“ダブル圓楽” の時代? ―― あるいは 「隠居名」 について。 | げたにれの “日日是言語学”

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やたらにコトバにコーデーする、げたのにれのや、ごまめのつぶやきです。

三遊亭楽太郎 (さんゆうてい らくたろう) 師が、“六代目 三遊亭圓楽” (えんらく) を継ぐと聞いて疑問に感じたのは、今の圓楽 (えんらく) 師匠が、ナンと名乗るのか?ということでした。


〓大看板が、生前に弟子に名跡 (みょうせき) を譲る、という例はあまり聞きません。ふつうは、亡くなるまで大名跡を名乗り、没後しばらくして、周囲が 「もう、そろそろいいですかな」 という雰囲気になったころ、次の代に名跡が受け継がれるのです。


〓最近では、「柳家小さん」 (←三語樓)、「林家正蔵」 (しょうぞう)(←こぶ平)、「春風亭柳朝」 (りゅうちょう)(←朝之助) なんてのが、そのデンですし、これから生まれる 「林家三平」 (←いっ平) とか、大阪の 「桂米團治」 (よねだんじ)(←小米朝) なんてのも、それに当たります。




   大名席を継いだ噺家
   六代目 柳家小さん (三語樓) / 九代目 林家正蔵 (こぶ平) / 六代目 春風亭柳朝 (朝之助)

   林家いっ平 (→ 三平) / 桂小米朝 (→ 米團治)



林家三平 という名前は、いっ平で二代目であり、もともと、大名跡ではありませんが、初代三平のあまりの人気に一代にして大看板となりました。


〓なかには、「志ん生」 という名跡のように、跡継ぎと目された志ん朝 (しんちょう) 師匠が早世してしまったために、うまいこと繋 (つな) がっていかなかった名前もあります。次の六代目志ん生が生まれるまでには、また、ひと時代が必要でしょう。


〓また、「圓生」 (えんしょう) のように、遺族の意思によって 「止め名」 (とめな) になっているものもあります。遺族が 「誰にも継がせない」 と言うと、名跡の継承が止まってしまうんです。

〓名跡を継ぐ、というのは、日本の旧弊な社会習慣に準ずるところが多分にあり、なかなか、ひとすじナワではいきません。






  【 噺家の名前は どう変わる? 】


〓噺家というのは、出世魚よろしく、身分が変わるとともに、名前も変えていくものです。基本的なパターンは、


   前座名 → 二ツ目の名前 → 真打名 (→ 大看板の名前)


です。3回改名して名前を4つ名乗るか、2回改名して名前を3つ名乗るか、このどちらかです。



   【 3回改名の例 】
     ■ 六代目 (当代) 柳家小さん 師匠の場合
     柳家小太郎 (こたろう) ── 前座時代
     柳家小ゑん (こえん)  ── 二ツ目時代
     柳家三語樓 (さんごろう)── 真打時代
     六代目 柳家小さん    ── 大看板襲名


     六代目柳家小さんsmall



   【 2回改名の例 】
     ■ 立川談志 (たてかわ だんし) 師匠の場合
     柳家小よし (こよし) ── 前座時代
     柳家小ゑん (こえん) ── 二ツ目時代
     七代目 立川談志    ── 真打時代


     立川談志small



     ■ 柳家小三治 (こさんじ) 師匠の場合
     柳家小たけ (こたけ) ── 前座時代
     柳家さん治 (さんじ) ── 二ツ目時代
     柳家小三治      ── 真打時代
       ※小三治というのは、大看板の名跡ではありません。
        そのため、六代目 小さんを継ぐのではないか、
        と言われていたんですね。


     柳家小三治small



   【 変則的な2回改名の例 】
     ■ 三遊亭圓歌 (えんか) 師匠の場合
     三遊亭歌治 (うたじ) ── 前座時代
     二代目 三遊亭歌奴 (うたやっこ) ── 二ツ目時代
         〃            ── 改名せず真打昇進
     三代目 三遊亭圓歌   ── 大看板襲名


