【平塚】 ”ピアノ騒音殺人事件の全容” | 素人が民事裁判を起こして・・・

【平塚】 ”ピアノ騒音殺人事件の全容”

//////////// ピアノ騒音殺人事件  ////////////


1928年(昭和3年)、大浜松三は東京都江東区亀戸で3男3女の三男として生まれる。家業は書店を営んでおり小学校時代は成績優秀でずっと級長だったが、3年生の時、近所の吃音(きつおん/どもり)の子と遊んでいるうち、自分も吃音するようになって悩みはじめる。


旧制中学に入り国語の授業で指されて教科書を読んだが、上手く読めず屈辱的な体験をして以来、劣等感を抱いて学習意欲を失い怠惰になり、みるみる成績が落ちた。

旧制中学を卒業した後、疎開先の山梨県で敗戦を迎える。 その後は親類の車体組み立て工場に勤めていたが、この頃吃音はいっそうひどくなって職場ではちょっとしたことで腹を立てた。 

また、家庭では兄たちと毎日ケンカして、近所の人と顔を合わせても目をそらして口をきかなかった。


1948年、二十歳で国鉄(現・JR)の中央線の国立駅職員になり周囲からは「頭の良い男」と見られていた。


23歳の時、競輪に熱中した挙句、小額の公金を横領、ひったくり事件を起こして逮捕され懲役1年・執行猶予3年の判決を受ける。同時に国鉄を解雇される。その後、旋盤工場に就職したものの長続きせず、自宅でぶらぶら過ごす。


27歳の時(昭和30年)に、家出して1年ほど新橋界隈でホームレスとして過す。

翌昭和31年に亀戸の自宅に戻り、再び旋盤工として働き始めるが工場を次々と替った。吃音のため先輩に嫌われ仕事を教えてもらえず勤労意欲を失ったという。


31歳の時、農家の婿養子になったが妻が別れた前夫と密会しているのが気に入らずまもなく離婚。その後、八王子のアパートで独り暮らしをしながら日野市の自動車工場(日野自動車)で働いた。アパートの住人はほとんどが夫婦者で小さい子供も多かったが、大浜は隣人たちと挨拶も交わさず子供に声をかけることもなく「気難しい変わり者」と見られていた。


35歳のころ、突然大浜の身に異変が起る。当時の職場であった自動車工場は昼夜の2交替勤務であったが、夜勤明けの昼間にアパートで寝ていると、原因不明の「ドカーン」という音が聞こえ始める。 この“音“は数日続き大浜は眠れなくなった。実際には、その音は近所のガラス戸の開閉音であったが大浜本人には爆弾の炸裂音のように聞こえたという。 当時の大浜はこの音を聞くと”脳が破壊されるような気がした”という。


同じアパートの夫婦にステレオ(大浜の唯一の趣味は音楽鑑賞だった)の音が大きいと苦情を言われ大喧嘩したこともあった。

それ以降、大浜は音に対して異常反応を示すようになり、アパートの子供たちの遊び声がうるさいと叱りつけたり、よく吠える近所の犬を何匹か殺して警察に通報されたりする。

1964年7月、大浜は八王子のアパートを出て転職する。


1965年(37歳のころ)知人の紹介で知り合った女性と結婚した。妻は明るい性格で気立ても良かったが、大浜は相変わらず気難しく無口で妻に対して暴力をふるった。しばらくすると仕事を辞め自宅でぶらぶらし始める。


そして、雀の鳴き声が気になり始めると、木によじ登ってビニールテープを「雀よけ」と称して張り巡らした。1967年、大浜は八王子市内の会社に就職し、夫婦で会社の寮に移り住む。ここでしばらく小康状態を保つものの、やがて隣人の話し声がうるさいと抗議し始め口論が続いた挙句、退職する。

この頃の大浜は唯一の趣味であったステレオさえヘッドホンなしでは聴かなくなり次第に音楽の熱も冷めていった。 また、テレビを見る時はイヤホンを使っており、自ら入浴の時にすら音をたてず、妻の入浴時に立てる音に対しても口やかましく注意し部屋には厚いマットを敷いて忍び足で歩いた。


1970年4月、大浜夫妻は神奈川県平塚市田村の県営横内団地(鉄筋4階建・全50棟に1323世帯が住んでいた)の34号棟4階(406号)に入居。

その2ヵ月後の6月、大浜家に続いて奥村家親子4人が階下(306号)に入居してきた。この日から、静かな夫婦と騒々しい家族が、厚さ12センチの床の上と下で暮らし始める。


