名前のない女たち 最終章 | One of 泡沫書評ブログ

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名前のない女たち最終章~セックスと自殺のあいだで (宝島SUGOI文庫)/中村 淳彦

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あなたがもし、「女は食うに困れば、最後に体を売るっていう手がある」などという「前時代的」な考えを持っているとしたら、その考えは早いところ改めた方がいい。電子出版で新聞、雑誌が滅びるとかいう前に、すでにアダルトビデオ業界を始めとする性風俗産業は、ものすごい過当競争と価格破壊によって行きつくところまでいってしまった。氾濫するポルノにただ眉をひそめるようなナイーブな「PTA」の皆さんには想像もつかないだろうが、もはや性風俗産業は明らかに供給過多に陥っており、その「商品」である女性たちの悲惨さは、もはやわたしなどには想像もつかない。それでも、ジャーナリストのようにちゃんと調べたわけではないが、日々氾濫するAVの数と内容(の変化)を見ていれば、現状を「性搾取」などという生易しいことばで語ることはとてもできないだろうとは、断言してもいい。もしかしたら、途上国におけるそれよりも悲惨な光景が広がっているかもしれない。はっきり言って、今のAVの半分は、とても「抜く」気になれないモノであふれているのだ。


本題に入る前に、「企画」と「単体」との違いについて少し書いておく。知っている人は飛ばしてほしい。


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「単体」とは、主演する女優の名前が前面に出る、いわば女優によって売り出す作品だ。それほどAVに詳しくない人がイメージする「AV」というのはほとんどこちらだろう。こういう作品のことを俗に「単体作品」と呼び、それに出演するのが「単体女優」というわけだ。彼女たちは、もちろん一昔前と違ってハードなプレイを要求されるし、どんなに可愛くても、手を抜くことは許されない。手を抜けば、即、人気が落ちて、売れなくなってしまう。過激さは年々エスカレートして、あっという間に消費しつくされてしまう。そんな激しい競争のなか、長年トップに居続けられるのは、本当に一握りのトップアイドルだけだ。そういう意味で、もちろんきつい商売なのは間違いないのだが、少なくとも後述する「企画」よりは恵まれているといえる。


一方で、「透明人間になった僕が~」とか、「泥酔した女性を~」というような、いわゆる企画が先行して女優がキャスティングされるというのが「企画AV」である。こうした作品では、あくまで企画が先行するため、出演する女優の名前はクレジットされないことが多い。もちろん、企画でも、美形だったり、何か特徴をもっていれば名前が売れることもあり、場合によっては「単体」クラスに格上げされるというまれな例もあるのだが、ほとんどの場合は、本当に、最後まで名前が出ることはない。すなわち、文字通り「名前のない女たち」なのである。


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この「名前のない女たち」シリーズは、(元)エロ雑誌ライターである著者が、いわゆる「企画モノ」に出演する女性たちへの取材を通してこの辺りの状況を活写するルポタージュ…だと思うのだが、じつはわたしはこのシリーズをちゃんと読んでいない。本作は同著者による同シリーズ三部作の最後の作品になるわけだが、実は前作の存在を知っていながら、読むのが怖くて敬遠していたのである。


というのも、本のタイトルから中身はある程度想像でき、嫌な気分になるのが目に見えていたからだ。ここに登場する彼女たちが「ブランド物を買うためのお金が欲しくて安易な気持ちで体を売った」みたいなレベルの話ならどれほど考えるのが楽だろうか。「最近の若い連中は体を大事にしない」などと、訳知り顔のオッサンやオバサンの顔を勝手に想像して勝手にムカついてしまう。いや、もちろんわたし自身も、現時点では食うには困らない生活をしており、過去にもこうした悲惨な状況に陥ったことはない。要するに安全圏から評論するという点では同じ穴の狢なのだ。きれいごとを言うつもりはさらさらなく、むしろ企画モノのAVも結構観ているので、むしろ性搾取に「協力」している類だろう。しかし、いやむしろ、だからこそ、こういう世界があることを単純にモラルの問題とかに還元しようとする「PTA」的な人間には腹が立つし、性風俗というものの「価値」が、ここまでインフレを起こして低下しているという事実を知らずに、過去の価値観を持ちだす感性にも頭にくるのだ。もちろん罪悪感から八つ当たりしているという部分も多分にあるのだが、とにかくそういう複雑な感情を、わざわざ本を買ってまで味わおうという気にはなれなかったのだ。


ではなぜ最終作となった本作だけは買ったかというと、本書には「M」というAV女優が登場していたから、である。


AVに詳しい人はご存じのとおり、「M」とは某アイドル系AVレーベルから売り出したが、なかなかパッとせず、その後だんだんとハード路線に転向していったというAV女優のことだ。わたしは彼女の作品を見たことがないのだが、そのうちハード路線で有名な某Dというレーベルの作品で、彼女がその作品の「要求」を満たすことができなかったという「事件」のことは知っている。そしてその後、精神を病んだ彼女が自ら命を絶ったことも。


わたしにとって、彼女の存在はインフレを起こしているAVの象徴のようなものだった。状況からしてとても彼女に欲情する気持ちにはなれないが、それでも(他の)AVは観てしまう。これはもう原罪のようなもので、この年になってもまだ性とかAVとかを考えると罪悪感と諦観のような気持ちにさいなまれることがある。そんな中、平積みになっていた本書をパラパラとめくっていて、彼女の名前を見つけたときに、本書と向き合わなければならないような気がして、つい本書を買ってしまったと、まあそういうわけである。


じつは本書には「企画AV女優」だけではなくて、もっと広範に、性風俗の「底辺」でうごめく女性たちも登場する。といっても、もはやこの辺の境界ははなはだあいまいだから、キャバクラやヘルス、ソープランドといった営業型の風俗と、企画モノのAVはほとんど同義なのかもしれない。両者はほとんど地続きだ。基本的には「春をひさぐ」というスタイルに変わりない、この偏見まみれの仕事しかできない彼女たちには、本当に言いようのない悲哀が漂っている。聞けば多くの女性たちが、まるで判を押したように、生まれたときから壮絶な人生を歩んできたことがわかる。中流家庭に育った人間には想像もできないような、家庭内暴力、近親相姦、レイプ、借金、消費者金融、パチンコ、そして、精神病。


AVを注意して観れば、多くのAV女優の手首にはリストカットの後があることに気づくだろう。ブログをみれば、拒食症や過食症、精神安定剤などの記述はよくみかけるし、精神的に病んでいることがうかがえるエントリもアップされたりするのもみかける。そこまでして、彼女たちはなぜAVに出演するのか。もちろん一義的にはお金のため、であることがほとんどだろう。借金の返済から、生活費を稼ぐまでさまざまだが、どういうわけか、昔聞いた「東北地方での冷害で、農家から売られた娘たち」というような陰鬱さとは違う、もっと現代的な闇がここにはあるような気がする。その証拠に、本書に書かれているように、金や愛では彼女たちを「落籍」させることができない。彼女たちと「普通の社会」の間には、何とも表現しようのない断絶が存在するのだろう。そしてそれは、わたしのように安全圏から性を消費するようなやつらには一生わからないし、もちろん彼女たちを救うことなんてできるわけがない。


ちなみに映画は観てません。