HARLEY DAVIDSON STORY 第八章 Part.3-Part.4 | kenbouのブログ

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イラスト;和田隆良
テキスト;ビーシープランニング

Part.3
 輸入マシーンの抱えるもう一つの問題は、販売会社の非力さにあ った。確立しつつある販路には資本力に乏しく、ビジネス経験の浅 い販売者が参入し、予想通り次々と失敗を重ねていたし、スペアパ ーツの入手にも困難が生じていた。一部の販売者は新しいマシーン を解体し、そのパーツで対応する有り様だった。新しい市場は、郵 便配達などの業務用として利用価値の大きい軽量マシーンによって 拡張されていった。多くはJamesExcelsior (英国) やfrancisB arnettといった125ccエンジン・ギアボックスユニットのものであ った。
 H・D販売会社は、輸入マシーンには存在しない中級クラスのニ ューモデルを工場に要請した。が、工場側は、最近の生産状況から 判断してもニューモデルの発表は難しく、それよりも45年間に渡っ てモーターサイクルを手掛けているH・Dは他の誰よりもアメリカ 人にふさわしいマシーンを熟知しているのだと言明した。自分達の 要求に固執していた販売会社は、このままでは由緒ある45モデルを 選ぶか、輸入マシーンを選ぶかの選択を迫られかねないと察知した。 ベテランの販売者は、500 ポンド以上の重量を持ち68mph の最高速 度を実現する45モデルが、安価なArielRedHunter やtriumphS peedTwin にかろうじて対抗できることを良く知っていた。 競技会への参入において、輸入販売会社はA.M.A競技委員会 と激しい衝突を繰り返した。まず輸入販売会社は、45cu.in.サイド バルブエンジンと競う場合、30.50ohvシングルの7.5:1の圧縮比に しなければならないという規定に疑問を投げかけたのである。これ に対して競技委員会は、将来的にも改定するつもりはないと回答し た。つまりはA.M.Aの運営の主権はH・Dにあり、A.M.A はアメリカンモーターサイクリング業界、アメリカのライダー達、 そしてアメリカの製造業者の意志に支配されており、仮に外国製マ シーンが競技に参加するのであればアメリカの規定に従うべきであ るというのが通念だった。明らかに輸入業者達にとっては不利であ り苦い薬だった。ArielRedHunter 、TriumphSpeedTwin 、N orton Internationalは、競技用に最大限のパワーを発揮するため には少なくとも8.5:1の圧縮比を必要としていたのである。 1947年春、新しいモーターサイクルマガジン“Cycle”が登場。 発行人は、自動車の進歩に即した大衆の興味に応えるべく、“モー ターの方向性と改造高速車”という出版物を出したばかりのRober t E.Peterson であった。長期間に渡ってA.M.AとH・Dの 支配下で業界の弁護人として存在してきた“Motorcyclist ”が、 新たな挑戦を受けたのである。“Cycle”はユーザーの興味に対応 して企画されただけのことはあって、大半はU.Sモーターサイク リストの初期の頃の思い出に対する批評で埋め尽くされ、マシーン の路上走行の結果なども公然と論じられていた。 この“Cycle”に対抗して、H・DとIndian の強大な後援を受 けて“アメリカン・モーターサイクリング”という雑誌がシカゴで 出版された。内容は、伝統的なヤンキー・ビッグ・ツインと国内産 業を保護するための愛国的な義務を強調していた。H・Dの経営部 は国内の様々な地域の販売会社網地方局を復興させ、年二回の会合 を持った。販売会社のアメリカ製品を支えようとする意識は高く、 そこでは特注マシーン製作に対処する意味でアクセサリーの販売促 進の強化を固めた。通常、マシーンの価格には25%のマージンが認 められていたが、アクセサリーに関しては45~60%のマージンを確 約したのである。デュアルシートやサドルバッグ、スポットライト など、ビッグツインのライダー達の好みに応じたアイテムが揃えら れた。
