をはりの美學
三島由紀夫の随筆をはりの美學を讀みぬ。内容は取るに足らぬもので、後書で本人がふざけてゐることを認めてゐる。しかし、三島由紀夫の終はりを知ってゐる者にとってみれば、暗喩に富んだ内容であると思った。このブログのをはりは一切考へてゐないが、色々な自分に親しかったものが終っていくのを見ると、今さかりに見えるもののをはりを考へてみたりもする。最近終はったものと言へば、何であらうか。昭和のをはり、五十五年體制のをはり、ソ聯のをはり、どれも三島由紀夫の時代では想像しにくいものであるが、今は昔のことである。民主黨政權のをはり、これは最近のことであるが、何の感慨もないし、全く歷史に残らない些細なことであると思ふ。しかし、あの政權が出來る時の世間のお祭り氣分や、もて囃す團塊の世代の熱氣は覺えてゐる。安保反對運動のをはり。全共闘世代は性懲りもなく國會前での安保反對デモに出かけてゐたが、その安保騒ぎも終はった。彼らには氣の毒であるが、60年安保や70年安保に比べると、高齢化のせいもあらうが大したものではなかった。團塊の世代のをはり。彼らが懲りずに次のお祭りを搜すことも豫想がつくが、その彼らもあと十年ほどで終はる。安倍政權のをはり。今でも長期政權と云へるほど續いてゐるが、いつかはをはりが來る。それがどんなものかは分からないが、小泉政權の時の樣にポスト安倍騒動があることは豫想できる。いづれにせよ、をはりはをはりによってのみ表現できるもので、言葉で説明できるものではない、と三島由紀夫は言ふ。私も自分の勤めのをはりを少しづつ考へ始めてゐる。