昨日の記事では新選組との繋がりまで書く心算でしたが、長くなったのも

有り新選組との関係について触れる所まで行かず、尻切れトンボになっ

て仕舞い申し訳ありませんでした。

ということなので、先に新選組との繋がりを書いてしまいますネ。(苦笑)



冒頭でチョット触れましたが、新選組の最初の目的は、京都の治安維持を

守るため幕府の配下、会津藩のお抱えとして活躍していました。その徳川

幕府の老中首座が備中松山藩主の板倉勝静でした。それ以外にも谷三

兄弟は結成間なしから新選組に在籍していました。それ以外にも多くの人

物が備中松山藩から新選組二参加しています。

元々岡山県自体が新選組や幕末の日本史に関わる人物の多い土地柄

でも有ったのですけどネ。



備中松山藩出身の新選組隊士の一覧は次の通りです。

安藤安右衛門、乙部剛之進、河村八十右衛門、小島造酒之丞、鈴木元

之進、鈴木量平、高田錠之助、竹内元太郎、谷三十郎、谷万太郎、谷周

平、辻七郎左衛門、平木宗助、本武権平、矢部兵吾と16名の多きに達し

ています。(斜字下線の人物は板倉勝静の身辺の世話を担当)



仙台から海路函館に移動の際に、乗船できる人数から、新選組は全員

乗船できるが、他については各藩ごとに人数を制限したため、藩主に同

行するため新選組隊士に成ったケースもあったようですが、何れにしても

備中松山藩関係者が多いのは確かです。この他にも隊士では無くても新

選組と行動を共にした人物もいた可能性も残って居ます。



次に画像で紹介したのは、備中松山藩「御茶屋」(通称「水車)です。6代藩

主・板倉勝職(1803~49)が別邸として建てたものです。隣接して水車が

あった事から「水車」とも呼ばれました。

ここには19世紀前半には山田方谷(1805~77)が住んでいましたが、藩の

元締役を辞職後安政6(1859)年に、現在の伯備線・方谷駅に住居を移して

います。しかし年寄役助勤として藩政に参画することとなり、当時利用されて

いなかったと思われるこの「水車」を城下滞在中の宿舎にしていました。その

年の7月に、後の長岡藩家老の河井継之助が方谷に押し掛け弟子入り(笑)を

したのです。河井継之助日記に「水車に到着」という一文が発見されましたが、

地元では場所の特定が出来にくかったようでした。最初備中松山に着いた継

之助は武家宿・花屋に宿泊し、後に方谷のいる水車に移っています。(継之助

日記に記載があります)ここから方谷の家の現方谷に通ったりしながら、方谷

の弟子の進鴻渓、三島中洲などとの交流もあり、このことも継之助日記「塵壷」

に書き残しています。




「水車」は唯一残されていた建造物を、水車と共に復元整備したものです。


次に昨日の画像の2枚目の「頼久寺庭園」ですが、江戸時代初期、備中国奉

行として赴任した小堀遠州が作庭した名園です。愛宕山を借景とした枯山水

で絶妙な配置の石組や、大海の波を表現するサツキの刈込などが優れた美

的景観を示しており、国の名勝に指定されています。

また、この頼久寺には県内唯一の函館戦争での戦死者の、乙部剛之進の墓

碑があります。


もう少しだけお付き合い下さい。

これまでにも何度か名前の出た板倉勝静(1823~1889)ですが、江戸時

代末期の備中松山藩主で老中首座です。藩政改革を漢学者・山田方谷の登

用によって成功させました。幕末の政治の中枢を担い、将軍徳川家茂、慶喜

のとき老中をつとめていました。1867年大政奉還に立ち会い、戊辰戦争の

時には、北海道函館まで赴きました。明治維新後は日光東照宮から、上野東

照宮宮司をつとめました。


そしてもう1人江戸時代末期から明治時代初期の漢学者が、備中松山藩士で

もある山田方谷(1805~1877)
です。藩主板倉勝静のもとで藩政改革を断

行し、大きな成果をおさめ、勝静が幕府の老中となるとその政治顧問として幕

政にも関与しました。明治維新を境に教育に専心し、世に出ることを拒みまし

たが、その思想、手法人材は次世代の大きな財産として残されました。


また現在は山城自体はかなり認知されたのも有り、秋のお城祭りも城下町フ

ェスタと衣替えしていますが、その城下にも格調高い武家屋敷が残って居ま

す。漆喰壁の格式ただよう旧折井家や旧埴原家は江戸時代中期から後期

に建てられたもので、折井家には当時160石の馬回り役を努めた武士が

住んでいました。

頼久寺庭園と共に高梁市内での時代を感じられる場所に成って居ます。