     三遊亭圓歌small



   【 1回も改名していない例 】
     ■ 春風亭小朝 (こあさ) 師匠の場合
     春風亭小朝  ── 前座時代~真打時代


     春風亭小朝small



前座名 (ぜんざめい) というのは、師匠が思いつきでテキトーにつける例が多く見られます。本名に由来する場合もあるし、性格とか容貌から取る場合もあります。「小~」 という名前が多く、そういう点から言うと、


   春風亭小朝 師匠が、「小朝」 のまま今日まで来てしまったのは、きわめて異例


と言えます。


〓戦後、東京・大阪ともに、噺家の数が大幅に増えてしまったために、


   まず、大看板の名跡 (みょうせき) が不足し、
   ついで、真打格 (しんうちかく) の高座名も足りない


という状況を招来しました。
〓そのため、「小朝」 世代あたりからは、真打になっても二ツ目の名前のママ、というような例も見られますし、協会の幹部クラスになっても、「大看板」 を襲名していない噺家が多く見られます。






  【 “隠居名” とは 】


〓こうした改名を経験し、「大看板」 を襲名したあとで、さらに、


   → 「隠居名」 (いんきょな)


というものを名乗る場合があります。


初代 林家木久蔵 (はやしや きくぞう) 師匠は、昨2007年9月に、初代 林家木久扇 (きくおう) という隠居名 (いんきょな) に改名しました。弟子にして息子さんの 「林家きくお」 さんに、


   二代目 林家木久蔵 (はやしや きくぞう)


を譲ったんですね。


〓「木久蔵」 という名前は “大看板” というワケではありません。もっとも、だからこそ、“ダブル襲名” などというキャッチフレーズを使ったり、名前を公募したりしても、周囲から 「ふざけるな!」 という苦情が来なかったんでしょう。大名跡であったら、あのようなことはできなかった。


〓“ダブル襲名” という言い方は、ゴロがいいから使っていた、単なるキャッチフレーズだと思います。


   「木久扇」 という名前は、創作であり、初代なので、襲名ではない


のです。“襲名” というのは、読んで字のごとく 「名を襲う (継ぐ)」 こと、です。だから、“ダブル襲名” なんかじゃない。


〓「隠居名」 (いんきょな) というのは、芸人に限ったことではなく、江戸時代までは、武家や大きな商家などでも用いられていました。家督 (かとく=家屋敷と財産) を倅 (せがれ) に譲って、自分は第一線から退くとともに、名前を改めるんです。
〓有名な例としては、伊能忠敬 (いのう ただたか) の隠居名


   勘解由 (かげゆ)


があります。伊能家代々の隠居名だそうで、つまりは、伊能家の家長は、隠居すると、みな 「伊能勘解由」 (いのう かげゆ) になるわけです。


〓伊能忠敬が隠居したのは49歳のおりで、そのときに長男に家督を譲り、「伊能勘解由」 を名乗っています。江戸時代、40代で隠居するのは、決して早くはありません。
〓伊能忠敬が、日本地図を作製するために測量の旅に出たのは、その後なので、日本の海岸線を測量して歩き、詳細な地図をつくったのは、実際には 「伊能忠敬」 ではなく、「伊能勘解由」 だということになります。



               もみじ          もみじ          もみじ



〓芸人の場合、ふつうは、芸の第一線をリタイアして、一門の総領を弟子に託す場合に、「隠居名」 に改名します。




   松本白鸚   八代目 松本幸四郎の大石内蔵助 (おおいし くらのすけ)

〓たとえば、歌舞伎では、八代目 松本幸四郎 (まつもと こうしろう) 師の例があります。今の九代目 幸四郎さんのおとっつぁんです。


〓今の幸四郎 (こうしろう) と言ってもピンと来ないヒトは、キリンビールのCMを思い出してください。長男の七代目 市川染五郎 (いちかわ そめごろう) さんと、カウンターに並んでビールを飲んでます。オヤジがセガレ相手に、日ごろの不平をブツクサ言うというCMです。



   松本幸四郎-市川染五郎

   「ムスメは嫁にいっちゃうし」



というのは、“松たか子” さん (次女) のことですネ。アッシは、いつも、アソコで思わず吹いちゃうんですが……


   松たか子


〓 1981年 (昭和56年) 10月、八代目 松本幸四郎 師は、その名跡を、長男の 六代目 市川染五郎 (今の幸四郎) に譲り、


   初代 松本白鸚  (まつもと はくおう)


