戦後60年の当惑? | 日月抄ー読書雑感

戦後60年の当惑?

毎日新聞の透視点というコラムに阿川尚之氏(慶応大学教授)が「戦後60年の当惑」と題で広島の原爆記念日について書いている。(8月4日)阿川さんは父(作家阿川弘之氏)の故郷が広島で身近な人たちが被爆者であると述べた上で、8月に行われる原爆行事に違和感を覚えるという。

その理由は第一に世界の歴史にはユダヤ人虐殺、スターリンや毛沢東の自国民の圧殺、アフリカ、北朝鮮などでの惨めに死んだ人たちがおり、(なぜかイラク戦争で死んだ多くの市民には触れない)原爆の犠牲者がそれほど特別なものかという疑問を投げかけている。また行事の陰に見え隠れする正義感への当惑を述べ、毎年披瀝する「被爆国民としての特別感情」は中国が日本に対して表明しつづける被害者の感情とどこか似ていると述べている。第三に原爆投下は抽象的な歴史上の事件になり、60年という歴史の流れは悲しみを和らげる一つの区切りだいう。そして、お盆を迎え「無言で死者に語りかけながら過ぎ去った時を思うと同時に、控えめな将来への希望を確かめたい」と結んでいる。

確かに8月6日になると広島では慰霊の行事が賑々しく行われ、マスコミも記事を載せ、あとは忘れたように静かになる。いわば年中行事化していることに私も違和感がある。阿川さんのように静かに死者を弔いたいという願いも理解できる。

しかし、阿川さんの挙げた理由には疑問を感ぜざるを得ない。歴史的に犠牲になった死者はみな同じで原爆犠牲者も特別ではないという考え方は筋が通っているように見えるが、原爆投下による被害は日本が唯一のものであり、今でも被爆で苦しんでいる人が沢山いるのに、中国の被害者意識と似ていると言われては、中国にもそして被爆者にも失礼な言葉ではないか。ましてや60年の歴史が一つの区切りに悲しみを和らげたいということにも疑問がある。

書架から1984年にでた「ひとりひとりの戦争・広島」を取り出し読んでいる。原爆で孤児になり韓国にわたり辛酸をなめた人、水俣病の苦しみで二重に強いられた人、刑務所で被爆し脱走した犯罪者、広島ミッション学校で弾圧を受け被爆した元教師、広島の近隣で被爆した神楽の里の人、看護婦として被爆者の治療に当った人など6人の記録をまとめたものである。それぞれ一人一人に違った歴史があることがわかる。どうして「原爆投下は抽象的な歴史的事件」と言えようか。この本は静かに自分の歴史を語っている。声を大きくしないで原爆を語り継いでいる人もいることを忘れないでほしい。

北畠宏泰編 ひとりひとりの戦争・広島 岩波新書  1984年8月刊