〓みなみなさま、
「御慶」
にござります。え? ええ、ええ。いや、そうゆっくりもしていられませんで、
「永日でえ!」
ということで……
〓昨年、12月20日にユーロスペースで、
『バグダッド・カフェ』 <ニュー・ディレクターズ・カット版> (1987 / 2009)
d“Bagdad Café” [ 'bægˌdæd kæ'feɪ ] [ ' バグダド キャ ' フェイ ]
を見てきましたわいな。
〓こりゃあ、と思い、押ッ取り刀で書き始めたものの、いっこうに書き上がりませいで…… ナンとか松の取れるまでには間に合いました。
〓『バグダッド・カフェ』。この映画を見たことがあるヒトには当たり前のことですが、この映画はイラクとはいっさい関係がありません。米国のモハヴェ砂漠にポツンと建っている、さびれた café のハナシです。
〓 café というのは、英語だと、「軽食や飲料を提供する、安価に食事ができる小さな食堂」 a small and inexpensive restaurant serving light meals and refreshments を意味するようですね。
【 「バグダッド」 の原義 】
〓とりあえず、イラクの首都 バグダッドという名前をおさらいしておきましょ。
بغداد Baghdād [ bɑɣ'dɑ:d ] [ バぐ ' ダード ]
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――──
[ ɣ ] という子音は、あとでも重要になってくるので、覚えておきやしょう。
これは通常の閉鎖音 [ ɡ ] の閉鎖を少し開いて、そのスキマで摩擦音をつくる子音です。
スペイン語の母音間の g がこれになります。実は、現代日本人の若い世代も、
やはり母音間の g を、この摩擦音 [ ɣ ] で発音しています。アナウンサーなどに課せられた規範音は、かつての江戸弁の、
いわゆる、鼻濁音 [ ŋ ] です。シッカリしたアナウンサーさんは、この 「鼻濁音」 [ ŋ ] を
キチンと発音しているのが聞き取れます。アヤパンの顔ばかりに見とれてないで、たまには耳をそばだててみまひょ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――──
〓バグダードは、762年、アラブ人によるイスラーム王朝である “アッバース朝” の首都として建設されました。この地域は7世紀なかばまで、ペルシャ人 (イラン人) によるゾロアスター教国家 “サーサーン朝ペルシャ” の支配下でした。
〓内憂外患で疲弊したサーサーン朝は、7世紀に入ってアラビア半島から拡大を始めたアラブ・イスラーム勢力に対抗するだけの力を、もはや残してはいませんでした。結果として、アラブ勢力はアラビア半島から出て、やがて、
パミール高原 (トルクメン、ウズベク、キルギス、タジク)、アフガニスタン、
パキスタン、イラン、コーカサス、エジプト、マグレブ (リビア、アルジェリア、チュニジア、モロッコ)、
イベリア半島 (スペイン、ポルトガル)
にわたる広大な地域を支配することとなりました。
〓ウマイヤ朝。このとき、現在、見るような広大なアラビア語=イスラーム圏が誕生しました。
〓アラブ人が特権を有する、このウマイヤ朝 “アラブ帝国” を改革して、ペルシャ人 (イラン人) などの非アラブ系ムスリムも平等にあつかわれる “イスラーム帝国” を出現させたのが、これに続く “アッバース朝” でした。750年成立。
〓それまでのウマイヤ朝は、現在のシリアの首都 ダマスカスを都としていました。しかし、これに替わるアッバース朝は、成立から12年、チグリス川の河畔にあり、交通・流通の要衝たりうるバグダードに都を移したのでした。
〓とは言え、バグダードという地名は、アッバース朝による遷都以前にも記録があり、その名は、この地のかつての住人、ペルシャ人によるペルシャ語の名前と考えられています。
〓サーサーン朝ペルシャは 「中期ペルシャ語」 の時代ですが、以下に、便宜的に現代ペルシャ語による説明をしてみましょ。
باغ bāgh [ 'bɒ:ɣ ] [ ' ボーぐ ] 「庭、ぶどう園、世界」
+
-i 「後続の名詞の所有をあらわす接尾辞」
+
داد dād [ 'dɒ:d ] [ ' ドード ] 「正義、公平」
↓
bāgh-i dād [ ボーぎ ' ドード ] 「正義の庭、公平な世界」
※後ろの名詞が前の名詞を -i によって修飾する句。現代ペルシャ語では -e