引っ越し当日、さっそく棚を取り付けるためハンマーでガンガンやり始める奥村家の亭主は日曜大工を趣味にしていた。 そのためよく工作の音を立てた。時にはアルミサッシの開け閉めを5分間に20回も繰り返すことがあったという。


大浜は階下の会社員宅を訪れて、 「親が日曜大工でガタガタさせるから、子供も遠慮しないんだ。親の教育が悪い」と苦情を言ったが、逆に変人扱いされ話がこじれただけだった。 

階下の亭主は腕っぷしの強そうな男で女房は外ですれ違っても挨拶するどころか、「フンッ」といった顔つきで大浜を見たりした。


またある日大浜が奥村家に回覧板を持って行った時、長女から「おじちゃん、人間生きているんだから、音は出るのよ」と言われたという。

無論、これは長女の考えた言葉ではなく彼女の両親が繰り返し言っていたことだった。


1973年の夏頃から、団地ではピアノやエレクトーンなどの楽器騒音が問題となり始めた。幼稚園や小学校へ通う子供のいる家庭では競い合うようにピアノなどを買うようになり団地の近くには音楽教室ができたりした。

だが、団地の自治会活動が活発だったお陰で、すぐにこのことが議題に取り上げられ、音量を絞ったり、練習は昼間に限るといった自粛の約束をつくったが、全ての人がこの約束を守っていたわけではなかった。

その年の11月、奥村家の3畳間に26万円のピアノが運び込まれた。小学2年の長女まゆみちゃんがピアノを習い始めたからで、その日以降小学校の終わる午後3時頃から毎日ピアノの練習曲が響き始める。


1974年4月、当時47歳の大浜は失業しており、夫婦の仲も冷え離婚話も出ていた。

この頃の大浜には幻聴もあらわれ始め「自衛のため」とテレビアンテナの棒に包丁をくくりつけた手製のヤリを作っている。 また、不整脈と偏頭痛と耳鳴りが激しくなり神経科にも通院し、先行きの不安に怯える大浜の心にピアノの音が突き刺さる。

大浜は階下から日曜大工やピアノの音が響くたび、相模川へ釣りに行くか市立図書館での読書に逃避するようになった。


そして事件が起きる8月、大浜は6月分と7月分の家賃を滞納しており、8月分が払えなければ団地を出なければならない状況だった。そんな大浜に愛想をつかした妻は、東京・青梅市の実家に帰ってしまう。

8月の夏休みが始まり、相模川も図書館もどちらの場所も子供達が占領するようになって、大浜の逃げ場はなくなっていった。


そのうち、「自分だけがなぜこんなに悩まなければならないのか? 自分はもう生きていけない。自殺するかもしれない。自分はもう死んでもいいけれど、自分をこれほどまでに苦しめた2人の女だけは生かしておけない」大浜は2人の主婦に対し仕返しすることを決意する。


この一人は階下に住む主婦・奥村八重子であり、もう一人は10年以上も前に住んでいた八王子のアパートの隣人で「ステレオの音がうるさい」と苦情を言いに来た主婦だった。


事件の数日前、306号室のドアに「子供が寝ていますので静かにしてください」という張り紙が貼ってあるのを見た大浜は。「なんと自分勝手な!」と改めて強い殺意を抱き、その3日後には復讐のための刺身包丁(刃渡り20.5cm)を購入している。


そして事件当日の1974年8月28日(水)


その日は朝から蒸し暑かった。まだ学校が夏休みで朝から例によって階下から響いてくるピアノの音で大浜は目を覚ました。いつもは9時頃から鳴り始めるのに、この日はそれより2時間も早く少女は練習をはじめていた。大浜の怒りは次第に頂点に達していく。

「少しくらい遠慮すればいいものを、わざとやっていやがる!」気温が高くなるにつれ、その音は大浜の異常に高ぶった神経をイラつかせた。


午前920分頃、階下の主人(当時36歳)が出勤したのと、妻八重子(33歳)と次女の洋子ちゃんが一緒にゴミ袋を持って玄関から出て行くのを見届けた大浜は、刺身包丁を手に取ると306号室に乗りこんで行き、ピアノを弾いていた長女まゆみちゃん(8歳)の胸を一刺しして殺害、続いて母親より先にゴミ集積所から帰ってきた次女(4歳)も刺し殺した。

