- 日本売春史―遊行女婦からソープランドまで (新潮選書)/小谷野 敦
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労作である。
アマゾンのアフィリエイト検索でひっかかった画像では「オビ」がついていないので、ここに引用すると
【その昔、娼婦は聖なる職業だった―――なんて大ウソ!
幻想ばかりの売春論に喝。新しい日本と「性の歴史」!】
と、こういう本である。
著者は「もてない男」で一世を風靡した小谷野敦氏。本書の成立の動機となったのは、日本における「売春」についての歴史著述があまりにも少ないこと、またその少ない売春史書のほとんどが何かのイデオロギーに毒されたおよそ歴史と呼べないものが多いこと、など、売春を取り巻く我が国の学問研究は非常にお寒い状況にあり、現在の日本においては満足のいく売春通史が得られないことから、自分で書いてしまおうと思ったと『まえがき』で述懐している。
著者は「(本書では)価値判断をしない」と断っているが、実際には、著者がかつて発表した「聖なる『聖』の再検討」という論文で発表した既存の売春論への批判を敷衍し、売春への歴史認識を引用、紹介しつつ、著者がおかしいと思うものには批判を加えるというスタイルで進む。いくつか例を挙げると、「遊女起源論」「聖なる『性』論」というものが歴史家から提示されているが、いずれもナンセンスであり、いずれも近代の歴史家が現代の感覚で飛躍した論理を展開しているだけであると批判を隠さない。
また近世、近代まで筆が進むといよいよイデオロギー論争に踏み込まざるを得なくなる。歴史上の売春と現在の売春は地続きのはずだが、イデオロギーに毒された現在の歴史家、フェミニストから見ると、過去と現在は異なる基準で動いているものらしい。確かに価値観は同一ではないから、その前提は強ち間違っているわけではないだろうが、近代の価値感覚で過去を断罪するのはいかがなものか。著者はこうした視点から、しばしば美化されがちな吉原に代表される江戸時代の遊廓や、岡場所(吉原以外の遊里)などあまり注目されない地方遊里の実態なども調べてくれている。
さらに現代まで来るといよいよソープランド(トルコ風呂)、ファッションヘルス等の記述に入ってくるが、ここまで来ると学者先生たちはほとんどこうした現在の売春の状況にノータッチであることが明らかにされる。歴史を標榜しつつ現在の売春については目をつぶるか、あるいは両者を異なるものとして過去のみを称揚することに本当に怒りを感じているのだろう。最近では東大の大学院生さえ吉原が何をする場所なのか知らないこともあるという。
以上ひととおり我が国における売春の歴史をわずか200ページで追うことができる。付録の参考文献を見れば今からこの分野の研究を始めることも可能だろう。小谷野氏の学問に対する真摯な姿勢がうかがえる。
「ここで紹介した研究所のほとんどが現在入手困難で、人はこれほどまでに歴史の暗部から目を逸らしたがるものか」と著者が嘆くほど、我が国においてこの分野はおよそ学問として成熟したものとは言えないようである。こうした中にあって、本文を読めば明らかであるが、著者は可能な限りの文献にあたり、昨今の研究所を渉猟し読者に情報を伝えてようという気概が感じられる。「私は歴史学者ではないから、自分で新しい史料を発見することはできない」と著者は断っているが、ここまできちんと調べているのだから、歴史書としては十分なレベルであろう。(たとえば作家が書く歴史ノンフィクションはたいていこういうものだ。著者は作家ではないからこうしたことを断っているのだろう) それにしてもよくぞここまでしつこく調べたものだ。本文の最後で著者はこう書いている。
「私の目的は、ここに達成された。というのは、中世の遊女は聖なるものであったと論じる者たちを私は批判したが、彼らの多くは、現代の娼婦について語ろうとしないからだ。近世遊里の「粋の美」や「神婚儀礼の残滓」について語る者たちも同様である。彼らの筆が現代に至ると、(中略)いま現在も存在する吉原ソープ街を見ないことにして(ひどい侮辱だと私は思う)論じるありさまだ。現在わが国に存在する職業としての売春を黙殺して、過去を賛美するような行為は不誠実である。古代から現代までに至るまでの、一貫した日本売春史を記述することによって、そうした論者たちを追い詰めることが、私の目論見だった。」
- もてない男―恋愛論を超えて (ちくま新書)/小谷野 敦
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