世の妹でアンの主人であるメアリーは、兄の言いつけでフランス王ルイ12世に嫁ぎます。1514年、この時イングランドは、神聖同盟の一員としてフランスと戦争中ですから、国際政治とは単純なものではありません。
 この時メアリーは18歳、ルイ12世は52歳です。わかりやすい政略結婚ですね。ちなみにアンは7歳前後です。
 ですが、ルイ12世は、結婚後1年もしないうちに他界してしまい、アンの主人であるメアリーはさっさとイングランドに帰国して、サーフォーク公と再婚してしまいます。政略結婚の犠牲にはもうならないぞ、という事でしょうか。
 この時アンは、フランスに残されます。ルイ12世の王女に気に入られ、そちらの手元におかれる事になったからです。
 アンがイングランドに戻るのは1522年、15歳の頃です。

 この当時、イングランドはまだまだ田舎でした。人口が少ないとか国力が低いという事ではなく、ようは「かっぺ」だったわけです。文化的には、吉幾三が歌いそうな土地です。対するフランスは文化の中心地で、いわゆる大都会です。クリスタルキングが歌っちゃいます。

 新しい女に心を奪われる対象として、これほどの適任者もいないでしょう。
 若く文化的に洗練されている少女。そして、フランスとの馴染みも深い。

 フランスとの同盟のために、敵国となったスペイン=神聖ローマ帝国・ハプスブルク家の縁者であるキャサリンを排除しなくてはいけなかったヘンリー八世にとって、フランスの事情に通じたアンは、よき話し相手でもありました。
 しかし、アンが公の場所に登場するのは1532年の、フランス王フランソワ一世との会見が最初です。それまでは、あくまでもアンは愛人のひとりに過ぎませんでした。

 1527年、ヘンリー八世はキャサリンとの婚姻の無効をローマ教皇に申し出ます。
 この動機の基本には、フランスとの同盟関係がありました。
 しかし、ヘンリー八世は、その目的以外のためにもこの事態を利用します。優秀な君主は、何かを為す時に、たったひとつの目的だけのためにそれをするのではなく、複数の目的を達成するためにそれをするものです。
 父ヘンリー七世が王位簒奪者だった事もあり、ローマ教会はヘンリー七世の王位継承に強く反対しました。それ以後も、ローマ教会のイングランドへの敵対的干渉はしばしばおこなわれ、ヘンリー七世はローマの影響力を弱めたいと常に考えていました。その政治課題は、息子のヘンリー八世も当然のように引き継いでいます。
 ヘンリー八世は、イングランドをローマから宗教的に独立させる方向に動きます。各種の宗教税(教会の懐に入るお金)を廃止し、新たに設けた税は、イングランド内の教会にとどまるか、国王の懐に入るようにしていきます。
 ドイツの田舎諸侯ならいざ知らず、この時点で王を名乗るものが、カトリックから離脱しようとしたのですから、大したものと言う他ありません。
 ただ、ドイツの諸侯たちが、皇帝の権威に対抗する手段としてプロテスタントを取り上げ、軍事力の差で踏み潰されてきた前例を見るにつけ、「では、軍事力があれば?」と考えるのは自然と言えます。
 それは、もちろん後世の、結果を知っていればこそ言える事ではあるのですが。
 そして、1533年には結婚の無効を宣言、翌年には国王至上法を成立させ、イングランドの信仰をローマから切り離すという、宗教改革においても、欧州史においても、非常に大きな意義を持つ制度を確立します。

 トマス・モアなど、当時の大法官はこの結婚無効に強く反対しました。
 多くの解説では、彼ら大法官を「善意の人」と捉え、ヘンリー八世を「我侭を押し通した暴君」として説明します。
 本当でしょうか?
 確かに、この結婚無効は今までの常識には適わない横紙破りです。しかし、これがあったればこそ、イングランドは中世的薄暗がりの中から抜け出し、中央集権型の絶対王政に移行し、やがて迎える資本主義による繁栄の時代の基礎ができたのです。
 また、目先の事だけからいっても、神聖ローマ帝国の属国になるか、フランスと同盟して独立国として苦しい道を歩くかの選択でもありました。
 ですから、悪く言っても「どちらの国と結んでいくかの選択の問題」であり、よく言えば「ヘンリー八世は改革者であった」と言えます。