そして、マジックを手に取り襖に殴り書きをはじめる


<迷惑をかけているんだから、スミマセンの一言くらい言え。

気分の問題だ。大体、来た時(入居時)もアイサツにこないし

しかもバカヅラしてガンをとばすとは何事だ。人間、殺人鬼にはなれないものだ (入居して)来た時・・・>


そこまで書いた時、ゴミ出しから戻ってきた八重子が洗濯機のスイッチを押した後、3畳間の隣の居間に入ってきた。大浜は居間に飛び込むと、ためらう事無く八重子の胸を狙って刺身包丁を突き刺し殺害する。


襖に書いた言葉は、後で帰ってくるこの家の主人に犯行の理由をわからせるためであったという。


犯行後の大浜はバイクとバスを駆使して逃亡し海で死ぬことを考えながら3日間さまよったが死にきれず831日平塚署に自首する。


----------------------------------

1974年10月28日、横浜地裁小田原支部で初公判。

7回公判で大浜の妻が弁護側証人として証言台に立ち、大浜について「怠け者なので離婚しようとずっと思っていた」と手厳しい証言をした後、階下のピアノ騒音についての証言を始めた。それによると


“ピアノの音は自分(妻)にも度を過ぎて聞こえてきたこと、苦情を言いに行った翌日から朝7時から夜9時の間不規則にピアノ練習が開始されたこと、大浜が帰宅してくると階下で急にピアノが弾かれ始めることがしばしばあったということだった。

ちなみになぜ大浜が帰宅したことが階下にわかるのかというと、階下の家では1年中玄関のドアを開け放しにしていたからだったという。“


8回公判で大浜は被害者に対して申し訳ないという気持ちは「ないです」と答え、「死刑になりたくてやった」と主張した。1975811日、第9回公判で検察側は死刑を求刑。


大浜も最終陳述で「私としては、死刑台の椅子に座りたい、それだけです」と述べた。 

1975年10月20日、横浜地裁小田原支部・海老原震一裁判長は検察の求刑通り死刑判決を下す。 


この判決にいち早く反応したのが「騒音被害者の会」で、同会は緊急会議を開いて大浜の支援を決議し、騒音問題に理解のある弁護士をたてる方針を固めた。しかし大浜に裁判で争う気はなく、弁護士推薦を拒否したため国選弁護人が弁護にあたることとなった。


大浜は「望み通りの死刑判決であり音の苦痛や無期懲役よりひと思いに死んだ方がいいので控訴はしない」と語ったが、弁護人は大浜の意思を無視して控訴手続きをすすめた。

大浜は不満の意を表したが弁護人が何とか説得して控訴趣意書を書かせた。


1976年5月、東京高裁が東京医科歯科大教授の中田修に精神鑑定を命じた結果、大浜は犯行当時パラノイアに罹患しており、責任能力なしの状態にあったと判断した。

(パラノイア: 偏執病(へんしゅうびょう)は、精神病の一種で、体系だった妄想を抱くものを指す。自らを特殊な人間であると信じたり、隣人に攻撃を受けている、などといった異常な妄想に囚われるが、強い妄想を抱いている、という点以外では人格的に常人と変わらない点が特徴。これが日常生活に支障をきたすレベルに達したものが、妄想性人格障害とされる。)


10月5日、大浜は弁護人との相談なしに控訴を取り下げる。自ら「控訴取下申立書」を作成し拘置所長を通じて裁判所に提出した。「死刑を免れて無期懲役になったところで、刑務所での生活がうまくいくとも思えない。騒音過敏と不眠症で人生に疲れ果てている。ここでの生活は自殺もままならない。それならいっそ処刑された方がいい。もし精神鑑定で異常と結論が出て免責されても、一生を病院で過ごさねばならぬ。したがって、処刑によって自殺の目的を遂げたい」と語っている。


弁護士は「この控訴取下げは妄想に基づくものであり、無効である」との異議申し立てを行なったが棄却が決定され12月16日、東京高裁の裁判長は控訴の取り下げを有効と認める決定を下す。


1977年4月11日、最高裁への特別抗告の期限が切れたことで大浜の死刑が確定する。



刑事訴訟法第475条に、死刑の執行は法務大臣の命令によってなされるが、それは判決確定の日から6ヶ月以内としている。また、刑事訴訟法第476条に、「法務大臣の命令が下されてから5日以内に死刑執行が行なわれなければならない」とされている。しかし、実際には死刑確定から執行まで5~8年くらいかかっているのが現状である。大浜は死刑確定した日からすでに30年以上が経過しているが、刑は執行されていない。


「ピアノ騒音殺人事件」は近隣騒音殺人事件の第1号であったことから、世間の注目を集めることになったが、これを境に騒音が原因の殺人事件がたびたび起きるようになる。