〓なかなか魅力的な説ですが、
アッバース朝による社会変革の意義を、
それ以前に存在していた地名の解釈に投影するのは、
時代背景を見誤った過大評価
のように感じます。
〓ペルシャ語には、
دادن dādan [ dɒ: 'dæn ] [ ドー ' ダン ] 「与える」
という動詞があります。ペルシャ語は英語やラテン語などと同じ “印欧語族” なので、次のような動詞と同源です。
dō [ ' ドー ] 「与える」。ラテン語
→ data [ ' デイタ ] 「与えられた事実」。英語
δίδωμι dídōmi [ ' ディドーミ ] 「与える」。古典ギリシャ語
дать dat' [ ' ダーチ ] 「与える」。ロシア語
〓ペルシャ語では、動詞の 「不定法幹」 (過去幹) が、そのまま名詞として使われていることがあります。 dādan 「与える」 はその例にあたります。
داد dād [ 'dɒ:d ] [ ' ドード ]
「贈り物」、「正義、公平」、「異議の救済」、「抑圧下の不平」、「復讐」
〓その名詞形には、「贈り物」 という意味から、さらに、「不公平をこうむった者を救済すること」 という語義まで生じています。。
〓これはひとまず置いておいて、ペルシャ語にはこういう単語もあります。
بغ bagh [ 'bæɣ ] [ ' バぐ ] 「神」。ペルシャ語
〓この単語は、印欧語族のインド・イラン語派、スラヴ語派に共通して見られる語彙です。
भग bhága- [ ' ばガ~ ] 「神の呼び名」 ※原義=「分け与える者」
бог bokh [ 'box ] [ ' ボーふ ] 「神」。ロシア語
※ロシア語彙で、語末の -г を [ x ] で発音するのは例外の中の例外です。
〓これを、スラヴ語がイラン語派から借用した、とする見方もあります。ロシア語の бог が、通常の [ ' ボーク ] ではなく、[ ' ボーふ ] という例外的な読み方をする理由を、イラン語派 (アヴェスター語 baɣa) からの借用に帰するものです。
〓いずれにしても、この bagh 「バグ」 “神” というコトバを引き合いに出すと、
بغ bagh [ 'bæɣ ] [ ' バぐ ] 「神」
+
داد dād [ 'dɒ:d ] [ ' ドード ] 「贈り物」、「与えたもの」
↓
bagh-dād [ バぐ ' ダード ] 「神の贈り物・与えたもの」
となります。このような前から後ろに修飾する合成語の場合、ペルシャ語ではあいだに何も必要ありません。
〓実は、この命名の手順は、先だって、「ミラ・ジョヴォヴィチ」 について書いたときに申し上げたスラヴ人の男子名 「ボグダン」 とまったく同じなんですね。
Богдан Bogdan 「ボグダン」 “神が与えた(子ども)”
〓かたや男子名となり、かたや都市名となる。げにコトバとは不思議なるかな。
「バグダッド」 は “神の贈り物”
〓覚えておくと、チョッといいハナシです。
【d“Calling You” ── ホリー・コールとジェヴェッタ・スティール 】
〓始まって、いきなり、横道ですけん。申し訳ござらん。映画に戻りまっしょ。
〓この 『バグダッド・カフェ』 という映画の位置というのは非常にビミョーですね。つまり、米国のメジャー映画とはちがう。かといって、ヨーロッパの作家主義的な映画ともちがいます。
〓イソップの寓話で、
鳥の群れにあっては 「鳥である」 と名乗り、
獣の群れにあっては 「獣である」 と名乗るコウモリの話
がありますが、そのコウモリに似ています。
〓『バグダッド・カフェ』 と言えば、
d“Calling You”
が切っても切り離せませんね。ちょうど、
ヴィム・ヴェンダースのd“Paris, Texas” が
ライ・クーダーのドブロと切り離せない
ように。
〓おそらく、 “Calling You” が 『バグダッド・カフェ』 のために書かれた曲であり、映画のサントラを吹き込んだジェヴェッタ・スティール Jevetta Steele [ dʒɪ'vetə 'sti:ɫ ] のバージョンがオリジナルだ、ということは、あまり知られていないのではないでしょうか。
〓というのも、
FMで “Calling You” がかかることはよくあるが、
ジェヴェッタ・スティールのバージョンがかかるのを聴いたことがない
からです。
〓たいては、ホリー・コール Holly Cole です。つまり、FMのDJでござい、と、とりすましているオレキレキの中に、
“Calling You” はジェヴェッタ・スティールでなきゃ
