自分の人生、波瀾万丈かも?とどこかに書いた。

どんな風に波瀾万丈なのか?

私の場合は、

上がり下がり、落差の大きい波、変化が何度も訪れたということです。

天国から地獄へ、そして、脱出して、また、天国へ、そしてまた時が来て、また急激に地獄へ、そしてまた、脱出して、天国へ、そしてまた、、、

といった具合です。

しかし、そんなことがある度毎に人は強く逞しくなれるのだなと、本当に実感させられます。

意味があって、必然ですべての環境が与えられ、それによって、成長させられて、より大きな喜びや幸せを得られ、

また、より多くの人に力や勇気や希望、喜びを与えていけるのだと痛感しています。

そして、すべての起こること、すべての人に感謝できる自分となってきています。


また、このブログに載せている詩もこういった体験とも相まって生み出されています。


でも誰が一番大変かとかは決して比べられないものだと思っています。

周りから見たらとても些細に思えるようなことでも当人にとっては、死ぬか生きるかのようなことが往々にしてあります。

だから、これらはあくまでも私個人の次元の話ではあります。


しいて苦しさの度合いについて言えば、


1・受けている愛情が急落、落差が大きい時(親友や信頼している人からの裏切りや最愛の人との別れなどで)(そう感じた時)。


2・先に希望が全く見えなくなる(絶望的な最悪の未来しか思い描けない)時(そう感じた時)。


3・肉体的激痛に苦しめられる時。


あたりが結構その度合いが強いかとは感じています。



ちょっと浮かんでくるものを、そこから得られた教訓と一緒に思いつくままに箇条書きに書いてみました。(どん底からの脱出(1)~)、


☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★



どん底からの脱出(1)




~伸び悩み、コンプレックス、けが、方向転換~


小学校時代:少年野球(ソフトボール)で地域でエース、4番、キャプテンを務め結構活躍する

が、しかし、

中学に入ったら:背が伸びずクラスでもかなり低い方になり(その後高校で再び伸びだし普通になる)、目も悪くなりド近眼になり、ボールも見えにくくなり、おまけにけが(野球ひじ)をして、治らず、野球を断念せざるをえないばかりでなく、誰も自分が元野球少年だったと思ってもくれないほどの外見となる。

その後、

それじゃあもてないので、三の路線、お笑い系に方向転換する。



地域(町内)だけでなく、クラスでもなぜか4番だった。クラスではサード、ピッチャーもやった。ショートとかも。一時、記録を付けた時があったが、打率が6割か7割近かった。守備も自信あった。走塁は普通。その後(大人になってから)も、ミートのコツをつかみ、結構機会があると割と打った(大学、職場、他・・・)。

背が伸びなくなった理由は、ボディビルをやったことが大きいと思う。
背が伸びる時期にやってしまった。それは、打撃で飛距離を伸ばしたかったため。毎日、計画的に重いものを持ってメニューに従って、反復しトレーニングをこなした。どんどん筋肉がついていったのは事実だ。

中1の時だったか中3の時だったか忘れたが、前から2番目ぐらいにまで、低くなっていた。野球部でも当時1番低かったと思う。

目は小4で0.2になってしまった。メガネをかけたくなくて、あまりかけないようにしていた。夕方とか暗くなるとボールが見えにくなっていった。

野球ひじになったのは、小学校の頃、家の裏庭でもいつも兄と野球をやって、プロのまねごとで、変化球をたくさん投げていたからだ。手作りのボールで上投げで割と本格的にやっていた。

それで中学の野球部で最初の1か月は球拾いと声だしだけなのだが、ようやくキャッチボールができたと思ったら、遠投がひじに負担となり、その後ずっと接骨院通い、何ヶ月経っても治らず、整形外科でレントゲン取ってもらって、骨端軟化症(野球ひじ)と診断され、野球は骨が成長する間、約1年はだめと言われた。

泣いた。小学校の時も、ひじをけがして、ソフトボールができず泣いたことがあった。

ただ、背が低くなっていて、目が悪くなっていたので、少々自信をなくしてもいた。それで少しほっとする思いもなかったわけでもない。ふんぎりがついた、というのだろうか。

その後、サッカー部に誘われて入った。結局今思えば、野球が大好きだったので、サッカーはそれほど好きになれず、サッカー部に入っていながらもテレビとかでサッカーの試合を見ることもなかった。レギュラーとして試合にも出たが、燃えきれなかったのは事実だ。野球に未練があった。

高校の時、部活をしなかったために、ましてや3年の時は、暗くもなっていたので、中学の時に、サッカー部だったことすら驚かれた。サッカー部の前に野球部に所属していたとはとても言えなかった。

当時、クラスで上位打線を打っていた友人はその後、スポーツでも活躍していった。一人は高校でも野球部でレギュラー、大学でも野球を続け、社会人でもプロを目指し続けていたようだ。

また別な友人は、高校では硬式テニスを始め、県大会で(確か)優勝、大学時代も、名門のテニスクラブで活躍し、インストラクターとかもしていたようだ。

それだけに自分のふがいなさをある時期、すごく感じ、時折、過去を懐かしみ、"どうして俺だけこうなってしまったんだ"と思った。活躍していく友人は自分からどんどん遠ざかっていく感覚を覚えた。

ましてや、兄も中学で野球部で活躍。家で野球で遊んでいる時、自分の方がセンスがいいと自分なりに思っていたので悔しい思いで一杯だった。

"もてたい"そんな思いも例にもれず、強く思っていたので、格好良さやスポーツマンタイプをあきらめ、3の路線に自分のキャラクターも変えていくのだった。

※更に細かな経緯については別ブログに掲載記事あり



教訓

・失うこと、ハンディを抱えることで別な何かをより鍛え上げることができる。

ボールが見えにくい私は、それでもボールを集中して追いかけ続けていた。それが知らないうちにボールへの集中力を養っていたのかもしれない。だから大学以降、コンタクトレンズをつけて、くっきり見えるようになったら、驚くほどミート力が付いていて、たまにあるソフトボールの機会には好打を連発した。


・やはり好きこそものの上手なれである。

・人は見た目、外見で判断されやすいところがあるのは事実だ。だから、自分はなるべく、見た目で判断せずに、中身を探っていくようにしようと思うようになった。


・成長期の変化球の多投を禁じることは、まだその当時なくて、その後、野球ひじが問題になり、多分禁止されたのではないかと思う。ボディビルといい、成長期に無理をして負担をかけると、大事な部分の成長を妨げてしまうことがあるということだ。肉体の管理は難しい所がある。






~続きへ~