現代の刺客たち | 日月抄ー読書雑感

現代の刺客たち

日本の政界も「郵政解散」で騒然としている。郵政民営化法案に反対した仲間の選挙区に落選させるための「刺客」を放つという記事が新聞の紙面に踊っている。刺客とは広辞苑によると、「人をつけねらって殺す人」とあり尋常な言葉ではない。その言葉の行為は「暗殺」とも考えられるが、この意味は「(政治思想などの対立する立場の)人をひそかにねらって殺すこと」とある。今回の刺客は白昼堂々と現れるのだから「暗殺」というより「明殺?」といったほうがよいのかもしれない。

しかし反対者の政治生命を絶つのだから「暗殺的な匂い」もする。今回の刺客のことから藤沢周平の「暗殺の年輪」を思い出した。主人公の父が藩の権力者暗殺に失敗。今度は息子の主人公が同じ人物の暗殺を命じられる。母がその権力者に体を売り母子が生き延びたことを知り、権力者を暗殺、しかし暗殺を命じた者達が彼を口封じのために殺そうとする物語である。まさに藩の権力争いの陰で過酷な運命に弄ばされる下級武士と武家社会の非情な掟の世界を描いている。

今回の一連の政権政党の騒動は江戸時代の藩の権力争いとその行為(殺害)は違っても権謀術数が蠢き反対者を圧殺しようとする点で類似している点もある。藤沢はこの争いの陰で権力者に利用され、捨て去られようとする下級武士の悲哀を静かに語っている。私は今回刺客を頼まれた人たちの心中は如何なるものかを考えた。権力に擦り寄る者、頼まれて断れずに引き受けた者、これが改革だと喜んで引き受けた者など様々であろう。

しかし、実権は権力者の手にある。「暗殺の年輪」のように親子2代にわたり利用され捨てられることはなかろうが、権力者の目的遂行のための行為で不安定な存在であることは確かである。「暗殺の年輪」の最後の場面である。主人公は彼を消す追手と出会い、「この汚い企みに付き合う必要はないのだ、と思った。執拗な足音が背後にしているが、二人ぐらいのようだった。星もない闇に身を揉みいれるように走りこむと馨之助(主人公)はこれまで体にまとっていた侍の皮のようものが、次第に剥げ落ちて行くような気がした。」

主人公は結局武士社会が嫌になったようである。それに比べ現代の刺客たちには颯爽としている。これに不気味さを感じるのは私だけであろうか。

藤沢周平著  暗殺の年輪  新潮文庫  1978年2月刊