というヒトがいなかったんですね……
〓たぶん、日本人は気がついてないと思うんですが、
日本人の “ホリー・コール” に関するイメージにはバイアスがかかっている
んですよ。
〓ちょいとここに1995年までの “ホリー・コール” のディスコグラフィを掲げてみます。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
■ 1989年3月 …… 『バグダッド・カフェ』 日本でロードショー
(1) Christmas Blues (1989) …… 自主制作の4曲入りEPレコード
(2) Girl Talk (1990) …… カナダ (Alert)
(3) Blame It on My Youth (1991/10/4) …… カナダ (Alert)
(4) Blame It on My Youth (1992/1/24) …… 米国 (Manhattan)
(5) Calling You / God Will 「コーリング・ユー」 (1992/6/10) …… 日本 (EMI) ※2曲入り短冊形3インチCDシングル
(6) Girl Talk 「ガール・トーク」 (1992/11/18) …… 日本 (EMI)
(7) Christmas Blues / Down Town (1992/12/2) …… 日本 (EMI) ※2曲入り短冊形3インチCDシングル
(8) Don't Smoke in Bed (1993) …… カナダ (Alert)
(9) Don't Smoke in Bed (1993/9/28) …… 米国 (Manhattan)
(10) I Can See Clearly Now (1993/6/16) …… 日本 (EMI) ※2曲入り短冊形3インチCDシングル
(11) Yesterday & Today (1994/6/22) …… 日本 (EMI) ※日本企画のベスト盤
■ 1994年8月 …… 『バグダッド・カフェ <完全版>』 日本でロードショー
(12) Alison / Calling You (1994) …… 日本 ※3インチCDシングル。詳細不明
(13) I Want You / Falling Down (1995/5/31) …… 日本 (EMI) ※2曲入り短冊形3インチCDシングル。
(14) Temptation (1995) …… カナダ (Alert)
(15) Temptation (1995) …… 米国 (Metro Blue)
(16) Temptation (1995/7/31) …… 英国 (EMI)
(17) Blame It on My Youth 「コーリング・ユー」 (1995/11/29) …… 日本 (EMI)
※一部の特殊な盤、オランダ盤は省いてあります。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
〓どうですか? 日本におけるホリー・コールの売り方がヘンテコで、『バグダッド・カフェ』 とカラめてCDがリリースされているのがわかるでしょ。
〓なんたって、オカシイのが、
日本デビュー版が 「コーリング・ユー」 というタイトルのシングルだったこと
なんです。
〓直前に、カナダ、米国でリリースされたアルバム “Blame It on My Youth” の中から、 “Calling You” と “God Will” の2曲だけをピックアップしてシングルで売り出しているのです。昔の 「短冊形3インチCDシングル」 (8センチCD)。あのジャケットがタテに細長いヤツです。
〓1990年代に入ると、日本国外では、“CDシングル” は 「3インチCDシングル」 から 「マキシシングル」 へと移行していました。日本のレコード会社だけが、1990年代の10年間にわたって 「3インチCDシングル」 を売り続けるんですね。こうしたヘンテコなリリース形態の “背景” の1つにはそういう事情もありました。
〓でも、ホリー・コールのデビューCDがシングルだった主たる理由はそれではありませんでした。
〓1992年、カナダの新鋭ジャズ・シンガーを日本で売り出すにあたって、EMI ミュージック・ジャパンは、すでにそこそこ売れていた 『バグダッド・カフェ』 のサントラ盤に目をつけたらしいんですね。ちょうど新しくリリースされたCDに “Calling You” のカバーが入っている。ひとつ、これで押してみっか、と、そういうことでしょ?
