「米坂線復旧を考える会」が結成される

 11月26日、「米坂線早期復旧と地域の活性化を考える会」(略称は「米坂線復旧を考える会」)の結成集会が、沿線住民を中心とする参加者65名で勝ち取られました。
 昨年8月の豪雨災害によって米坂線が寸断され、そのうち現在も今泉~坂町間が不通となり、バス代行を行っています。JRは1年4か月が経過しても、いまだに復旧工事を始めていません。災害を奇貨として、復旧を明言せず、地元負担をちらつかせて、それが嫌なら廃線にしようとしています。けれどもJR東は、内部留保を2兆8千億円近くため込み、そのわずか0・3%で米坂線復旧費用(86億円)が賄えるのに、時間稼ぎをして地元の諦めを誘っていると思わざるを得ません。本当に許せないです。動労総連合・新潟は昨年来、米坂線沿線の住民に働きかけて、廃線反対の運動でJRに早期復旧を迫ろうと訴えてきました。この日に結成となり、規約、役員体制や活動方針を参加者全員で決めました。会の活動としては、早期復旧を求める署名運動と会員の拡大、JRや県知事、自治体への申し入れを決めました。
 JR東は11月21日、ローカル線の赤字問題をマスコミ発表しました。ここでは赤字路線をことさら強調する一方、黒字線区や黒字額はふせていますが、政治的な意図を感じます。さらに、羽越線の村上~鶴岡間の赤字が年間49億円と米坂線以上でありながら、廃線の対象にもなりません。これは、特に軍事輸送(一昨年9月の陸上自衛隊の輸送訓練に羽越線を使いました)のための線路として羽越線を位置づけていることを感じさせます。ローカル線のスリム化を図り、戦争のできる国家改造計画へと進めさせてはなりません。地域の貴重な財産であり、公共交通を必要とする学生やお年寄りにとってなくてならない米坂線を「赤字だから」と言って廃線しようとするのは言語道断です。
 結成総会では、地域のかけがえのない財産であり、春夏秋冬の風光明媚な地域を走る米坂線(写真)の早期復旧を求める声が数多く出されました。地域住民が主体となり、活動を始めるならば、廃線をゆるさず、復旧させることができると確信しました。

 

星野文男さんの急逝を悼む

 星野文男さんは、ウクライナやパレスチナを見て「生きている間に第3次世界大戦が始まる」と警鐘を乱打し、反戦闘争の先頭で連日のように街頭などでアピールしていました。まさに闘いの中での急逝でした。本当に悔やまれてなりません。私たちは星野文男さんが切り開いた地平を引き継いで、階級的労働運動の可能性にかけて闘い抜くことを誓います。それが星野さんへの弔いだと思っています。
 私と星野さんは、70年安保・沖縄闘争、ベトナム戦争反対を闘う中で出会いました。星野さんは、新潟駅の構内作業係として、電車の開放・連結の仕事に従事していました。菜っ葉服の胸に「国鉄大合理化反対」と記した黄色いリボンをつけている青年。国労青年部として輝くような存在でした。私は、国労に加入したのが71年でしたが、星野さんの姿にひかれたことは明らかでした。一緒に国労内で闘う中で、73春闘ストの闘争として新潟駅の一番ホームを国労新潟支部としてデモ行進したことや鉄労組合員のスト破り乗務を弾劾したことなどが思い出されます。さらに77年、狭山闘争のデモ行進で不当逮捕され、星野さんを国労新潟支部が除名処分を策動しましたが、私は彼の除名に絶対反対し、狭山闘争をネグレクトしていることこそが問題と訴え、組合員の中に支持を獲得拡大することになりました。当然にも除名策動を頓挫させました。
 80年代の国鉄分割・民営化は、ストで闘う国鉄労働運動を弱体・解体して、総評・社会党をつぶして、改憲を果たそうとする支配階級の戦後最大の労組弾圧でした。星野さんはその中にあって、敵階級の狙いを暴き、ストで反撃することを訴えました。しかし、国労本部は最後までストで反撃せず、政治決着を求めたのです。この路線が1047名解雇撤回闘争の和解(JRの解雇責任を問わない和解)に見られるように、今日まで尾を引いていることは明らかです。国鉄分割・民営化は支配階級との攻防であり、あいまいさを許さない闘いです。動労革マル派(後のJR総連)の民営化賛成というコペルニクス的転換などもあって、労働運動全体に影響したことは30数年に及ぶ日本労働運動の現状を見れば明らかです。
 2015年、星野さんと私たちは、国労を脱退して動労総連合に加入しました。新自由主義の強まり、戦争情勢の深まりという時代への突入に対して、国労本部の無方針と決別したのです。国労にすべてをかけた半生からもう一歩、飛躍を勝ち取り、「労働運動の力で社会を変える」という決断でした。星野さんはまさに、その先頭で労働運動の可能性に挑戦したのです。2019年、反原発福島行動のデモ行進中、くも膜下出血で倒れましたが、医師と家族の懸命な治療と介護で回復し、これからもうひと頑張りという時の急逝でした。
  時代は星野さんの言うとおり、世界戦争が切迫する中にあって、労働組合を越えて一人の労働者として、人間として問われる時代になっています。そのことを実感していた星野さんだから、命を懸けて闘ったのだと思います。彼から託された課題を受け止めて残された時間を精一杯闘いぬきたいと思います。

阿部啓輔(国鉄闘争全国運動・新潟事務局長)