仏教は「健全な自己愛」を否定しない(斎藤環さんVSスマナサーラ長老)
今日(2010年10月26日)、神保町の三省堂で
『サンガジャパンVoL.3 心と仏教』出版記念イベントとして、
精神科医・斎藤環さんとスマナサーラ長老の対談がありました。
拝聴したのですが、本を読むのとは一味違う発見がありますね~。
斎藤さんは、引きこもりの研究・治療の第一人者。
長老のところにも、引きこもりの子(というか親)から相談が
くることがあるというので、斎藤さんは「どう対応するのか」
という質問をしました。
長老いわく、子供本人と話さないと意味がないということで、
こんなふうに言うんだそうです。
「学校なんて行っても、ほんとつまんないし苦しいばっかりだ。
でも引きこもってても苦しいばっかりだ。
学校に行って苦しむか、引きこもって苦しむか、どっちを選ぶ?」。
一切皆苦の根本でありつつ、プッと吹き出してしまいましたよ。
「あのねえ、人生には赤い絨毯なんか敷いてないんだよ。
どっちにころんでも苦しい、そういうもんなんだよ」と。
全くその通りですね。
長老のトークでしばしば笑いが起こるのは、というか、
仏教そのもののユーモアは、この「身も蓋もなさ」にあるのかも。
治療者としての斎藤さんが納得したかどうかわかりませんがね。
今回、斎藤さんの一番の関心は、「自己愛」のようでした。
「人間にとって健全な自己愛は必須である。
それを仏教は否定しているんではないか?」という点。
『サンガジャパン』への斎藤さんの寄稿もそれが中心になっています。
タイトルは「我執と精神分析 成熟した<自己愛>の獲得に向けて」。
斎藤さんはかつて、ネギシズムの脱会者を調査したことがあるそうです。
ネギシズムでは、入会時に「特講」という自己啓発セミナーみたいなの
をやられると。その目的は「我執からの解放=自己愛の破壊」。
例えば「怒り研鑽」では、まず参加者に「最近腹が立ったこと」を
あげさせます。で、ヤマギシズムの人間は、「なぜそれで腹が立つのか」
という問いかけしか返さない。何度も何度も、それを問われているうちに、
受講者は涙を流して「もう腹が立たなくなりました」と言うそうです。
斎藤さんは、長老の、そしてお釈迦様の「怒らないこと」に、
これと同様のにおいを感じ取ったのだと思います。
で、ヤマギシズムは、このような各種の方法で、
徹底的に「自己愛を破壊」して精神を「サラ地」にする。
その直後は、とても気持ちが良く、変に明るいポジティブな人間になる
そうです。ですが、後に精神を病んだり自殺する人が異常に多いと。
つまり「自己愛の破壊」は人間にとっていかに危険であるか。
このへんの感じは、とてもよくわかります。
私がかつていた会社でも、似たような自己啓発セミナーっぽい研修で
泣いて”生まれ変わる”まで問い詰め、その後1か月ほど妙に明るくなる、
というプログラムがありました。
でね、これに対する長老の答えは、
「仏教は自己愛を認めている」というものです。
たとえば長老がヴィパッサナー瞑想の最初の段階で指導する「慈悲の瞑想」。
最初のことばは「私が幸せでありますように」。
次に「私の親しい人が幸せでありますように」、
次に「私が嫌いな人(私を嫌いな人)が幸せでありますように」、
最後に「生きとし生けるものが幸せでありますように」。
あくまで根本は、「私が幸せでありますように」であり、
それをどんどん拡張していくわけです。
阿含経典を読んでても、お釈迦さまははっきり言ってます。
「自分より大切なものがあるか? ないでしょう?
誰だってそうなのです。
自分が大切ならば、他人を、生きとし生けるものを
大切にしなければいけないのです」と。
精神医学でよく言われる、
「健全な自己愛が育ってはじめて、その反映として他人を大切にできる」
ということと100%同じだと、私には思えます。
長老のこの説明を聞いて、斎藤さんも「納得しました」と言ってました。
斎藤さん、および精神分析学者・コフートの言う
「自己愛の成熟」とまさに同じ話ですよね、と。
仏教は「私という意識」は認めるけれど、
それ(自我)が「実体的で永続的である」というのは絶対否定する。
「健全な自己愛」は認めるけれど、
「自分だけが愛しい、正しい」という「我執」は絶対否定する。
なぜなら、それが苦しみの根源であるから。
このへんの、スレスレの違いについて、理解・実践するのは
かなりの勉強と修練が必要な気がします。
『サンガジャパン』の中で、斎藤さんは書いています。
「生悟り」(わかった気になることというか)は無知よりもタチが悪い、
「私は、はたして仏教の本質を、在家信者を含む一般大衆にどれほど
啓蒙しうるものか、はなはだ疑問に感じている」。
これは私も常々疑問に思うことだし、ある若い僧侶の方も言っていて、
何よりお釈迦さま自身が懸念していたことではないでしょうか。
だから、あっという間に仏教は変容したのではないか。
つまり
「お釈迦さまの本来の教えは、一般大衆ウケしないのではないか」
ということ。
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