皆さんはこんな経験があるだろうか。

信頼し合えるべき関係の人に、ある裏切り行為を見せつけられ、とてつもない屈辱感、裏切られ感を味わった時に、

その関係者にそのことを打ち明けた所、「それはとんでもない!」と同情、理解を示してくれたと思ったら、

間もなく、今度はその人が、同じことで、同じ裏切り行為をするのを目の当たりにさせられる。

その時のショックたるや、とてつもないものである。




まさにダブルパンチ炸裂状態である。



実は今から約13年前に、それを味わされた。

あまりにもその当時のショックが大きかったために、ここで書くのはある範囲内の表現にとどめさせていただきたいのだが、、、

時が来れば、もう少し詳細にそのことも話せる時が来るかもしれないが、場合によっては、もう、きれいさっぱり忘れ去っているかもしれない。

最初は、その当時、勤めていた会社の社長によるある裏切り行為に端を発した。

まあ、簡単に言えば、あるルールを破った、といったらいいだろうか。

しかし、私は当時、単なる一平社員の身であるし、そのことを直接指摘するわけにもいかなかった。しにくい状況があった。

私は、しばらくそのショックから立ち直れなかった。

自分には、そりゃあ人生いろいろあるから、そういうこともあるだろうよ、

そんな気持ちになることだってあるだろうよ、まあ、別にいいんじゃないの、しょうがないよ、みたいに言い聞かせて、落ち着かせたものだった。

それからしばらく過ぎて、私の山梨への転勤が決まった。

私自身、もうその会社に残るかどうかも、とても深刻に悩んでいた時期でもあった。

会社で雇っていた経営コンサルの方が、私の転勤に関し、希望する事業部や地域などを聞いてきたことがあったので、その際に2,3希望を伝えてあったのだが、

決まった結果は、全く、その時の希望に一つも当てはまってなかった。

それどころか、あそこだけは行きたくない、と思っていた所に決まってしまったのだった。

そして、それを機に辞めようと何度も思わされたが、次が明確に決まってない中では安易に辞めることはできなかったし、したくもなかった。

嫌だからやめるということもしたくなかった。

否応なく時は流れていくので、もう異動するしかなくなってしまっていた。

現場での経験を積ませたいという親心、配慮であることも充分わかっていた。

だから、ありがたいと言えばありがたくもあったのだが、複雑な思いであった。

異動直後、赴任先のトップと話をした。

その際、実は、辞めたいとも思っていたことも告げた。

また、上述した社長の裏切り行為に心を痛めていたことも告げた。

するとその方は、同情してくれた。

「それはとんでもない。そんなことは許されない」みたいなことを言ってくださったので、ほとんど人にも言えず、その件では思い悩んだ部分もあったので、私も少し救われる思いにはなった。

ところがどうだろう。

その話をしてから、一ヶ月もしたかしないかの頃、

なんと、その方が今度は、同じことで、裏切り行為を平然としてのけているのを目の当たりにさせられたのであった。

私のショックは、並大抵のものではなかった。

あの時、「それはよくない!」と言いきってくれていた人が、なぜ?どうして?

自分の理解を超え過ぎていたために、とても頭も心も整理が付けられなかった。

ただただショック、ショックのみであった。

人間が信じられなくなりそうになった。

何を信じていいのか、誰を信じていいのか、わからなくもなりそうになった。


もう、その辺りから、完全に、仕事に真面目に一生懸命に取り組む気力さえ湧き起こらなくなってしまっていた。

いつ辞めよう、いつ辞めよう、早く次を見つけなくては、そんな事ばかり考え始めていた。

その赴任先のトップに、自分の気持ちを手紙で深刻に訴えたこともあった。

しかし、返事も、口頭での回答もなく、なしのつぶてだった。

私は、職場でその方の顔を見るのさえも嫌になっていた。

その件を思い出すからだ。これだけ深刻に悩んでいるのに、よくも平気な顔していられるよな、とそういう思いだった。

そして、それからだいぶたってから、ある日、食事をともにする場が持てた。

そして、その時にようやく、そういった話になった。

その方は言った。その私からの手紙の文は、その人にとっては、カチンとくる内容があったために、まともな回答もしなかった、したくなくなったという。

それは、その方自身も、そこの職場にあって、その重責の中で、だいぶ苦労してやってきていた所があり、それを簡単に言われてしまうのは、確かにその通りとは言え、すんなり受け入れ難い内容であったというのである。

しかし、それから、私は、例のその社長絡みの裏切りの件に次ぐ、その方からのダブルパンチの裏切りの件の話を伝えた。

私自身、それを話すのは辛かった。そして、私はやや興奮し、涙目になって話していた。

すると、その方は、顔を赤らめ、うつむいて、じっと黙って、何も言えない、という感じでしばらくいた。

それはそうだ。私には何の落ち度もなかった。

明らかにその人の、輪をかけた、信頼を果てしなく損ねるとてつもない裏切り行為だったのだから。

どれだけ、そのことと、深刻な気持ちを書いて渡した手紙に何ら返事もないことで、

悶々とした日々を何ヶ月も送ったことだろうか、そう思いおこすと、とてつもなくいたたまれなくなった。

しかし、私は、その後、こうも思った。""そうか、この人も、相当苦労してきていたんだな""と。

そして、誰から見ても、わざと従業員に嫌われるような態度や行動を取っているとしか思えないようなこの人が、実は、大真面目に一生懸命やってきていることを知って驚かされたのであった。

私はそこで一つの教訓を得たのだった。

一見どんなに変に思えるような態度を取っている人でも、どんなにおかしなことをしているように見える人でも、周りの誰からも相当嫌われるようなことをしているような人であっても、その本人は、良かれと思ってそのような行動をしているということを強烈に知らされたのであった。

もうこうなると、責めようもないのである。責める気持ちにもならないのである。逆に気の毒に思う気持ちすら湧いてきたのであった。



後々、この方からは、何年か後、私がこの会社を退職し独立した頃に、短くではあるが何か反省の気持ちを綴った手紙を寄こして下さったのを覚えている。



とりわけこの赴任先で味わったことは、他にもあまりにも想像を絶するような事々が多く、まさに地獄の3年間であったのだが、そうであったがゆえに、逆にとてつもなく得られたことも大きかったと今は強く実感している。

この追い討ちをかけられた裏切り行為だが、人生でこれだけのことはもう2度とないだろうと流石に思っていたが、

これと似たようなことを、ひょっとしたら、味わう可能性を今感じていて、自分の思い過ごしであればいいと思ってはいるのだが、それゆえに、今、こんなことも思い出し書いているのでもある。


一度似たことを味わっているだけに、免疫はあるものの、もしそうだとしたら、決して気分の良いものではないが、すごく寂しいものではある。勘違いであることを祈っている。


でも、それらもすべて意味があるはずである。

だから今は甘んじて受け留めていく覚悟でいる。

そういう結果を招いた原因は、勘違いであるにせよ、何であるにせよ、そう思わせてしまった、そう感じさせてしまった自分がいたということで、とらえ、反省していくしかないと思っている。




こういう時、私に非がなければ、次第に、不思議と私に、その分逆にいいことが起こってくるようになっている。

過去において、必ずそうであったから。





人生いろいろあり過ぎて、多少のことでは動じなくなった。







08年夏 掲載記事より




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