※お断り:タイトルはワーグナーの行進曲名ではありません(笑)。
昨日の皇后杯決勝を思い出すと悔しさがこみ上げてきますが、選手たちはもっと悔しいはずです。それでも涙を出さず気丈にふるまっている姿がなおのこといじらしく見えます。
今日は今日で、予定通りBCL史をアップします。
そして、久しぶりに旧東欧です。東欧の中でも一種独特の道を歩んだアルバニアの放送です。
多分、今年最後のBCL史です。
【背景】
バルカン半島、ギリシャの北でアドリア海を隔ててイタリアと向かい合うアルバニアは古くは神聖ローマ帝国の、そして14世紀以降、長い間オスマンの支配を受けてきました。この間、主な宗教もキリスト教からイスラム教へと変わります。
19世紀後半頃になると独立機運が高まり、1912年にトルコ系のイスマイル・ケマルによって独立が宣言されました。
当初は君主国(公国)だったのですが、1925年に共和国になりました。
第二次世界大戦ではイタリア、ドイツの侵略を受けますが、イタリア同様、非正規軍の「パルチザン」が結成され、1944年、当時のソ連邦の力を借り、社会主義政府を樹立しました。
その後のアルバニアは隣国ユーゴスラビア(当時)と社会主義路線の違いからたもとを分かち、更にソ連邦と中国が対立すると中国の側についてソ連邦とも敵対するようになり、「自主独立」の道を歩みます。1960年代のことです。
そして、アルバニアはエンヴェル・ホッジャ共産党第一書記が独裁体制を固め、孤立化の道を辿ります。
アルバニアの位置
【ラジオ・ティラナ】
アルバニアには首都ティラナから送信する国際放送「ラジオ・ティラナ」がありました。私がこの放送を初めて聴いたのは、上記のようにアルバニアがソ連邦と敵対し、中国と仲良くしていた時代です。
中国では当時「文化大革命」の嵐が吹きすさび、北京放送ではアルバニア共産党第一書記を「エンヴェル・ホッジャ同志」と呼び、蜜月時代を築いていました。中国はアルバニアにとって最大の友好国であり、中国にとってもアルバニアは文化大革命を「理解」してくれる「同志国」だったのです。
最初に聴いたのはアルバニア語放送で、アルバニアの革命歌「Në njërën dorë kazmën në tjetrën pushkën(片手につるはしを片手に銃を持って)」の最初の2小節(ただし弱起)がインターバルシグナルとして(多分)トランペットで奏でられました。
アルバニア国歌
その後、国歌が流れる中で、「Ju flet Tirana.Ju flet Tirana.」とアナウンスされました。
初受信のログ
ニュースや解説、音楽(革命歌)等の番組でしたが、アルバニア語が理解できない私は内容まで把握するに至りませんでした。
それでも、受信報告に対しては葉書で確認書が送られてきました。左下の切手の肖像はイスマイル・ケマルです。
最初の受信証
ラジオ・チラナには英語放送もあり、聴くことは聴いたのですが、比較的安定してよく聞こえたのはむしろロシア語放送でした。送信ビームが東へ向いていたのでしょう。ただ、SINPOコードを見ると、幾分妨害波が入っていたようです。
ロシア語放送ログ(露英ごちゃ混ぜ)
インターバルシグナルに続いて国歌が流されるのは同じですが、「Говорит Тирана.Говорит Тирана.」というアナウンスが結構強烈で、今でも耳から離れません。
ログを振り返ると、ロシア語放送でも他言語放送同様、ニュース、解説等があり、「インターナショナル」で放送を終了していたことがわかります。
受信報告に対して送られてきた受信証は双頭の鷲が描かれた国旗を図案にしていました。
「アルバニア人は鷲(shqiponjë)の子孫」ということで、国章に用いられているのは双頭の鷲です。アルバニアのことをアルバニア語では「Shqipëria~シュキペリア(鷲の国)」と言います。
「双頭の鷲」の旗の受信証
中国の文化大革命が終わると、アルバニアは中国を批判するようになり、孤立化を深めていきました。
そして、まるで鎖国状態のようになりました。現在の日本の隣国の一部と類似しています。
国際社会に少しずつ顔を出すようになってきたのは1990年頃からです。
1991~92年には社会主義政策を放棄しましたが、経済的にも政治的にも安定しているとは言えないようです。ヨーロッパの中ではまだ貧しい国のひとつと言われています。
ラジオ・ティラナの国際放送が現在どうなっているのかはよくわかりません。
次回は来年年明け早い時期を予定しています。
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