HARLEY DAVIDSON STORY 第五章 Part.4-Part.6 | kenbouのブログ

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Part.4
 1924年夏、Indian のfrankJ.Weschler とarthur Davidso n による恒例の内密な価格協定の会議がニューヨークAstorホテル で開かれ、H・Dの61s 、74s と対抗モデルIndian のchief、B igChiefが同一価格に決定された。
 その年の春、ある噂が飛び交った。その噂とは、ニューヨークの 無名の貿易会社がイギリスからライトウェイトの実用モデルと中型 ロードスターマシーンを輸入する計画を立て、実現化に向けて模索 中であるというものだった。Walter Davidson は、Excelsiorや Indian の経営者が関わっている形跡はないとの報告を受け、重大 な問題として対処するべく直ちに調査を始めた。調査を終えたDav idson は、ウイスコンシン州上級上院議員であるRobert M.Laf ollette と交渉を持ちつつ、他国によるモーターサイクルの米国侵 略に対し正面から臨んだのだった。Robert M.Lafollette 上院 議員は、長年アメリカにおけるそれらの状況を熟知しており、最近 では乗り物の輸入関税制度にも関わっていた。彼はこの一件で、関 税権限が最小で5%の率でしかないこと、加えてこの時まで輸入車 はロールスロイス以外はほとんど存在しないことを改めて知った。 7月10日、彼はDavidson の依頼に応えることなく、心臓発作によ り急死してしまった。合衆国衆議院議員の後継者には息子のRober t Jr.が就き、ウイスコンシン州のLafollette 政権は続いた。彼 はdavidson から、政府の努力と関税委任の院外団への支出の消費 が外車に対する関税率を高める近道であると進言を受けたが、当時 は充分な輸入が行われていなかった状況にあり、関税率アップはア メリカ産業における不安な要素になることは必至であった。案の定、 反響を呼び、Davidson はこの問題に関わることを断念したのだっ た。
 この時代、H・D史上興味深い出来事がロスアンジェルスにある PacificMotors との間で起きた。この一件には、後に魅力的なH ・Dマシーンを造るきっかけとなった人物、RichardBudelier が 絡んでいた。事の始まりは、Indian がロスアンジェルスで力を持 つデパートの支援を受けて、1920年以来警察に対して独占的な製造 を行っていた状況下で、PacificMotors のbudelier がH・Dの 販売を復興させたことにあった。Indian の独占権を破壊したのだ った。彼は、SanBernardino 高速道路でのパフォーマンスコンテ ストで61cu.in の“J”モデルを入賞させた。Budelier の意向を 聞いたIndian のC.Will Risdon は、エースチューナーを61cu .in chief に替え、H・Dの69mph に対して92mph のスピードを達 成した。このモデルは最初の2年間、モーターオフィサーの厚い支 持を得、Fred Ludlow も完璧な仕上がりにあると断言していた。 Risdon は結果に大いに満足し、25台の新しいchief を任務用とし て警察に送り、勲章をも受けた。
 その後まもなくRisdon は退職を表明した。後にA.F.VanO rderという実力のある買い手が現れた。VanOrderはBudelier の セールスマネージャーとして目され、やがて市場でH・Dサイドカ ーの存在が目に付き始めたのだった。が、Risdon との接触がBud elier の機嫌を損ねPacificMotors を馘首されてしまった。彼は 株式会社を確約することで───もちろんそれには実質上の金銭的 背景もあった───Ris- don に歩み寄り、Risdon は完全に納得 しないながらもこれを受けた。VanOrderは約束により、今までの マシーンを含めた新しい2~3ダースのマシーンを準備万端のワー クショップに展開、内容豊富な予備品の明細書を作った。次に彼が したことは、可能な限りに高額な火災保険を建物及びその製品に掛 けたことである。事件はその翌月に起きた。大火災が6つのエンジ ン会社とモーターショップ、そして近くの2つの建物を襲い、燃や し尽くしてしまったのである。火災の原因は放火ではないかという 見方が有力であったが、真相は定かではなかった。犯人は初期の頃 のモーターサイクリストであるという説やBudelier であるという 説、しまいにはVanOrderの名前まで出てくる始末であった。この 事件を何年もかけて調査していた著者は、Harold Mccellan から 信ずべき証言を得た。火事の発見者はL.A.消防局のArsonSqu adであった。