「パンデミック」 とは ── What's “Pandemic”? | げたにれの “日日是言語学”

げたにれの “日日是言語学”

やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

〓最近、にわかに耳にするようになったコトバに、


   パンデミック


があります。英語では、


   pandemic [ pæn'demɪk ] [ パン ' デミック ]

     <形容詞>
      (1)一般的、広く行き渡った。
      (2)[ 医学 ] 広い地域で蔓延し、住民の大部分に被害をもたらすような。


     <名詞>
       pandemic (2) であるような病気。 (= a pandemic disease)



という意味です。最近では、英語圏でも、


   a pandemic flu [ ~ 'flu: ] [ ~ フ ' るー ] 「パンデミック・インフルエンザ」


の用例が多い。Google で 601,000件のヒット数。






  【 “インフルエンザ” というコトバ 】


flu は、


   influenza [ ˌɪnflu:ˈenzə ] [ ˌ インフるー ˈ エンザ ] 「インフルエンザ」


の口語的な短縮形です。


〓この語は、18世紀、イタリア語からの借用語です。


   influenza [ influˈɛntsa ] [ インフる ' エンツァ ] 「影響、インフルエンザ」。イタリア語


〓つまり、英語の influence と同源、「二重語」 なのです。この単語は、古典ラテン語には、まだ、存在しません。


   influō [ ' イヌフるオー ] 「流れ込む、しみ込む、ゆっくりと侵す」。ラテン語


という動詞があります。これの現在分詞 (英語の -ing 形) が、


   influens [ ' イヌフるエンス ] 「流れ込むところの」


です。
〓毎度、説明するように、この現在分詞の本来の語根・語幹は、


   influent- 語根
   influenti- 語幹


です。つまり、男性主格では *influents [ ˈ インフるエンツ ] となるハズなんですが、ローマ人は、語末の -ts という子音群を発音できませんでした。なので、 -t- を落として、influens となります。


〓ラテン語には、「状態をあらわす名詞をつくる接尾辞」 に -ia がありました。形容詞をつくる接尾辞 -ius, -ia, -ium の女性形です。よって、


   influentia [ イヌフる ' エンツィア ] 「星の影響」。中世ラテン語


という名詞ができます。


〓これは、本来、「占星術」 (かつては、学問の1つであった) の用語です。「占星術」 では、天体から放射された力が、空間を満たす “エーテル” という媒体を伝わって、地上に “流れ込み”、人間にさまざまな “影響” を及ぼす、という考え方をしました。なので、


   influentia 「流れ込むこと」 → 「影響」


なのです。
〓このラテン語彙は、



   influentia [ イヌフる ˈ エンツィア ] 中世ラテン語
    ↓
    ↓→→ influenza [ イヌフる ' エンツァ ] イタリア語
    ↓
   influence [ イんフる ˈ エんツェ → ~ス ] 古フランス語。1240年初出
    ↓
    ↓→→ influence [ 'ɪnflu:əns ] 中期英語。1385年ごろ初出
    ↓
   influence [ アんフりゅ ' アーんス ] 現代フランス語



というぐあいに変化しました。
〓1734年にローマでインフルエンザが流行し、これを英国の雑誌が、現地では、 「Influenza と呼ばれている」 ということを伝えたために、英語に influenza の語が借用されました。フランス語などに借用されるのは、同じ世紀の、さらに後のことです。





   げたにれの “日日是言語学”-ロンドンのペスト2



  【 “パンデミック” というコトバ 】



〓英語の pandemic という語は、1666年に最初の用例があります。


〓14世紀のヨーロッパは、6世紀に地中海世界を襲って以来のペストの大流行を見ました。以前、 Lehman や Eisenstein という姓について書いたときに触れたように、このペストは、アシュケナージ系ユダヤ人の大規模な東遷のキッカケともなりました。


〓ヨーロッパでは、その後、17~18世紀まで、各所でモグラたたきのようにペストが顔をもたげます。そして、


   1665年、ロンドンでペストの大流行が起こり、7万人が死亡した


のでした。


〓ダニエル・デフォー Daniel Defoe (『ロビンソン・クルーソー』 の著者) の 『疫病の年』 “A Journal of the Plague Year” は、当時4、5歳だったデフォーの記憶の中に残る、このロンドンのペストの蔓延を描いたものです。


   1665年 ロンドンでペストが流行
   1666年 pandemic というコトバが初めて使われる



   げたにれの “日日是言語学”-ロンドンのペスト
    19世紀、英国の画家 Francis William Topham が描いた “Rescued from the Plague, London 1665”



〓コトバの初出年が、歴史の深い爪痕である場合は多いのです。年号を単なる数字としてスルーすれば、そこに秘められた深い意味も見落としてしまいます。


   pan-


は、ギリシャ語の接頭辞です。「パンナム」 Pan Am (Pan American Airways) ── 「パンアメリカン航空」 の Pan です。あるいは、Pangaea, Pangæa, Pangea 「パンゲア大陸」 の Pan です。
panorama 「パノラマ」、pantomime 「パントマイム」、pantograph 「パンタグラフ」、Pantheon 「パンテオン」 も同様です。


