産まれてからこの方何かに苦労したことが無い。
あれが欲しいと言えばすぐに手に入ったし、あいつが嫌いと言えばその人はもう二度と見ることが無かった。
ぼくは次期天皇だから、徳子様のひいては平清盛様の血を引かれた天皇なのだからと言われて育ってきた。
気が付いたら帝と呼ばれ、本当の名前も知らない。
それが変わったのが5歳の時、ばば尼ぜ様が
「義仲と言う野蛮人が京へやってまいりました。
あのような者すぐにでも退治してくれましょうが、帝に何かあってはなりません。
一旦西へ物見遊山と参りましょう」
と牛車に乗せた。
でも、おぼろげながらだけれども、ぼくには解っていた。
ぼくが生まれた、六波羅邸や西八条殿に火を放ったとき、もう二度とここには帰ってこないんだな。
ぼくはもう京の地を踏むことは無いんだなって。
ぼくの牛車には三種の神器が積まれ、ばば尼ぜ様、かか様、侍女たちがしくしく泣いていた。
ばば尼ぜ様に頭を撫でられながら、ぼくはそれを不思議な気分で見ていたんだ。
こそこそと誰かが囁く。
「何でも京では新しい帝が即位し、こちらはもう上皇扱いだそうな」
「何が何でも三種の神器を取り戻してくるように、と木曽の義仲なる坂東武者がこちらへ向かっている。
早よう、逃げたほうがよかろうて」
「こんな壇ノ浦にまで追いやられて、生きた心地がせぬ。
今投降すれば、罪は不問と言っているらしいではないか・・・」
6歳のぼくにもわかる口さがない噂が飛び交っているのを、ばば尼ぜ様は必死にぼくに聞かせないようにしている。
かか様は泣いているだけ。
その夜、何かがおかしかった。
毎日焚かれている松明の数が心なしか多い。
煌々と焚かれた松明。飛び交う怒号。ぼくは怯えた。このまま、早く朝になれと願っていた。
夜が明け、辺りを見回せば、船の数は少なく、遠く波打ち際には味方の屍がぷかぷかと浮き、
取り囲むように、敵の馬が海辺にずらりと並んでいる。
「ばば様・・・尼ぜ様よ・・・」
怖くなったぼくは、ばば尼ぜ様を呼ぶ。すると神璽と宝剣を抱いたばば様は、
ぼくに八咫鏡を抱かせてぼくを懐に抱き上げた。
「尼ぜ様・・・吾をどこへ連れて行こうと言うのか?」
ぼくが聞くと、
「この世は辛く厭わしい・・・極楽浄土へ参りましょう。尼ぜがお連れ申します」
「極楽浄土?」
「波のがきらきらしておりますでしょ。波の下にも都がございます、参りましょう」
そう言って、海に飛び込んだ。
苦しい、苦しい・・・息が出来ない・・・ばば尼ぜ様はどこ?
口の中にどんどん水が入ってくる・・・どうしよう・・・助けて、誰か助けて!
と、口の中に空気が入ってくる。なに?解らない、でも・・・ぼくは必至で、その空気を貪る。
ギュッと抱きしめられた、気がした。水の中で、聞こえるわけがないのに、
「もう大丈夫だよ。おいらの所へおいで・・・」
と誰かが言った気がした・・・。