2年前だったか…
9月の地域のお祭りに参加した時の企画作品。
谷崎潤一郎の御一家が熱海に疎開していた時に書き上げた、歌で綴る日記です。
 
災害映像を見つつ
当時の湘碧山房はどんなだったろう、
米軍機が空爆のため頭上を飛んでゆく日々の中、
何を思い、細雪に取り組んでらしただろう、と、
思いながら、
稽古していたことを思い出しました。
 
 
 

 

宮沢賢治作『春と修羅・第一集』「オホーツク挽歌」より「オホーツク挽歌」4月3日録音、編集。

……………
砂に刻まれたその船底の痕と
巨きな横の台木のくぼみ
それはひとつの曲った十字架だ

幾本かの小さな木片で
HELLと書きそれをLOVEとなほし
ひとつの十字架をたてることは
よくたれでもがやる技術なので
とし子がそれをならべたとき
わたくしはつめたくわらった
    
(貝がひときれ砂にうづもれ
    白いそのふちばかり出てゐる)

やうやく乾いたばかりのこまかな砂が
この十字架の刻みのなかをながれ
いまはもうどんどん流れてゐる

海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなにひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
……………

答えの出ない問いを繰り返す旅

オホーツクへの旅

海面は
瑠璃色をした蘭銅鉱(アズライト)と、錆びた緑青の色。

浜辺に咲く朝顔の、黄金色の露の輝きが、
夜通し眠れずにいた私の血走った目をやすませてくれる。
(宮沢賢治作「オホーツク挽歌」より抜粋。)

https://youtube.com/watch?v=zDlt0sJjo_s&feature=share

コロナ恐し!
で、月島の朗読会が中止となり、
その後、録音機の音源(宮沢賢治の詩、童話の朗読)が壊されていた事が発覚し、
なんとも嫌な話ですが、
宮沢賢治朗読に前向きな気持ちが持てなくなって、ここのところ他の作家さんの本だけを色々と読んでいました。

そういえば、児童文学、絵本、小説、色々と読んできていたのを思い出しました。

読書メーター、始めてます。
基本、演目以外の本の感想を置いています。

本は友達
とは、石井桃子さんの言葉だったか。
結構、気に入ってます。

「nekotennperu」

nekotennperu - 読書メーターリンクbookmeter.com

 

 

 

似たような音声表現の作品を最近見かけましたので書いておきます。
改変?とも思ったので。

「銀河鉄道の夜」の原稿、動画について。
同じ原作を使っている場合、
音声表現が一部、似てしまう場合がありますが、
「銀河鉄道の夜」の朗読原稿、動画、音源については、
一切、どこにも提供しておりません。

また、他の演目(樋口一葉十三夜、夢十夜など)についても、動画提供、音源提供は一切しておりません。

代理人に委託もしておりませんので、流れてきても使わないようお願いします。
昭和八年のことですが、当時、「蘆刈」の自筆本を出版してらしたそうです。
別漉きの雁皮紙に、著者の自筆で浄書したものをオフセット印刷したとか。
 
雁皮紙、というのは、野生の雁皮(ジンチョウゲ科の植物) の樹皮から漉いて作る和紙ですが、薄く透けるような紙に印刷していたのでしょうか…、数万枚も刷棄しなくては出来上がらないほど印刷の難しい紙だったようです。
 
著者ご本人が、厳格に、綺麗な墨色が出るまで印刷過程に立ち会って監督されていたそうですが、この本には、細部までこだわり抜いた素晴らしい技術が使われていたそうです。
 
「蘆刈」の、冒頭部分の文章、文体の素晴らしさは言うまでもありませんが、この自筆本はぜひ、どこかで見てみたい、と、思いました。
 
 

 
過去のブログが書き換えられていました。
編集のため、しばらくの間、閉じます。
この日記を書いたのは2018年5月。この時の本番Live朗読の音声ファイルも、録音機の中から無くなっています。本番は1ヶ月後の2018年6月20日でした。
名前をつけていない自主稽古の音声を初めから順番に整理してしまったので、この時期のファイルがどれだけ無くなっていたのか今はわかりませんが、Live音声と使えそうな自主練の音声だけは残しながら全部を聞き直す作業をして、残ったのは、2018年9月20日の谷崎潤一郎「母を恋ふる記」の自主練の音声でした。
 
2018年4月18日の、「イギリス海岸』のLive朗読の音声は残っていたので、目視でしたが、その間の数ヶ月分が切られていると思います。
 

 
録音機に保存してあった詩のLive朗読の音源や、童話のLive朗読の音源が、録音機から無くなっています。
自主練の時の音源から本番Liveまで、数ヶ月にわたってカットされているという悪質な手口です。ショックで声も出ません。
 
以前、楽器を満載した移動用の車を盗まれたバンドがありましたが、それに近いものがあります。
 
3月6日以降から7月本番までの、自主稽古の音源全部をカットして行くということは、こちらの稽古の跡を一切残さないという意図の表れです。
これは、なりすましを作りたいという意図に違いない、と思います。何か気づいたことがあれば教えてください。
こちらの音源は、方言朗読の音源です。足掛け8年ぐらい続けて通った場所でのLive音源です。
 
 

久しぶりに戯曲を読んでいます。

芝居を見に行くようになって、やはり戯曲は面白いな、と。
 
昔、読んでた時よりも、楽に読めるようになったのは、登場人物の体験するドラマや心理的葛藤が、昔よりは理解できるようになったからかもしれません。
 
シェイクスピアなんかは、歴史的背景や登場する人物の人種や職業への理解、また人種による宗教観の違いなどへの知識が演出には不可欠で、ほんの一言の差でドラマが深まってゆくかどうか、が、決まるのだと思うけれど、そこを乗り越えればとても面白く読めるのでしょう。
 
日本の古い戯曲を昔、上演したことがあるのですが、日本人の身体感覚で西洋の戯曲の身体感覚を捉えることができるのかどうか。
 
日本人の身体は地面に平行移動するようにできている、と、昔、聞いた覚えがあります。西洋人は歩き方そのものが違うんだよ、と、その時に教えてもらったように思います。
 
歩き方そのものが違えば、身体感受性は違ってくる? 日本人が内向的なのは、そういう身体の使い方文化の影響からくるもののようにも思います。
 
内向的な身体の使い方のまま西洋の戯曲に取り組むと、なんとなく違うなあ…という感じを受けるのは、やはり身体トレーニングが足りないから、なのでしょうか。名作映画を見るのもひとつの手だな、と、思うようになりました。
 
ユージュアル・サスペクツ! 歩き方が素晴らしかった!
デルトロのあのわけのわからない訛りにも聞き惚れました。(^.^)