〓実際、この商法が当たりました。「コーリング・ユー」 のシングルはそうとうに売れたようです。かくして、ホリー・コールの名は “Calling You” とともに多くの日本人の記憶に刻まれました。
〓そのあとも、EMI ミュージック・ジャパンは、ホリー・コールを日本で真剣に売る気がなかったかのように見えます。そもそもね、 “Calling You” が入ったフルアルバム “Blame It on My Youth” は3年もホッタラカシで日本版を出さなかったんですよ。
〓ところが、
『バグダッド・カフェ <完全版>』 がロードショーされるやいなや、
“Blame It on My Youth” のアルバムタイトルを 「コーリング・ユー」
と改名して、ちゃっかり日本盤を出した
のです。『バグダッド・カフェ』 のリバイバルがなかったら、あのアルバムの日本盤もでなかったんでしょう……
〓つまり、日本では、いつでも “Calling You” に頼ってホリー・コールを売ってきた、という経緯があるんです。そして、実際、日本ではその方法で売れてきた。
Holly Cole is a Canadian jazz singer, particularly popular in Canada and Japan...
ホリー・コールはカナダのジャズシンガーで、とりわけ、カナダと日本で人気があり……
── 英語版 Wikipedia の冒頭の一文
She was especially popular in Japan, where her 1992 single “Calling You” was a top-10 hit.
彼女は、特に日本で人気があり、1992年のシングル “Calling You” はトップ10に入った。
── www.allaboutjazz.com
のバイオグラフィから
〓そういうことなんですね。カナダ出身だから、カナダで人気があるのはフシギではありません。しかし、「日本でとりわけ人気がある」 のは1つのフシギです。そして、フシギの影にはカラクリがあった。
〓実は、 “Calling You” と言えば “Holly Cole” というのは、日本人だけが示す特殊な反応なんです。カナダも含めて海外では、
d“Calling You” は彼女の歌うカバー曲の1つにすぎない
んですよ。ためしに Google で次のような検索をしてみましょ。
【 日本語による検索 】
"コーリング・ユー" "ホリー・コール" …… 17,500件
"calling you" "ホリー・コール" …… 2,170件
……………………………………………………
"コーリング・ユー" "ジェヴェッタ・スティール" …… 9,710件
"calling you" "ジェヴェッタ・スティール" …… 1,750件
〓日本では、どう逆立ちしても、ジェヴェッタ・スティールのほうが分が悪い。では、他の国ではどうでしょう。
【 米国・英語限定による検索 】 ※この曲じたいが、さほど有名ではない
"calling you" "holly cole" …… 2,290件
"calling you" "jevetta steele" …… 4,730件
【 ドイツ国内限定による検索 】 ※『バグダッド・カフェ』 の故国なのになぁ
"calling you" "holly cole" …… 360件
"calling you" "jevetta steele" …… 1,230件
【 フランス国内限定による検索 】
"calling you" "holly cole" …… 114件
"calling you" "jevetta steele" …… 11,600件
〓どうです? 最後のフランスの例。日本とまったく逆ですね。それ以上だ。
フランス人にしてみれば、ホリー・コールの “Calling You” ってナンだ?
ってことでしょ。
〓かくして、日本では、
『バグダッド・カフェ』 → “Calling You”
“Calling You” → ジェヴェッタ・スティール
という連想の図式における 「ジェヴェッタ・スティール」 の部分が 「ホリー・コール」 に置き換わりました。
えろう、すんまへん。 このたびは、文章が長くなりすぎまして、5回くらいになってしまいそうであります。
「2」 は ↓