彼は、以前Risdon の元で働いていたことがあり、出 火当時はVanOrderの雇用人であった人物から連絡を受けたのであ る。火が出た時点で異変と気付き放火を疑い、放火調査団をすぐに 呼んだのだった。調査団は早急に調査書を送り、VanOrderとBud elier の自宅に派遣された。VanOrderは家族の証言によれば地方 出張のため不在で、一方のBudelier は靴を履いたまま着の身着の まま、ベッドの中にもぐり込んでいるところを発見された。後に、 L.A.地域弁護士事務所で助手として勤務していたJ.Harold Louderback はこの事件にはVanOrderとBudelier が関与してい るとの見解を述べたが、調査団は犯罪として告訴するだけの充分な 証拠に欠けると法廷で陳述した。Louderback は後に、合衆国で指 折りの判事となった。

Part.5
 H・Dは、L.A.のダウンタウンでこれといった競争相手もな く平和な時を迎えていた。この2年後、カンサス市出身のAlbert G.Crockerという人物が攻撃的ともいえる販売会社網を組織する ことになる。Indian もL.A.沿岸の都市に囲まれ、Budelier はのんびりと広域に渡る販売網を思案していた。VanOrderも相変 わらず、外辺の産業のスポンサー獲得に躍起となっていた。彼は後 にL.A.地域で毎年行われる会議の席上で、モーターサイクル開 拓の組織の一人であるTrailblazerと出会うのだった。 当時、デザイン的に流行の先端にあった“J”は人々の注目の的 であった。それは外観の素晴らしさだけでなく、カムとバルブの働 きが改良された点やオイルの容量アップが図られた点など、総合的 にも高い評価を受ける価値はあり、その性能も確実に高められてい た。また、パッセンジャー仕様と配達仕様のオリジナルのサイドカ ーモデルも同時に売り出されていた。広いシートを持ったタンデム 仕様は、Rogerのオリジナルデザインを基に輸出用として最小限生 産されていた。
 1925年春、アメリカンマシーンのイギリス向け輸出は大きな打撃 を受けた。大蔵省が外車に対し、33と3/1 %の輸入税を決定したの である。これは政府と労働者達が国内市場の安定を図ろうとしたが 故の決定であった。結果的にアメリカンマシーンの輸入は休止状態 となり、Duncan Watson もH・D販売権をキャンセル、経営に終 止符が打たれた。工場側はロンドンで部品を販売したりサービス巡 回などを行い、ユーザー層の維持に懸命となった。当時、イギリス 国内におけるH・Dマシーンの多くは1914年、1915年モデルであり、 1930年代初期になると修理、保存は専門店が引き継いで行った。ロ ンドンの場末Fulham のF.H.Warr はU.K.での配給業者と なり新しいマシーンを手掛けていたが、関税率が上がったことによ り法外な小売り価格を指定され、非常に苦しい状況に置かれた。 1920年半ば、U.Sモーターサイクルの総生産量は事実上25,000 台を下回っていた。H・Dが11,000~12,000台、Indian は6,000 ~8,000 台、Excelsiorは3,500 台を占めており、その大半は依然 として人気の高かった4シリンダーHenderson型であった。 各販売会社は精神的な支えも得られず、特に地方では著しい不振 を見せていた。H・Dの工場代表者は、販売増加の見込める地域を 中心に視察し新しい販売方法や広告のテクニックを助言することに 努めた。一方、会社側は大々的に広告キャンペーンを展開。それは 商業新聞に限らず、メカニックや趣味に関する雑誌、アウトドアラ イフや自然に関する出版物、さらには時折発行される地方誌にまで 及んだ。が、この難しい時代に業界が抱えていた最大の問題は、お そらく一般のモーターサイクルに対するイメージの悪さにあった。 薄汚く、将来性のない悪質な物に見られがちだったのである。工場 の代表者達はこのイメージを払拭するべく各販売会社に助言してい たが、取引の少ない販売会社にとっては無意味なことでしかなかっ た。

Part.6

 国内市場の低迷は一般の興味が失われつつあることを意味し、A. M.A(American Motorcycle Association) におけるH・Dの 立場は次第に弱まっていった。また、A.M.A自体も衰退の傾向 にあった。が、そんな中でレーシング競技を後援し続けていたInd ian は優位に立ち始めた。モーターサイクルの登録者数は15,000台 に伸び、少数にせよその持ち主は喜んで組織を支える資金源である 年会費$200 を支払ったのだった。1925年秋、A.M.A会長であ るdouglass Hobart はモーターサイクルの会合に出席した。 その会合にはニューヨーク市のA.T.M(Allied Trades A ssociation:商業連盟協会)を中心に、アクセサリー製造業者とタ イヤ会社などのそれぞれを代表する三社が集まった。