 ちょうど、織田信長の比叡山焼き討ちや根切りなどが、その残虐性ばかり取りざたされて低く評価されているが、事実として、あれらの政策があったればこそ、宗教勢力が独占していた座(特許)や市(市場)や関所(関税)が排除され、楽市楽座(自由経済)が実現して流通が活発化し、庶民にすれば宗教勢力に支払う金がなくなった分だけ楽になったのです。例えば、当時の日本酒は、売値の98%が宗教勢力へのライセンス料や関税に消えていった事を考えると、信長の政策は日本にとって必要不可欠だったと言わねばなりません。
 また、日本から宗教戦争が一掃されたのも、信長が彼らを叩き、秀吉が刀狩で武器を取り上げ、家康が制度的にも公務員化して骨抜きにしてしまったからです。

 ヘンリー八世の一連の行動は、そのような視点からは評価すべきです。

 キャサリンとの結婚無効にしても、それだけが目的なら自然死にみせかけて暗殺してしまえばいいだけの話です。それをやらず6年も教皇の裁定を待ち、その上で、カンタベリー大司教に無効を宣言させ、それを契機にカトリックから離脱しますが、その目的が離婚だけだとするなら、おおよそ狂人のやる事です。
 長きに渡って君臨した君主が無能である事は、まずありえません。
 また、悪し様に言われる君主は、無能であったり、暴君であったりする場合だけではありません。
 私の好きなローマ皇帝にティベリウスとドミティアヌスがいます。どちらも、有能な皇帝ですが、様々に悪い噂が残っています。前者は少年愛に耽溺していた程度ですが、後者にいたっては記録抹消まで受けています。
 どちらにも共通するのは、自分の考えをあまり説明しないタイプだった事、そして、明らかに周囲より優秀であり、それを自覚していた事です。ゆえに、敵を作ります。信念に基づいて政策を行えば、それによって損をする人間の恨みを買います。
 ここで口がうまく宣伝が上手な人物であれば、周囲を味方につけて反対派を抑え込みます。ちょうど、元首相の小泉氏がやったように、です。
 ですが、ティベリウスもドミティアヌスも、「自分が正しいのだから、黙って従え」というタイプでした。結果、ティベリウスはその死後、元老院を圧迫した皇帝として評価の低い記録を残され、ドミティアヌスにいたっては暗殺され、皇帝としての記録を抹消されます。
 徳川綱吉なども、そのいい例です。
 綱吉の政策を見てみると、名君と言われている吉宗の政策とそう変わらない事がわかります。むしろ、吉宗は、経済政策以外は綱吉の政策をそのままパクっています。そして、吉宗の経済政策は、失敗に終わっています。
 では、綱吉がなぜ悪く言われるかというと、自分の政策を実現するために、老中たちを無視して事を進めたからです。本当に暴君なのであれば、老中たちが力をあわせて隠居させる事は制度的にも可能でした。にも関わらず、綱吉を押し込める事ができなかったのです。
 綱吉は老中たちによる自身の権限への干渉を排除するために、側用人制度なども設立していますが、これなども卓越した政治センスがないと思いつかない制度です。以後、親政を志す徳川将軍は側用人を使って老中たちの発言力を制限するようになります。これを最初に思いついて実行したのが綱吉なのです。

 ヘンリー八世もまた、諸侯たちの反対をものともせずに自身の政策を推し進めた君主ですが、天寿をまっとうするまでそれを貫いた王が、無能であるはずがないのです。
 もし、天寿を全うした無能な王がいたとしたら、それは有能な誰かの傀儡だったからに他ならないはずです。

 1533年、結婚後5ヶ月で娘エリザベスを産んだアン・ブーリンは、その3年後、1536年1月にも出産しますが、こちらは流産でした。
 この1536年1月は、キャサリンが隠棲先で亡くなった年でもあります。

 ヘンリー八世の行動は早いものでした。キャサリンの時にあったような躊躇が微塵も感じられません。男子の流産も理由のひとつでしょうが、キャサリンが死んだ以上、もはや男女の愛は全て捨て去ったかのようです。
「こんなに辛く悲しいならば、愛などいらぬ」
 と言ったかは定かではありませんが、流産の4ヵ月後、アンは告発されます。罪状は「4人の男との密通」「兄との近親相姦」、明らかに濡れ衣です。
 にも関わらず、イングランド諸侯は誰一人、これに反対しませんでした。
 アンに死罪を言い渡したのは、アンの伯父にあたるノーフォーク公トーマス・ハワードです。身内ですらアンを庇わなかったのです。

 その後、すみやかにカンタベリー大司教クランマーは、アンとヘンリー八世の結婚の無効を承認します。キャサリンとの結婚無効を承認したのも、このカンタベリー大司教クランマーでした。
 結婚が無効ならば、密通は罪でなくなるはずなのですが、これには誰も言及しません。つまり、誰もアンを助けようとは思っていなかったという事です。

 キャサリンが死去したその5ヵ月後、アンは斬首により処刑されます。まだ30歳にもならぬ命を、タワーグリーンに散らせる事になります。