 幸運にもクラブマンにおける市場はH・Dの独壇場であった。I ndian の代表取締役RalphB.Rogers は、軽量モデルの開発に余 念がなく、クラシックIndian Chiefの生産を取り止めており、今 やスタンダードなクラブマンのマシーンは、大半が61または74cu.I n.H・Dohv モデルで占められていたのである。これらのモデルに は、ウインドシールド、前後のクラッシュ・バー、皮のサドル・バ ッグ、リア・キャリアが標準装備され、エキストラなスポットライ トとクローム装置はオーナーの選択によって装備可能となっていた。 全ての装備を単純に装着するだけで、クラブのミーティングやセミ プライベートのコンテストなどで優勝を飾ることができたのだった。 1947年、戦後始めて開催されたCクラス競技200 マイルDaytona Classicは、最高潮のうちに幕を閉じた。栄冠を勝ち取ったのはサ ン・ディエゴのFloydEmde 。マシーンはIndian 代理店の逸材N oel Mc Intyre によって調整されたレーシングScortであった。 しかし、このDaytonaClassicは一つの問題を抱えていた。Mot o Guzziのオーナーであるカリフォルニア州Whittier のjohn C ameronがレースに臨む際、規定に従って認証を受けていたにもかか わらず、A.M.A競技委員会によって失格処分とされたのである。 まさしく、1941年のNorton 参加の時に抱いたのと同じ外国人優勝 への危惧であった。Cameronは大声で叫び抗議したが、委員会は耳 を傾けようともしなかった。

Part.4
 1947年7月4日、ある事件が起きた。“無法者”モーターサイク リストのグループが、カリフォルニア州Hollisterで開かれていた クラブ会員のミーティングを襲ったのである。クラブ会員のみなら ず一般のライダー達、そして輸入マシーンに興味を持ち始めていた モーターサイクリスト達までもが、無念な思いに打ちひしがれた。 週末の三日間に渡り彼らは荒れ狂った。カリフォルニア州ハイウェ イパトロール隊や州警察では手が足りず、地方の警官500 人を動員 して騒動を鎮静したのだった。
この事件の一部始終は、すぐに大手ニュース写真誌“Life ”を 始めとするメディアによって報道され、再びモーターサイクリング はイメージを落としてしまった。“無法者”グループはBoozeFig hters 、GallopingGooses 、Satan'sSinners、Satan'sDaugh tersなどであり、特に悪質だったのはWinoes であった。彼らは公 然わいせつ罪とHollisterのメインストリート沿いのビル上での狂 乱で逮捕された。雑誌“Time-Life ”の7月21日号の表紙ともな った、ohv モデルに乗ったライダー達がビール瓶を振り回している 写真は全てを語っていた。次号の“Time-Life ”の読者欄には苦 悶する愛好者からの投稿が掲載され、その中には男優のKeenan W ynn や“モーターサイクリスト”の編集者Paul Brokaw の名もあ り、彼らは一様に大袈裟な事件の取扱いを嘆いていた。各メディア は、今回の騒動を起こした人数は500 人で、4,000 人余りに上るモ ーターサイクリストの一部に過ぎないと言明したが、不運にもH・ Dマシーンがこの騒動に使用されていた事実は消しようがなく、無 法者が選んだマシーンというレッテルを貼られてしまったのだった。 戦争以前から、“無法者”グループの構成分子がプライベートラ イダーやクラブ会員の頭痛の種であったことは確かだった。しかし、 あくまでも少数派の中の少数派であり、これまで小さなことで悩ま されたことはあっても騒動にまで発展したことはなかった。Holli sterの事件はいわば反社会主義を主張するものであり、手段として モーターサイクルを利用し伝統的な組織に対して異議を唱えようと した結果のことであった。
 “無法者”モーターサイクリストの思想は、社会科学者にとって 恰好の研究分野であった。同時に、戦争参加によって秩序を失った 社会の残像が若い世代に及ぼす影響も課題であった。これらのいわ ゆる専門家達は、彼らの取った行動は販売会社や各クラブが支援す る組織化された行事に反発するものであり、さらには、一人一人の 反社会主義者はモーターサイクルの本質において偶像破壊を選びア メリカ社会に反抗する姿勢を現したのだと断言した。たとえ倫理的 背景がいかなるものであろうと、彼らがアメリカンヘビーウェイト Vツインを好んでいたのは明白だった。風防、サドルバッグ、スポ ットライト、クラッシュバーを装着しないマシーンは、あたかもク ラブ会員の持つ“特注仕上げ”や英国製マシーンに敵対するかのよ うであった。
 当然、昔からのH・D販売店は無法者を顧客とはしなかった。彼 らはフランチャイズではない小さな店で、修理やサービスを受けて いた。これらの店はやがて盗品のマシーンやパーツを扱うようにな った。