彼らは一様に 一般のモーターサイクリングの援助が乏しいことを訴えた。Hobar t もまた、A.M.Aの置かれている厳しい状況を説明した。A. M.Aは戦争の影響を何らかの形で被っていたのである。数度に渡 る長い論議の末、M.&A.T.A(Motorcycle and Allied T rades Association:モーターサイクル商業連盟協会)は全員一致 で比例配分を基にした資金をA.M.Aに対して寄付することを決 定した。それほどまでに状況は逼迫していたのである。同時に、工 場とそれに直結する販売会社の販売先は、モーターサイクルの大手 のオーナーからの援助を続けることになった。Hobart はindian の特権を意図して、その後Indian を訪れ文書を交わした。Wheel er−Schebler CaburetorCompanyの会長であったGeorge T.B riggs はM.&A.T.Aの後継者として実力を買われ、1928年の 秋までその任に就いた。
 同じ頃、Excelsior社は再びレースに参入した。当時売り出し中 のレーシングライダーJuseph(Joe) Petraliを配して21cu.in.ク ラスのレースを正式に後援したのである。この種目にはIndian も 注目していた。ちょうどこの頃、Indian は21cu.in.プリンスモデ ルOHV版の原型テストを進行中で、一年後にはそれをプロダクシ ョンモデルとして発表する計画にあったからだ。Hobart はこの新 しい競技クラスにA.M.A認可の承認を考えた。これは会長とし ての最後の仕事となった。なぜなら、この時までH・Dは21cu.in.
のプロダクションの認可を受けてはおらず、Walter Davidson の 怒りに触れ、後にDavidson はhobart の行為が裏切りであると断 定し組織から除名したのである。
競技会からの正式な援助を受けているにもかかわらず、H・Dマ シーンは多くのローカル地域での競技において顕著な活躍を見せて いた。多くのレーシング熱愛者やクラブ員は迷うことなくH・Dを 応援していたが、その大半は幹部から個人的に応援を依頼された人 々であり、応援せざるを得ない事情があった。H・Dはボード・ト ラックや国際的な大レースにおいてIndian と競うことはなかった が、ローカル地域で行われていたホース・トラック・フェアでは確 実に勝利を収めていた。
 弱体化の激しいA.M.Aではあったが、これらの競技を公認と することはなかった。が、H・Dは依然として正式な競技において、 やはり強力な存在であった。
 ちょうどこの頃、H・Dのエンジンは航空機のウルトラライト・ クラスに貢献し、実際にそのモデルを製作していた。当時、世界大 戦は航空デザインに強烈な刺激を与え進歩させていたのだった。戦 争のために製造されていた大半のマシーンは、商業用にしろプライ ベート用にしろ、あまりにも高価すぎるものだった。その上、ほと んどのエンジンは補助のための短い耐久力しか持っておらず、さら には一般的な信頼がないとも酷評された。これには、利用価値のあ る多数の安価な航空機の残余がまだあり、一般の航空機製造元をそ そのかすことによって、個人の労作を力関係で押さえつけたものと 思われる。また、戦時中のエース” ナイツ・オブ・ザ・エアー”(空 飛ぶ騎士) は、一般の人々の飛ぶということに対する興味を煽り、 ほとんどの航空機はショー的な高等飛行などにより公の面前に公開 された。飛行がそれほど大胆不敵なことではないと印象づけ、夢を も抱かせたのだった。
 イギリスの新聞“DailyMail ”は、低費用で飛ぶ飛行術を支援 して1923年夏、イギリス南部LymptonAerodromeで開催されたウル トラライト・デザインコンテストのスポンサーとなった。全般的に 見て、職業用にふさわしくデザインされた小型航空機の欠点は、動 力装置が750 Ñトのものと45cu.in.に限られていることから、違いが 現れていた。これは初期の頃、実験者がモーターサイクルのエンジ ンに置き換えていたことに起因する。結果が信頼できるものとはい えなかったにしろ、そのコンテスト自体多くの飛行術に携わる者の 注目を集めた。USAではEtiene Dormoy 、Ed Eeath、B.H. Petienpol、Weston Farmer 、Jean Roche、Harrey Mummert らがそれである。Mummertは航空学のエンジニアとしてCurtis W right 航空会社に雇われた。H・Dの信奉者であったCurtis Wri ght はその頃、小さな木窓付きの、翼を低く付けた全長26フィート の単葉機の製作に没頭しており、エンジンには61cu.in.のjモデル エンジンを転換させることを考えていた。1924年、1925年夏、彼は National AirRace に参加、第2位の栄誉を手にした。