〓実は、ヴェネツィアの守護聖人 Pantaleone 「パンタレオーネ」 にも含まれます。



   Pantaleone [ パンタれ ' オーネ ]
     ↓
   pantalone [ パンタ ' ローネ ] イタリア語



〓「パンタローネ」 というのは、16世紀にイタリア北部で始まった “コンメディア・デッラルテ” commedia dell'arte と呼ばれる、仮面を使った即興風刺喜劇の定番キャラです。
〓醜悪な老商人で、金持ち、強欲、エロじじいという設定。エロじじいなので、下半身は肌にぴったりしたタイツのごとき細身のズボンを穿 (は) いています。このエロじじいが、ヴェネツィアの守護聖人と名前が同じなのです。ただし、e が1つ落ちています。


   げたにれの “日日是言語学”-パンタローネ
    1550年の “パンタローネ”




〓現代イタリア語では、pantaloni [ パンタ ' ろーニ ] というぐあいに、語末を男性複数形の語尾に変え、「ズボン」 の意味の普通名詞として使用しています。


〓この風刺喜劇は、他のヨーロッパ諸国でも流行し、フランスでは、


     ↓
   pantalon [ パんタ ' ロん ] フランス語。1550年初出


となりました。pantalon [ ポんタ ' ろん ] は、現代フランス語でも 「ズボン」 の意味です。1550年の初出。ですから、この語の伝播はきわめて速かったことがわかります。


〓さらに、このブームは英国にも飛び火したようです。


     ↓
   pantaloon [ ˌ パンタ ' ルーヌ ] 英語。1590年ごろ初出


〓フランス語の語末の [ -ɔ̃ ] [ ~オん ] という鼻母音は、英語では -oon となります。 salon → saloon、ballon → balloon。おそらく、鼻母音の鼻にかかった感じをあらわそうとして -oon になったのでしょう。
〓英語では、19世紀の初頭に、複数形 pantaloons で 「ズボン」 の意味に使われるようになりました。しかし、この単語は長すぎたと見え、


     ↓
   pants [ ' パンツ ] “ズボンの義”。1840年初出


というぐあいに短縮されています。その後、 -ie という指小辞 (ししょうじ) を加え、


     ↓
   panties [ ' パンティズ ]

     (男性用)半ズボン。1846年初出
        ↓
     (女性・子供用)下着のパンツ。1908年初出



という 「指小形」 を派生しています。


〓これらの単語の語頭に、ことごとく付いているのは pandemic と同じものです。それが、たとえ、


   pantie girdle 「パンティーガードル」
   pantyhose 「パンティーホーズ」 (パンスト)


であろうと同じです。


〓その正体は、


   πᾶς pās [ ' パース ] 「すべての」 (= all)


という、古典ギリシャ語の形容詞です。男性単数主格形は pās という語形ですが、本来の語幹は、


   παντ- pant-


です。しかし、古代ギリシャ人は、これに主格語尾 -s を付けた、


   *παντς pants 「パンツ」


を、よう発音せんかったのです。


〓同じようなハナシを先ほどもしましたなあ。ラテン語の現在分詞 -ens が、本来は、 -ents である、というのと同類の現象です。

〓ただし、ギリシャ人は、語末の -nts が発音できなかったのはもちろんとして、 -ts はおろか -ns さえも発音できませんでした。なので、 -nt- がまとめて落ちるのです。だから、 pas となるわけですが、 -nt- を落とした代償として、a が長くなります。よって、 pās 「パース」 なのです。


〓つまり、古代ギリシャ人は、


   「パンツ」 と言えなくて、「パース」 と言っていた


のです。


〓語幹は、今、言ったとおり pant- です。しかし、古代ギリシャ人は、ヤッケエなヤツらで、「パント」 も発音できなかったのです。つまり、語末の -nt がダメだった。なので、語幹のみだと、 pan- としてしまうのです。


〓そのため、この語を接頭辞として使う場合、2つの語形がありました。


   παν- pan- 「パン」
   παντο- panto- 「パント」


〓前者は、pant- と言えなくて pan- となったものです。そして、後者は、合成語をつくる際の “接合母音 -o-” を付けて、うまいこと -nt- を発音したものです。
〓語形はちがえども、 pan- と panto- は同義です。古典ギリシャ語では、 pan- という接頭辞を使った語が圧倒的に多いですが、 panto- を使った語がまったくないというワケでもないのです。両者の使い分けにルールは見当たりません。