 1947年秋、10年間生産されてきた“Knuckle head”型の代替えと して、翌年にohv 61と74cu.in.ビッグツインモデルの二台の最新シ リーズが販売されるという発表があった。74と80cu.in.サイドバル ブモデルは、長時間の高速走行時や暑い気候において鋼鉄製のシリ ンダー棒とその先端にオーバーヒートの症状を起こしやすかった。 そのため、この最新シリーズはクーラー機能を持たせるためにいわ ゆる“Pan-head ”方式を採用した。アルミニウムの合金シリンダ ーヘッドと液圧コントロールのリフターをohv 機能に取り付けたの である。“Pan-head ”とは、フライパン型のアルミニウムカバー をバルブ機能の上に被せることを意味していた。 この配置は非常に論理的な改善であった。オイル・ポンプはクラ ンクケースの底に配置され、複雑なオイル通路を通してシリンダー の頭へオイルを挿さねばならず、もしもオイル圧力が一定でなかっ た場合は液圧リフターが正しく作動しエンジンの振動を元に戻すの であった。テストを重ねるにつれ、タペットは頭に付けるよりもロ ッドを押すために底に付けた方がより能率的であり安全性も高くな り、オイル圧力の変化による影響も少なくなると指摘された。多く の販売会社やライダー達は、ロッカーアームとバルブタイミングの 修正を図った。工場は改善が良い結果を生むことを祈りながら、修 正されたパーツキットの供給に努めたのだった。 デザイン的にフェルト・パッドは“Pan-head ”の頭部に装着さ れ、オイルを取り出して保持するロッカー機能への給油を与えるよ うにされていた。ある時、アマチュアのメカニックがバルブ調整の 際、このフェルトを元通りに装着するのを忘れてしまったのだが、 この時に発生したロッカーからパン内に増幅された反響音はまさに 筆舌に尽くしがたいほどだったという。
 1947年11月24日、H・D社はミルウォーキーのShroeder Hotel にU.S各州並びに海外の販売会社を集め、稀に見ぬ大規模な会議 を開いた。
販売マネージャーのJ.C.Kilbertは会議の口火を切って、副 会長Arthur Davidson を紹介。Davidson は国際的に危機的状況 にある経済情勢とインフレーションとの関連について長時間かけて 語り、今や生産部門のチーフでありWalter Davidson の息子であ るgordon Davidson は、1948年の生産計画について今年度を上回 る約20,000~30,000台を予定していると述べた。彼はまた、この数 字の実現化に向けて近々工場機能を強化し新たに工具を揃え、態勢 作りに着手すると説明した。
 Arthur Davidson は会議を終えた後も販売政策について述べた。 販売会社に対しパーツやアクセサリー、工場からの潤滑油などは全 てフランチャイズを通した商品を扱うようにきつく言い渡し、加え て、会議室の隣に自社製または自社供給のアクセサリー類の展示ス ペースを設けることを提案した。アクセサリー類による45%の利益 は、今や会社の純利益に大きな影響を与えるものであり、会社の財 政的危機を脱するためにも、販売会社の努力への期待は大であった。 Kilbourne金融会社の代理店達は、新旧モデルの販売支援のため に取り交わされた条件付きの契約プロモーションについて述べ、こ の契約に基づいて低率の保険を適用すれば良い結果を生むに違いな いと強調した。
 この他工場側からの代表として演壇に立ったのは、サービスマネ ージャーJoseph Ryan 、パーツ&アクセサリー部マネージャーH arryDevine 、警察関係部マネージャーFrankEgloff 、販売マネ ージャーJ.C.Kilbertであった。Kilbertは、Servi−Carと パッケージトラックの販路拡張の重要性を説き、成功者の例として サン・フランシスコのDudley Perkins、オークランド近くのCla ude Salman 、日本のAlfred Rich Childの名を上げた。 警察関係部マネージャーEgloff は、すでに様々なグループの販 売会社と会議を持ち、警察関係への外国製マシーンの参入を阻止す るために、彼らに地方都市、国、または州の法令に基づく購買仕様 書を早急にかつ綿密に調査し、H・Dマシーンの支配を強化し得る 余地があるか否か、判断するように徹底していた。 A.M.Aの秘書マネージャーであるE.C.Smithもまた、最 近の組織の状況を報告した。それによると、会員数は1928年の4,65 0 人から1947年には50,000人を超し、財政的にも販売会社の支援が 大きな役割を果たしていた。また、A.M.Aの成功はアメリカン モーターサイクリング雑誌の販売に貢献するものであった。最後に Smithは、長期に渡るH・DのA.M.Aに対する支援を賛美し、 Arthur Davidson へトロフィーを授与したのだった。 チーフエンジニアWilliamJ.Harley が現れたのには一同揃っ て驚嘆の声を上げた。彼は戦後のH・Dの技術開発について語り、 それが済むと演壇の二つの黒いベールを取り払ったのだった。そこ には新しい125 Ñト軽量モデルの原型サンプルがあった。長いことヘ ビーウェイトモデルに重点を置いてきたH・Dにとっては、175 ポ ンドの軽量マシーンは斬新かつ驚異であった。基本的にはシンプル なデザインで、後部のリジットフレームとフォークの大きな張りは ゴムバンドで支持され引き伸ばすことも可能で、タイヤには快適性 を重視して3.25inが装着されていた。会議に参加している者の多く は、インテグラルの3速ギアボックスが採用されていることにすぐ に気付いたが、これは戦争直前に製作されたSchnurle 設計のGer man DKWのコピーであった。BSABantan として正式に海外で も認められるようになっていたが、連合軍の取得物として特許権を 守っていた。
