「子供は善」という幻想(第78経「五支物主経」) | 釈迦牟尼スーパースター ~仏教のつれづれ~

「子供は善」という幻想(第78経「五支物主経」)

前の巻に続いて『原始仏典 中部経典Ⅲ』(春秋社、中村元監修)を
読み始めたので、その備忘録です。


本日は第78経「五支物主経」(最高の修行者たる条件)。

以前、ある宗派の組織内順位が高いお坊さんから話を聞いたとき、
そのお坊さんはこんなふうに言っていた。


生まれたばかりの赤ちゃんは、みんな仏さまなのです。
 赤ちゃんは煩悩も汚れた心もないでしょう?
 おとなになるにつれて様々な欲望にまみれてしまいますが、
 それを一枚一枚脱ぎ捨てればいいのです


私は「あ?」と軽くガンを飛ばしたかもしれない。
それって逆じゃないか?と思ったから。
「子供=清らか」幻想は現代人には耳触りがいいのだけれど、
お釈迦さまはそういう発想を持っていなかったと思う。


修行者の喩えとして、阿含経で見かけるのは
「よくなめされた革のように」「よく調教された象のように」といった表現である。
荒々しく自分勝手で無智な人間を、
理性によってコントロールしていく、というイメージなのだ。
だから上記のお坊さんが言ったことは、ベクトルが逆だと思った。


そんなふうに感じたことがあるので、
第78経「五支物主経」の幼児の喩えが面白かった。


大工の棟梁・パンチャカンガが、遊行者ウッガーハマーナから
このような話を聞く。
善を完成し、最高の善をそなえた、かなう者のいない修行者とは、
4つの特質をそなえている。すなわち、
<身体によって悪い行為を行わず、悪い言葉を語らず、
 悪い思考をいだかず、悪い生活をしない>
」だと。


棟梁・パンチャカンガは、ちょっと疑わしく思ったので、
お釈迦さまのところに行って、この<4つの特質>話をする。

すると、お釈迦さまは、これを否定して、
「もしその4つが大事なら、子供が最高の善ってことに
なっちゃうでしょ。それって変でしょ
」という意味の話をするのだ。


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「棟梁よ、もし遊行者マンディカーの息子である
遊行者ウッガーハマーナのことば通りであれば、
(以下の4つの理由により)仰向けになって寝ている
か弱い幼児は、善を完成し、最高の善をそなえ、
究極に達し、かなう者のいない修行者となってしまうはずです。


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
身体があるという思いすらないからです。
ただ手足を動かすだけなのに、いったいどうして、
ほかに身体によって悪い行為を行うことがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
ことばがあるという思いすらないからです。
ただ泣くだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪いことばを語ることがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
思考があるという思いすらないからです。
ただぐずるだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪い思考をいだくことがあるでしょうか!


棟梁よ、なぜなら仰向けになって寝ているかよわい幼児には
生活があるという思いすらないからです。
ただ母乳を求めるだけなのに、いったいどうして、
ほかに悪い生活をすることがあるでしょうか! 」


『原始仏典 中部経典Ⅲ』第78経「五支物主経」 林寺正俊訳
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つまり、子供は何にもできないから善きものに見えるだけ、という話。
お釈迦さまが子供を美化した痕跡は、お経に出てこない。
息子が生まれたときに「障害(ラーフラ)になるものが生まれた」
と口走っちゃうぐらいの人ですからね。

今なら「命名:ラーフラ」って役所が受理してくれませんね。


仏教と関係なく、世の中全般に、
「子供は無垢で、大人は汚れている」というイメージが流布しているけれども、

これはたぶん近代に生まれた幻想だと思う。
自分の子供時代を思い出せばわかるでしょう。
私は5~6歳のころ、今よりずっと残酷で自分勝手で荒々しくて生きにくかったもの。




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