韓国による竹島強奪の歴史と真実(前編) | はやぶさのブログ

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日本が竹島の領有権を確立したのは17世紀の半ばと言われ、江戸時代から朝鮮半島により近い欝陵島でアワビ漁やアシカ漁を行い、そこに渡る足がかりとして竹島を利用してきたのだという。明治初期には竹島でのアワビやアシカ猟も始まり、それは1937年の日中戦争を契機に竹島での漁が禁止されるまで、長い間ずっと続けられてきたものだった。こうした領有の証拠、竹島における日本人の経済活動を示す証拠や史料は山ほど残っている。

「国際法上、領土の帰属をめぐる係争で重要な意味を持つのは『その土地で暮らす人間の営み』です。日本には竹島で漁をしていた証拠が沢山ありますが、韓国は戦後に不法占拠するまで一度も経済的営みを行っていないので、日本の領有以前に竹島を実効支配していた証拠など全くありません。韓国側が竹島問題を国際司法裁判所で争うことを嫌がるのは、そのためです」(外務省関係者)
そう、歴史的に見ても国際法上も、竹島は間違いなく日本固有の領土。その日本の領土を、韓国は戦後ずっと「不法占拠」しているのだ。

どうして竹島は韓国に不法占拠され実効支配されてしまったのか。
その理由は1950年代初め、日本がまだ米国にせんりょうされていた時代にまでさかのぼる。
簡単に言えば、韓国は在日韓国朝鮮人たちが朝鮮進駐軍と称して、法の秩序のない中で日本人の土地、家屋をはじめとした所有物を片端から略奪して我が物にしたように、この戦後の日本の混乱に乗じて竹島を強奪したのである。
日韓史に詳しい歴史学者がこう語る。
「1952年1月、当時の韓国大統領・李承晩が『このラインを韓国領にする』と勝手に領海線を引き、そのライン内にある竹島の領有を一方的に宣言したのです。これが所謂『李承晩ライン』です。韓国は戦勝国を自称し、サンフランシスコ講和条約の起草の際、米国に『日本が放棄する領土に竹島と対馬を含めよ』と要求していたのですが、米国側は『竹島も対馬も朝鮮の一部として取り扱われたことは歴史上一度としてない』とこれを拒否。そのため韓国は同年4月にサンフランシスコ講和条約が発効してしまう前に、国際法を無視して一方的に領海線を引き、竹島の領有を宣言したのです




当時の日本は米軍の統治下にあり、主権回復の直前。海上自衛隊どころか、自衛隊の前身である警察予備隊ができたばかりの頃だった。韓国は、日本が軍事的にまともに抗議できない事を見越した上で卑怯にも竹島を強奪したのだ。
 しかも、ただラインを引いて領有を宣言しただけではない。翌年の53年になると、韓国側は独島義勇守備隊という民兵組織を竹島に常駐させて不法占拠を開始。韓国側は守備隊に迫撃砲や機関銃、カービン銃などを支給して武装させた。そのため日本人が竹島に上陸するのが困難になってしまったのである。
 そして不法占拠と前後して始まったのが、竹島近海で操業していた日本漁船に対する韓国側による銃撃や拿捕だ。
「最初に起きたのは、53年2月、韓国・済州島付近で操業していた第一大邦丸が韓国側に銃撃、拿捕され、漁労長が射殺された『第一大邦丸事件』です。発泡してきたのは韓国の漁船2隻で、まず第一大邦丸に接近し『魚は捕れますか』と日本語で話しかけ、そのまま離れていくと見せかけておいて、約30メートルの距離から突然銃撃してきたそうです」(同・日韓史に詳しい歴史学者)

 


 第一大邦丸の船長の国会での証言によれば、韓国側のやり方は拿捕後もとんでもなく非人道的なものだったという。
 銃撃で小破した第一大邦丸が逃走を断念すると、韓国船は「済州島の翰林にいけ」と命令。
翰林に入港後、船員が韓国兵に漁労長が右後頭部を撃たれて瀕死の重症状態である事を伝えたにも関わらず、なんの手当もせずにそのまま放置されたのだ。治療して欲しくば金を払えと要求され、
「船長たちは結局、私物を韓国兵に売り、その金で医師に輸血剤を売って貰ったそうですが、漁労長は間もなく死亡。その後、船から漁獲物まで全て没収された彼らは警察署前の防空団詰所に監禁されたんですが、4畳ほどの狭い場所に18人が押し込まれた上に、食べ物も一切与えられなかったというのです」(同・日韓史に詳しい歴史学者)
 韓国側に拿捕され、抑留されてこのような虐待を受けたのは第一大邦丸だけではない。
 日韓漁業協議会の調べによると、1965年に日韓基本条約と漁業協定が締結されるまでに日本の漁船は328隻、抑留された船員は3929人、死傷者は44人。その損害額は当時の金額で90億円以上に上る。

 

 

 

 

 


その上、この44人の死傷者というのも、銃撃だけによって死傷したというわけではないのだ。
 やはり韓国に拿捕され、監禁された第28海鵬丸の船長は、当時国会の小委員会でこんな衝撃的な証言をしている。
「留置場は、ひと部屋四畳半くらいで部屋の隅に便所があり、朝鮮人と一緒にぶち込まれました。多い時はひと部屋に10人、全部で80人以上もおり、憲兵、兵隊、弁護士、刑事など全然区別なくどんどんぶち込んで・・・時々パンパン(売春婦)の狩り込でこれらが入って来れば、女だけの部屋を作るのでひと部屋空けるために他の部屋は超満員になって寝ることも出来ませんでした。中には苦しさのあまり便所から逃げようとして便所の中を泳いだ者もおりました。
食事は丸麦一合くらいを一日二食。おかずは大根の葉っぱの塩漬けを、毎日毎日73日間も食わせられ、栄養失調になって20日位入院した人もおりました・・・」
 山口県萩市に越ヶ浜、玉江浦という2つの漁港が並んでいる。どちらも当時の人口は2000人程だったが、その2つの漁港だけでも合計144人もの漁民が韓国側に拿捕されているという。しかも抑留中にそのうちの5人が死亡し、そのため日本に残された家族の生活は働き手を奪われて困窮、一家離散したケースもあった。また、死者の中には娘が生まれたばかりの若い漁船員もいたという。その赤ん坊は、生後数ヶ月で父親を韓国に殺されたのである。
 前出の日韓史に詳しい歴史学者が言う。
「韓国が日本漁船を拿捕・抑留したのは、当時始まっていた日韓基本条約をめぐる日韓交渉を有利にする外交カードとして使うためでした。要するに日本人漁船員を人質にした『人質外交』です。実際、人質を取られた日本政府は漁船員を早急に救出するために、韓国との条約交渉で大幅に譲歩。しかも、韓国側は、日本の刑務所に収監されていた韓国・北朝鮮の犯罪者472人の即時釈放と在留特別許可まで日本にみとめさせたのです
日本の領土を不法占拠した挙句、国交正常化を有利に進めるために4000人近い日本人漁船員を拿捕し、監禁したのである。それもこれ以上無い位の非人道的な悲惨極まりない生活を強いて・・・。
 これでは北朝鮮による日本人拉致事件と全く同じではないか。これが、北朝鮮と同一民族、韓国の正体なのだ。

 

 

韓国側による行為で全身大やけどを負った日本人漁船員。






韓国・在日さまが、こわくて、竹島は「不法占拠」と口が裂けても言えない民主党政権内閣