を名乗りました。これが 「隠居名」 です。

〓 Wikipedia では、「白鸚を襲名した」 という記述をしていますが、


   初代なので “襲名” ではない


ですね。「白鸚を襲名した」、「彦六を襲名した」、「木久扇を襲名した」 という言い方は、Wikipedia も含めて、意外にネット情報でよく見るのですが、これは誤り、というか、ヘンテコリンです。「来年は、小学校に転校だね」 みたいなヘンな表現です。


“白鸚” という名前に関しては、『日本国語大辞典』 に当たっても、古来、このコトバが使われたためしはなく、おそらく、創作でしょう。「白いオウム (鸚鵡)」 という意味になります。どういう由来だったんでしょう。

〓初代 松本白鸚師は、名跡を長男に譲り、隠居名に改名してから2ヶ月余の 1982年 (昭和57年) 1月11日に亡くなりました。




               もみじ          もみじ          もみじ




〓狂言のほうでは、1922年 (大正11年) に、五代目 野村万造 (のむら まんぞう) 師が、家督を長男 野村万作 (まんさく) 師に譲って、


   初代 野村萬斎  (のむら まんさい)


を名乗っています。この 「萬斎」 (まんさい) というのも 「隠居名」 でした。


〓この 「萬斎」 (まんさい) という 「隠居名」 は、曾孫 (ひまご) によって受け継がれ、「二代目 野村萬斎」 (まんさい) が誕生したために、隠居名転じて名跡になる、という、妙な事態になりました。
〓この萬斎さんは、みなさん、NHK 「にほんごであそぼ」 の “ややこしや” でご存じですね。


   野村萬斎  野村萬斎-陰陽師




〓また、やはり、狂言のほうでは、野村万蔵 (まんぞう) 家で、2000年 (平成12年) に、七代目 野村万蔵  (まんぞう) が、長男に 「万蔵」 を譲り、みずからは、隠居名である


   初代 野村萬  (のむら まん)


    野村萬


を名乗りました。


〓「万蔵」 を襲名した、もと五代目 野村万之丞 (まんのじょう) の八代目 野村万蔵 師は、狂言のワクを超える旺盛な活動を展開していましたが、2004年 (平成16年) に惜しくも44歳という若さで急逝しました。


〓あるいは、TV番組 「ウッチャンナンチャンのウリナリ」 の企画 「ウリナリ狂言部」 (2002年1~2月放送) に指導者として出演していたのを覚えているヒトがいるかもしれません……


〓隠居名に改名した野村萬師は、いまだ健在であるために、俗に言う “逆さを見る” ことになってしまいました。
〓九代目 野村万蔵は、2005年 (平成17年) に、八代目万蔵師の弟が襲名しています。

〓このヘンの話は、“ややこしや~” で、よくわからんかもしれんですね……



               もみじ          もみじ          もみじ



〓まだ、付き合ってもらいます。

〓浪曲のほうでは、1995年 (平成7年) に、初代 東家浦太郎  (あずまや うらたろう) 師が、名跡を弟子の太田英夫 (おおた ひでお) 師に譲って、みずからは、隠居名、


   初代 東家三叟  (あずまや さんそう)


を名乗りました。
〓今、ネットを検索してみると、「東家浦太郎」、「東家三叟」 とも Wikipedia では立項されていませんね……
〓東家三叟 (さんそう) 師は、2004年に亡くなっているので、まる9年間、隠居名で活動していたことになります。



   二代目東家浦太郎
   二代目 東家浦太郎。太田英夫時代のレコードジャケットから。

   浪曲師の情報は、インターネットではきわめて少ない。東家三叟師の写真は1枚もなかった。







  【 「彦六大いに笑ふ」 】


〓落語のほうには、「木久扇」 (きくおう) よりも、もっと有名な 「隠居名」 があります。


   林家彦六 (はやしや ひころく)


