被災地へ | ありきたりのPeaceをうたえ

被災地へ

17日夕方、祝島のSさん、Y坊さん、K先生、カヤック隊のT君と東京、福島へ出発

目的は福島の現状を見に行くこと、話を聞きに行くこと

ログハウスから、ペットボトルに小分けしたにがり、玄米、自然塩、水、ありったけのマスクなど救援物資を積みこみ、現地の人達に何ができるかを探しながらの約1200Kmのロングロングドライブ

途中、生まれ故郷名古屋を通りすぎる

昨年の春以来の名古屋、8月終わりには歌いに帰ります

横浜あたりで日が昇り、近づくにつれ頭の片隅では放射能への不安がでかくなる、もちろん目には見えない、臭いもない

先に関東に入っていたTJ君と電話で打ち合わせして18日の今日は埼玉県加須市の旧騎西高校に避難してきている双葉町の人達に話を聞きに行くことになった

ちなみに双葉町は福島第一原発5号機、6号機がある町

校舎内に入り受付の人に訪ねると事務局長さんのところへ案内してくれた

一人一人挨拶をすませ、祝島のSさんが山口県上関町で30年近く上関原発に反対してきて、今回の福島第一原発の事故を他人事でないと思いいろいろと話が聞かせていただけたらと伝える

双葉町のパンフレットなどを見せてもらう

そこには人で賑わう海水浴場が写っていた

町の人は東電関連の仕事に携わる人が多く個人所得は高いほうだったと話されていた

双葉町には漁師さんは一人もいなかった

隣町の浪江町に漁師さんがたくさんいて漁船も100隻くらいあったそうだが地震と津波で多くの漁師さんが命を落とし、さらに陸上に打ち上げられた船も放射線による影響で廃棄しなければならず浪江町の漁師さんはもう壊滅状態、漁もできる見込みなしと県が判断、漁港も津波、地震で壊滅したまんま手をつけていないのだそう

現在の心境を訪ねると、あまり多くは語れないが原発の事故が起こるなんて思ってもいなかったし複雑な心境だと首をかしげながら話されていた

その後40代の議員さんと話をした

生まれたときから町に原発があって反対運動も全くなかったし、雇用もあって町も潤っていた、7号機、8号機の新設の話も町にとっては…原発はほんとにありがたいものだと思っていた

その議員さんは原発内に入っての作業もしているそう

未だに完全に崩れ落ちた安全神話がどこかで支配していた、いや、安全神話ではなく町が潤ってきた、個人が潤ってきたそのシステムに支配されていた

原発があった町に生まれ、何の疑いもなくずっと安全で町を潤すものだと信じ続けてきた、もしくは信じこまされてきた人達


故郷に帰って元の暮らしがしたいという気持ちから原発内に入り作業している町の人達も多いとおっしゃっていた

絶対に事故を収束させて故郷に戻ると力強く言っていた

現実を考えたらすごく悲しい気持ちになった

希望を持つことは大切なことだと思うし、勇気づけられている町の人達もたくさんいることだろう

例え故郷に戻れないにしても

最後に子供達の未来に何を残すのか?という話になり多くは語らなかったけどお互いにそこは分かり和えた気がした

自分の希望的観測だけども

外に出ると議員さんの奥さんと小さい男の子がいて挨拶を交わした

小さな男の子が輝いて見えた

子供達の未来に何を残すのか?

福島第一原発20Km圏内である双葉町(ちなみに1~4号機は大熊町にある)

原発で潤っていた町、原発と共に暮らしてきた人達、または暮らさざるおえなかった人達(ちなみに電力会社からは福島県は原発があるから地震はおきないと地元の人は聞かされていたらしい)

正直、複雑な心境だったがこの人達も原子力政策を推し進めてきた国や電力会社の犠牲者だ

子供達の未来に何を残すのか?

議員さん家族に見送られ双葉町の人達が避難している旧騎西高校を後にした