芥川賞受賞作品「土の中の子供」を読む | 日月抄ー読書雑感

芥川賞受賞作品「土の中の子供」を読む

今回芥川賞を受賞した中村文則さんの「土の中の子供」を読了した。この作品は粗筋を書くのは難しいが、タクシーの運転手をしている27歳の主人公が親から捨てられ施設で育ち、養子として引き取った遠縁の両親に殴る、蹴るの児童虐待を受ける。その影響で暴走族の連中に吸殻をぶっつけ半殺しの目にあうなど常に自らを危険な状況に追い込む自虐的な行動をとる。一方彼が一緒に暮らす白湯子という女性も、両親との関係や昔の男のことで心に深い傷を負っており、そこに二人の連帯感が生まれるというストリーである。

この作品は幼少時代、児童虐待を受けた主人公のトラウマを抜け出す苦しみを描いている。また高所から物を落としたりする加虐的な衝動にも駆られる主人公の複雑な感情にも触れている。しかしこの作品はその主人公の精神分析(施設の医者も登場)などその人間の心理を描こうとしたものではない。

主人公が山地の土の中に埋められ、それでも土をかけ分け地上に這い上がり、夜の山道を徘徊する場面がある。野犬にあいそれに立ち向かい、「すべての存在に対して、私は叫んでいた。私は生きるのだ。お前らの思い通りになってたまるか。言うことを聞くつもりはない。私は自由に、自分に降りかかかる全て障害をた自分の手で叩き潰してしてやるのだ」と作者は主人公に言わせている。つまりいかに暴力を受けようとも生きていこうとする人間の姿を描くことこそ、この作品の主題ではないかと思う。

中村さんも新聞記者のインタビューに「描きたかったのは、戦争などを含めた大きなものに痛めつけられる存在です。暴力に負けずに生き抜く者の祈りこそ、書きたかった」と述べている。中村さんは戦争そのものの暴力性は描いていない。しかし、しかし、主人公が暴走族に暴力を受けた公園に車から降りて過去を回想し、車に戻りエンジンをかけたら「ラジオでは戦争の情報が繰り返し流れていた」という場面が出てくる。この唐突な言葉が気になったがここにも中村さんの意味が込められているのかもしれない。

この作品は「もう少し生活が落ち着いたら、白湯子と小さな旅行をすることになっている。だがその前に、何か決断も、要求することもできなかった、彼女の子供の墓参りをしようと思った。」で終わる。絶望の淵から、一筋の光のように淡い希望が芽生えていることを示唆し、ホットさせる。

中村文則著 土の中の子供 新潮社  2005年7月刊