 参加者の中には、代表取締役WilliamH.Davidson 自らが招い たミルウォーキーの人々の姿があった。Davidson は、防衛工場跡 地260,000 立方フィートを新たに政府から購入し、$3,500,000 以 上を投資してモーターサイクル製造設備を準備したと発表。“WR” レーシングマシーンの生産拡大を掲げると同時に、販売会社による 競技ライダーの支援を強化し外国製マシーンに対抗できるよう育成 することを表明した。
“Enthustase ”はこの会議を懇親会として報告を受けたが、そ の実、懇親会と表現するほど穏やかなものではなかった。販売会社 達は、当時人気を誇っていたCushmanに代わるH・Dスクーターの 登場を待ち望み、さらには350 ~500 Ñト部門に新しい外国モデルが 参入することに深刻なまでに危惧を抱いていたのだった。 あるベテラン販売員は、外国製マシーンに対するH・Dの無能さ を思い、プライベートにArthur Davidson と会い、今現在そのよ うなモデルを製作する計画があるのかと問うた。Davidson は、計 画は存在しないしモデルの試作用の費用を用意するつもりもないと にべもなく答え、H・Dが過去40年間に渡ってアメリカのライダー 達に最も適応するマシーンを作り続けてきた事実は誰にも否定でき ないことであり、従って、アメリカのライダーに似合うマシーンを 熟知しているのはH・Dであると語ったという。また、多くの小さ な販売会社達もDavidson に直訴した。マシーンの注文の持ち分が、 大都市や協会地域での販売会社と同率ではなかったからである。こ の件については、たとえば大きな商業地などの販売会社は優先され ることがあり、売る数に比例してマシーンを供給する必要があるの だと一蹴したのだった。
 自動車エンジニアであるJohn R.Bond は後に、格調の高さを 自慢とする“Roadon Track”を編集出版し、その中でH・Dの保 守的な姿勢を率直に批判した。彼は1946年から1947年にかけて、H ・Dのエンジニアとして革新的な設計に精力的に取り組んだが、経 営幹部は興味を示すことこそすれ、決して採用することはなかった のである。
 翌春、H・Dは国内の様々な地域の販売会社組合を編成した。確 かに組織として存続していたものもあったが、大半は戦争中にいつ のまにか消失していた。工場の代理人は、国内産業の繁栄のために もマシーン選択の食指を伝統的なアメリカンモーターサイクルに取 り戻すべく、今こそ販売会社の力を問う時であり、輸入モデルの台 頭を抑えるよう勧告した。
 輸入モデルの販売は、本格的な展開を見せ始めた。それまで外国 製品に興味を示さなかった一般の自動車人口も、モーターサイクル 販売のターゲットとして認識されるようになった。輸入モデルを扱 う外国人の販売会社は、大都市に近代的で大規模なショールームを 設立し、軽・中級クラスのマシーンを陳列。彼らは工場や配給元か らの統制を強いられることなく自由にどこの製品でも販売すること が可能であったし、その上、アクセサリー類に関しても一切制約は なかった。
 Indian の代表取締役RalphB.Rogers が、近々新しいライン の軽・中級クラスのマシーンを発表すると語ったのはこの頃である。 当時、国内のビッグ・ツインは外国の競合モデルの不在に悩んでい た。戦争中には2~3台が存在していたものの、戦後の初期におい ては全く再発表がなかったのである。しかし、ArielSquare Fou r とvincentHRDは例外であった。前者はEdward Turner によ る設計でどこかしら型破りで、平行にレイアウトされた2気筒のエ ンジンを通常のクランクケースで支持していた。確かに気候の温暖 な英国で曲がりくねった道を走行するのであれば効果的に冷やされ るに違いなかったが、暑い気候の、しかも直線の長い距離を走行す るU.S西部や南西部においては適するはずはなかった。数少ない Square Four の熱愛者達は改善の策として、オイルクーラーを装 着することを主張した。一方の61cu.in.VツインVincentはスプリ ングフレームと二噐のキャブレターを採用し、高速走行には実力を 発揮したものの、いかんせん調整が難しく、マニアックな機械派に 好まれた。