    林家彦六


〓これぞ、まさに林家木久扇 (きくおう) 師の師匠の名前です。


〓「笑点」 なんぞで、木久扇師匠が、“師匠のモノマネ” をしますね。あれは 「彦六師匠」 のモノマネです。「彦六」 というのは隠居名なので、落語界では、通常、


   彦六の正蔵 (ひころくの しょうぞう) とか、
   八代目の正蔵 (しょうぞう)


などと呼びます。


〓八代目 正蔵師は、1895年 (明治28年) 生まれ、1982年 (昭和57年) 歿。


〓1919年 (大正8年)、二ツ目時代に 「三代目 三遊亭圓楽」 (えんらく) を名乗っています。1922年 (大正11年) に師匠の四代目 橘家圓蔵 (たちばなや えんぞう) が亡くなり、三代目 柳家小さんの預かり弟子になります。

〓1923年 (大正12年)、大阪に行って、二代目 桂三木助 (かつら みきすけ) に3ヶ月ほど師事。桂三木助は、今、東京の名跡になっていますが、もともとは、上方 (かみがた) の名前です。

〓東京に帰ってからは、四代目 柳家小さん (当時は、まだ、四代目 蝶花樓馬楽 <ちょうかろう ばらく>) の内輪になりました。


〓かくのごとく、誰それの “預かり弟子” とか、誰それの “内輪” とか、ややこしい人間関係を結ばなければならないのは、


   寄席というところは、誰かの弟子とか身内でないと出演することができない


というシキタリになっているからです。


〓一時、「綾小路きみまろさんが、鈴々舎馬風 (れいれいしゃ ばふう) 師の弟子になった」 と言って、ワイドショーだの芸能誌だのが騒いでいましたが、あの騒ぎは、「芸能記者の “質の低さ” を証明する」 ようなものです。「寄席に出るなら、誰かの身内になるのが当たり前」 なのです。つまり、


   身元引受人をはっきりさせる


ということです。
〓昔は、寄席の売り上げをゴッソリ持ってトンズラする芸人なんぞがいたので、こういう対策ができたんだろうと思います。


〓かくかように、「八代目 正蔵」 になるところの 「三代目 三遊亭圓楽」 は、自分の師匠がすでに亡くなっているので、他の一門を転々と


   居候 (いそうろう)


として渡り歩くハメになりました。


〓 1928年 (昭和3年)、居候もとの “師匠” の 「四代目 蝶花樓馬楽」 (ちょうかろう ばらく) が 「四代目 柳家小さん」 を襲名することになり、彦六の三代目 圓楽は、「五代目 蝶花樓馬楽」 の名前を譲り受けることになりました。「師匠のオサガリをいただいた」 というカタチになります。


   居候のブンザイで、一家のあるじの名前をいただいた


んですね。


〓話は20年ほど進みます。1947年 (昭和22年)、四代目 柳家小さん師が、上野鈴本で一席つとめたあと楽屋で急逝します。これを受けて、1950年 (昭和25年) 9月に、九代目 柳家小三治 (やなぎや こさんじ) が、「五代目 柳家小さん」 を襲名することが決まります。この 「小さん」 が、先だって亡くなった、みんなのよく知る人間国宝の “小さん師匠” ですね。



   五代目柳家小さん  五代目柳家小さん切手
   五代目 柳家小さん。


〓ここで問題が出来 (しゅったい) しました。一門の中で、九代目の柳家小三治というのは、彦六の五代目 蝶花樓馬楽よりも、はるかに格が下なんです。そして、「柳家小さん」 というのは、非常な大看板です。「上の者を差し置いて、下の者が大看板の “小さん” を襲名する」 というのは、


   彦六の馬楽が、一門の中では “居候” だから


なんですね。

〓とは言え、これじゃあ、世間サマに対して申し訳が立たない。


   姉より先に、妹が玉の輿に乗っちゃった


みたいな状態です。そこで、彦六の馬楽に急遽 (きゅうきょ) 「“小さん” 並みの名跡」 を用意する必要に迫られました。つまり、妹より先に姉を結婚させなきゃ、という。


