夢一夜 『吉野杉』

奈良西吉野の山中に 10年育ててもらった。
十津川筋・R168の街道沿いに25軒程の集落、
父は米・薬・タバコ等を扱っていた。

『太平記』から続く 他の集落は尾根道から下に
わずかの平地と日当たりを求めて建っていた。

我々の集落は産業の動脈(川)に近づこうと、
平地と日照を無視して、川に面していた。
川からは30m~70m高く、まともな家は
背後の山を掘削し石垣で背面を補強していた。

大正11年 天辻隧道(トンネル)が開通した。
車道が南に延び、やがて集落に届くと、
山側の家が1m程を供出して車幅2m強にする。
川側は新しい空中店舗、斜面に柱で立っていた

見渡す限り 70度はあろうかという急な斜面で、
緑一面の整列した杉の植林地の中にあった。

出入りの男衆の枝打ちや間伐を見たこともあるし、
小学校3年で杉苗植え(植林)も経験した。

今夜は 1度しか見なかったし、
全部を見た訳でもない 杉丸太搬出のお話。

直径20cm強・4m程の杉の丸太が出荷されていた。
川沿いの斜面地をすべり落としたり、
ワイヤーで吊り降ろしたりして、川原に集積する。

焼印を小口に打ち、ビーバーのようにダムを作る。
その木製の仮設ダムも一面の丸太になる。

私が見たのは十津川の支流、
舟の川を少しさかのぼったあたりだ。
水量も少ないので筏下りはもちろん、
丸太1本流しも難しいようだった。

上流猿谷で分水ダムを工事中だったので、
本流十津川(天の川)も水量が減っていた。

木製ダムは水が十分に貯まると決壊させられる。
丸太達は解き放たれて支流をくだり本流に入る。
谷瀬のつり橋か風屋の近くまで流れるのであろう。
そこからは筏乗り職人の手で筏組みをして、
和歌山県新宮へ運ばれると聞いた。

すでにトラック輸送の時代に入っていた。
毎日、今の2tトラック位のが 家の前の砂利道を
エンジンをうならせて登っていった。
何度か追いかけた記憶がある、スグにほこりと
日に数度で 見向きもしなくなった。

そんな小さなトラックでも道幅一杯、
崩れやすい路肩と 200~400m毎の離合場所。
離合をめぐって 喧嘩があったり、路肩が崩れて
転落、死亡事故の話もあった。

川沿いの道とは云っても、路肩の小岩は
崩れる音を残して・・・・山彦となって帰ってくる。

チョト気取って見たが、巨石の河原へ
真っ逆さまに100m!! なんて所もあった。

離合のルールはあったようで、
荷積みのトラックはBackしないで、山に寄せる。
対向車は帰りの空トラ・村内3台のダットサン、
タイヘンなのは奈交のバス・娘車掌が
笛と涙声で「オーライ・オーライ」とやっていた。

父に「どうしてトラックで運んでるの?」と聞くと
「丸太の川流しは 傷が付くし 水で痛む、
 手間も掛かるし 行方不明にもなる。」

そんな話を聞いたような 気がする、15年ぶりに
あの河原を見た時の自分の妄想かも?

昭和30年頃は 村も景気が良かったのだろう、
見知らぬ人が増え 家の新築もあった。
子供も多く、2軒に1軒は3人以上だった。

年々トラックは 増え大型になり、猿谷ダムの
工事もあって、道路は拡張され 離合場所も
コンクリートで補強されだしていた。

洋材の輸入が本格的に成り出したのだろう、
伐採・山出しの日当があがり、搬出条件の悪い
我々の山はスグに価値を失っていった。

吉野杉は整然と密に植林し、除伐・間伐と
定期的な枝打ちで、高品質な杉材を作る。
それを立っていられない程の斜面地で行う。
商品の仕上がり、本伐は80~250年先。
間伐材に付加価値を付けて如何に売るか?

旅すると、日本の植林地は悲惨な状態になっている。

除伐・間伐が出来ていない。
ヤットの除伐も風倒木と共に野晒しだ。
枝打ちが出来ているのは極一部、
林床に下草はなく、不食のきのこだらけ。
日陰特有の湿り気はあるが、腐葉土の層がなく
保水力の無いのは素人目にも分かる。

ダイタイ!林間を歩いても楽しくない。

国土の70%の山林は水の供給の大元であり、
CO2リサイクルの要である。
山地は環境保護の面からも無闇な機械化が
むつかしく、山間僻地には若い労働力も無い。
国産建材として使うなら 徹底的な管理。
保水力と景観重視なら広葉樹への植替え。

氷河期の若者達に対し、屯田兵制度のような
事が出来ないのだろうか?。
家と妻、10年の給与と10年後10万平米の美林。
君の物に成るならやって見ないか?。


8年前 TVで1000本の杉の集団滑走を見た。
1m隊列そのままに監視カメラの視界から消えた。
アナウンサーは故郷の集落の名前をあげ、
道路が崩落し復旧の目途は立たないと云った。
6年前に訪れた時、対岸に迂回路は出来ていたが
復旧工事は形を見せていなかった。

隣の集落にあった小学校へ、そこは子供たちの
集合場所であり、朝のスタートラインであった。

そのバスとトラックの離合場所でもあった
小さな広場もろ共、谷底に消えていた。




追悼:
H23・9/4 台風12号豪雨』 に依り、ここに描かれた世界の半分は 崩落・山津波・水没に遭った。 記憶に残る人たちの兄弟・姉妹・・・行方不明と聞く。 薄れ行く記憶と共に 深く 哀悼の意を表するものであります。

                            H23・9/14




追記:
つたない文章をお読み頂きありがとうございます。
林業学や郷土史をまともに学んだ事も無く、
思い込みだけで書いております。



書きながらNETを調べると、次々間違いが出ます。
ある本を手に入れ「間違い探し」でもう一本、
と 考えて、この記事をUPしました。