〓古代ギリシャの哲学者 ヘーラクレイトス Ἡράκλειτος のコトバとして、



   Πάντα ῥεῖ. pánta réi. [ ' パンタ ' レイ ] 「万物は流転する」


     ※古典ギリシャ語の語頭の ρ r は、激しい気息をともなうことをわざわざ という符号を添えて示す。
      現代語ならば、語頭の [ r ]、語中の [ r ]、語尾の [ r ] などは、異音の範疇とみなして
      いちいち区別しない。ほとんどの言語がそうである。
      しかし、古典ギリシャ語の という文字は、西欧では伝統的に rh で転写されてきた。
      この句についても、 “Panta rhei” という転写を見るはずである。



という句を聞いたことがあるヒトもいるでしょう。この句は、「主語+動詞」 で、 πάντα panta というのは、πᾶς pās (← pants) の “中性複数主格形” です。中性・複数にすることで 「すべてのもの」 を指し、それを名詞化して使っているのです。


ῥεῖ rei [ ' レイ ] というのは、 ῥέω reō [ ' レオー ] 「流れる」 という動詞の


   直説法 現在 三人称 単数


です。「?」 と思ったヒトは観察力があります。印欧語はナニかと 「性と数が一致する」 のですよね。主語は 「すべてのもの」 という中性複数でした。


〓ところが、古典ギリシャ語では、


   主語が “中性複数” のときは、動詞は単数


を取るのです。これは、もともと、印欧語において中性名詞が -a に終わる女性の集合名詞から転じたもので、かような集合体に個々をみとめなかったからだそうです。





〓ところで、古典ギリシャ語で、「人々」 people を


   δῆμος dēmos [ ˈ デーモス ] 「人々」 (= people)


と言いました。民主主義 democracy の dem- がこれに当たります。ただし、「デモ行進」 などという “デモ” は、


   dēmonstrō [ デー ˈ モンストロー ] 「明示する、実証する」。ラテン語


という動詞に由来するものです。 mōnstrō は 「示す」 (to show) という動詞で、それに、“強意” の dē- という接頭辞が付いています。
〓フランス語の montrer [ モんト ˈ レ ] 「見せる」 という動詞は、monstrō  -s- が落ちたものです。montre [ ˈ モーんトル ] 「腕時計」 もこの動詞から派生したものです。



〓古典ギリシャ語には、すでに、


   πανδημία pandēmiā [ パンデー ' ミアー ] 「すべての人々」


という集合名詞がありました。 -ιᾱ -iā という接尾辞によって女性名詞化・集合名詞化されています。


〓この単語の形容詞形には、


   πανδήμιος pandēmios [ パンデ ' エミオス ] 「すべての人々の」


という語形がありました。 -ιος -ios という接尾辞で派生した派生したごく普通の形容詞です。


〓ギリシャ語には、 -ικος -ikos で形容詞を派生する方法もありました。これで造語すれば、


   *πανδήμικος pandēmikos [ パンデ ' エミコス ]


となりますが、古典ギリシャ語には用例がないようです。



〓いっぽう、古典ラテン語には、


   pandēmia [ パン ' デーミア ] 「大流行」


というコトバがありました。ギリシャ語からの借用語です。本来なら、「すべての人々」 という意味であるはずですが、借用した語彙に独自の語義が発生したものでしょう。この語の形容詞形が、


   pandēmicus [ パン ' デーミクス ] 「大流行の」


となります。ラテン語における派生ということになりましょうか。


〓このラテン語を英語に借用すれば、ラテン語の曲用語尾 (変化語尾) -us を取り去ることになるので、


   pandemic [ pænˈdemɪk ] [ パン ' デミック ] 英語


となります。ラテン語のアクセントが守られている点が興味深いですね。





  【 ついでに “エピデミック” 】



〓みんな、よく耳にするが、今ひとつ意味のわからない外来語に、


   epidemic 「エピデミック」


があるでしょう。


   「病気の流行・蔓延、思想の流行、伝染病・疫病、異常発生」


という、あまり、おつきあいしたくない単語です。


〓こちらの epi- は形容詞ではありません。「~の場所に」 という場所を示す前置詞です。それを接頭辞に用いたものです。


   ἐπιδημία epidēmiā [ エピデー ˈ ミアー ] 「在宅、逗留」 (ある場所に居ること)


という名詞が古典ギリシャ語にあります。「病気の流行」 とどう関係するのか、奇妙ですね。その形容詞形が、


   ἐπιδήμιος epidēmios [ エピデ ' エミオス ] 「人々のあいだの」


です。たとえば、civil war 「内戦」 のd“civil” の意味や 「地元の商人」 の “地元” の意味で使う例が辞書に見えます。


〓ただし、pandemic の場合と同様、古典ギリシャ語に、 ἐπιδήμικος epidemikos [ エピデ ' エミコス ] という語は見えません。


〓後期ラテン語 (キリスト教時代のラテン語) には、


   epidēmia [ エピ ' デーミア ] 「伝染病」


という単語が見えます。たぶん、ギリシャ語の 「人々のあいだの」 という形容詞の語義から派生した語義でしょう。この語の形容詞形をつくるなら、epidemicus となります。英語ならば、


   epidemic [ ˌepɪˈdemɪk ] 「伝染性の」


となります。