〓そのときに、ちょうど手頃だったのが、


   海老名家 (えびなけ) にあった「林家正蔵」 という名跡


でした。


〓七代目 林家正蔵 (はやしや しょうぞう) は、初代 林家三平 (はやしや さんぺい) の父親であり、こぶ平 (現 正蔵)・いっ平兄弟の祖父にあたります。


   七代目林家正蔵2  七代目林家正蔵。


〓しかし、七代目 正蔵が亡くなったのは、この襲名問題の起こる前年の 1949年 (昭和24年) 10月26日でした。つまり、まだ、一周忌もすんでいませんでした。ふつう、このような時期に襲名バナシというのは持ち上がりません。


〓また、故 七代目 林家正蔵 (はやしや しょうぞう) の家、すなわち、海老名家の長男は、第二次大戦からの除隊後、父の正蔵に弟子入りして、1946年 (昭和21年) から


   (初代) 林家三平 (はやしや さんぺい)
       ※父、正蔵の前座名が “柳家三平” であり、それをもらったもの。
        林家としては初代である、と勘定する。


   林家三平  「どうもすいません」 のポーズ。


の名で噺家の修行を始めていました。


〓海老名家としては、「息子が噺家をやっているのに、父親の残した大名跡を、みすみす他人にやってしまうのは惜しい」 ということになります。



〓そこで、「名跡を一代限りで貸す/借りる」 という線に落ち着きました。



   <九>柳家小三治 ───────→ <五>柳家小さん (昭和25年9月)
                   <五>蝶花樓馬楽 ―――――――→ <八>林家正蔵 (昭和25年4月)



〓彦六の正蔵というヒトは、“トンガリ” とアダ名されるくらい短気で、実直で、曲がったことが大嫌いでした。落語に、


   石橋で転べば、橋のほうが “痛い!” というくらいカタイ


という言いヨウがありますが、まさに、それです。
〓寄席への通勤用の定期券を、「割引してもらっているのは、通勤のためだから」 という理由で、他の私用に使わなかったことは有名なハナシです。共産党シンパというより、判官贔屓 (ほうがんびいき) から、共産党の議員を応援しており、街頭演説も引き受けていました。また、亡くなったのちは、遺体を医学用に献体し、角膜をアイバンクに提供することを生前に決めていました。


〓ですから、わざわざ、「名跡を借りるのは一代限り」 という主旨の、有名な誓約書を海老名家に一札 (いっさつ) 入れています。




  ――――――――――――――――――――
       誓言


   一 (ひとつ)、今般 (こんぱん) 私儀 (わたくしぎ)
     蝶花楼馬楽を改め
     林家正藏を襲名
     致し茲 (ここ) に八代目を
     相続仕候へ共 (そうぞくつかまつり そうらえども) 九代目
     林家正藏の名跡は
     海老名家え返上可致
     候間 (へんじょう いたすべく そうろう あいだ) 左様御承知置
     被下度 (さよう ごしょうちおき くだされたく) 后日之為
     誓言仕候 (ごじつのため せいげんつかまつりそうろう)


    昭和二十五年四月二十二日
          蝶花楼馬楽事 (こと) 岡本義 (よし)

   海老名榮三郎殿
  ――――――――――――――――――――

      ※この誓言書は、国立劇場に所蔵されている。原文は、毛筆によるタテ書き。
       改行は原文のとおり。( ) 内の読みガナは、“にれのや” が付けたもの。
       原文には、電子化することのできない若干の略字が使われている。




〓「私儀」 (わたくしぎ) の “儀” は、最近、ほとんど見なくなりましたが、自分を指す名詞に付き、“謙譲” の意味合いを添えます。
〓「返上いたすべく候あいだ」 というのは、「当然、お返しいたしますので」 という意味。「~あいだ」 というのは、今では死語になってしまった “接続助詞” で、「~なので」 という意味。候文 (そうろうぶん) では、「~なので」 という意味で、「候間」 (そうろうあいだ) を常用します。


〓前座修行をしていた林家三平が、爆笑王の一枚看板になってのち、八代目の正蔵師匠は、名跡の返却を打診したものの、三平師匠は、正蔵師匠に、「そのまま名乗っていてください」 というムネの返事をしていたと言います。
〓林家三平という噺家は、あのとおり、ハテンコウな落語をやっていましたから、当人からして、正蔵という格式のある名跡を継ぐ気がなかったのでしょう。


