「仏教と資本主義」
大学で社会科学系の学部にいると必ず読まされるのが、
マックス・ウェーバーの、
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(1904年)、
通称「プロ倫」です。
私も学生時代に「プロ倫」の授業が激しく眠かったのですが、
働き始めて、この著作のすごさが身にしみてきました。
職業は神に与えられた「天職」であって
(今でも英語では天職をCallingと言いますよね)、
勤勉と倹約と効率化は天国への道であって、
神のための労働でお金を貯めるのは摂理である。
働いてカネを稼ぐという世俗的なことが、
プロテスタンティズムによって倫理的なお墨付きをもらい、
資本主義がこんなに発展した、というのは、
宗教と世俗の結婚といいますか、かなり衝撃的でした。
では仏教はどうだったのか?
というのが、この本の主要なテーマです。
著者は、ヨーロッパでプロテスタントが起こるより800年も前に、
同じ考えを説く仏教者が日本にいた、と言います。
それは奈良時代の行基(668~749年)です。
行基の師匠の道昭は、唐で玄奘の教えを賜り、2つのことを持ち帰ります。
ひとつは、「地獄のイメージ」。
「瑜珈師地論」「倶舎論」を持ち帰り、そこに書かれた
目に見えるような恐ろしい地獄のイメージを伝えたこと。
もうひとつは、中国の灌漑技術・土木技術。
行基は師の土木事業を引き継ぎます。
当時、平城京の建設で、あちこちの農民が駆り出され(往復は自腹)、
途中で行き倒れて餓死する人も多数あったそうです。
そこで、行基は山陽道の要地に、行き倒れた人を泊めて粥を出す
「布施家」をつくります(今でいう派遣村みたいなものか)。
で、生き延びた民衆を使って、土地改良事業(灌漑や道路工事や橋の建設)
を行います。
民衆は、そういう土建屋仕事を「菩薩行=利他行」と信じてよく働き、
その事業に出資した豪族もうるおいます。
逆に言えば、民衆は「働かなければ、あの恐ろしい地獄に落ちる」
という脅迫観念も抱えていたわけです。
そうやって民衆の中で勝手なことをした行基は、
最初、当局(朝廷)からクソミソに言われますが、
その動員力と土木技術を買われて、
東大寺建立をはじめ数多くの寺の建立にかかわり、
公共事業を担うゼネコンのリーダーのような存在になります。
もともとお釈迦さまの僧団は「労働禁止」だったことを思うと、
ずいぶん遠くにきたもんだという気がします
(もちろんお釈迦さまは在家に対して、労働禁止なんて言いませんが)。
ずっと時代が下って、江戸時代初期(プロテスタントが生まれた頃)にも、
労働=菩薩行と考える人たちはいたそうです。
たとえば鈴木正三(しょうさん・旗本から突然、仏道に入った私度僧)は
『万民徳用』という本邦初の職業倫理を説く本を書いたそうです。
いわく「農業は仏行である」「一桑一桑に、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と
唱えながら耕作すれば、必ずや仏果に至るであろう」と。
与えられた仕事が「天職」で、働くことは世のため人のための利他行である、
という労働観は、今の日本にも通じているように感じます。
実際にサラリーマンをやっていると、それは、いい面と悪い面があります。
いい面は、「働く以上は人の役に立ちたい」という、職業倫理がどこかで
私たちの心に根付いているということ。
悪い面は、どんなに無意味な仕事(ときには有害な仕事、
本当は利益のためでしかない仕事)であっても、
「世の中のためになる」と自分を正当化して暴走すること。
それから、「業績が悪いのは人間として修行が足りない」みたいなことを言う
悪徳経営者にうまく利用されて、自分もそう思って、過労死したりすること。
その危険は、この本の著者も最後に指摘しています。
それをうまいこと利用した現代の例は、
『カルト資本主義』(斎藤貴男著)などにも出てきます。
私個人としては、宗教と、職業倫理のような世俗的なことが、
過剰に結託するのは、どうも気持ちが悪い気がしています。
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