〓ところが、この場合も逆さを見ることになりました。八代目 正蔵師匠が健在なうちに、海老名家の当主である林家三平師匠が 1980年 (昭和55年)、56歳という若さで亡くなってしまったのです。


〓義理堅い正蔵師匠は、名前を拝借した相手である “海老名栄三郎” こと三平師匠が亡くなった以上は、名跡を返上すべきと考え、三平師が亡くなった八日後に 「林家正蔵」 の名を海老名家に返しました。


〓翌1981年 (昭和56年) 1月、名無しになっていた、もと八代目 正蔵師は、


   (初代) 林家彦六 (ひころく)


という 「隠居名」 を名乗ります。翌1982年 (昭和57年) 1月に、彦六師匠は88歳で亡くなっているので、彦六という名前で高座をつとめたのは、たかだか 「1年」 に過ぎませんでした。




〓この 「彦六」 という名前は、三好十郎 (みよし じゅうろう) の書いた戯曲


   『彦六大いに笑ふ』


の主人公の名です。木村荘十二 (そとじ) 監督、1936年 (昭和11年) の映画では、徳川夢声 (むせい) が、主役の彦六を演じました。ビリヤード場の亭主で、地上げをもくろむヤクザに敢然と立ち向かう。
〓彦六という人物は、もとは 「自由党」 の闘士であった、といいます。もっとも、板垣退助、中江兆民、どちらの自由党と考えても、若干、計算が合いません。徳川夢声、当時、30歳そこそこ。政治的な活動家であった、ということを示す象徴的な意味合いでしょうか。


〓この 「彦六」 という名前は、“トンガリ” のアダ名を戴いた八代目 正蔵師に、いかにも似つかわしい名前です。




〓さて、以上の込み入った “ややこしい話” おわかりになったでしょうか。

〓こういう経緯で海老名家に戻っていた 「正蔵」 という名跡を、林家こぶ平さんが継いで、2005年 (平成17年)、


   九代目 林家正蔵


が誕生したのです。






  【 “ダブル圓楽” の時代? 】


〓さあて、ハナシは冒頭に戻りますがナ。


〓今の五代目 三遊亭圓楽 (えんらく) 師が、楽太郎 (らくたろう) 師に名前を譲ったあと、いったい、ナンと名乗るのか?それがフシギだ、というハナシでしたね。


〓ダイタイやねえ、名跡を譲るというハナシと同時に、ナニか聞こえてきてシカルべきなんです。メディアは、そこに思いが至らないのか、そんなことにあまり興味がないのか……

〓と、Wikipedia の “三遊亭圓楽” の項に、興味深い記述を見つけたのです。すなわち、今の圓楽師匠は、楽太郎師に名前を譲ったあと、本名の


   吉河寛海  (よしかわ ひろうみ)


を名乗るつもりだった、というのです。もう、落語をやるツモリはないにしても、噺家が高座名を持たず、本名で通す、という例は聞いたことがありません。

〓はたせるかな、楽太郎師匠もこれに納得せず、


   五代目 三遊亭圓楽 (吉河寛海、現 圓楽)
   六代目 三遊亭圓楽 (現 楽太郎)


を併存させるつもりだ、というのです。しかし、コチラもますますもって聞いたことのないハナシなのです。

〓いったい、圓楽師匠の名前はどうなるのだろうか?



   円楽-楽太郎




               もみじ          もみじ          もみじ



〓アッシの自宅は足立区にあり、圓楽師匠の家は、さほど遠くありません。もう、はるか昔、知り合いが竹の塚付近のレンタルビデオ店でバイトをしていました。近所に住む圓楽師匠が、ときどき、来店していたと言います。


   「会員証を見せてください」


と言うと、少しも悪びれずに、


   「圓楽だが」


とヒトコト。ナンとも上下に長い顔パスです。


〓年老いたり、病気を得たヒトが、気弱になったのを見るのは悲しいし、こちらも心細く感じてしまいますね。むしろ、少しも悪びれずに 「圓楽だが」 とうそぶいてくれたら……