第三百五十九話 発掘資料 | ねこバナ。

第三百五十九話 発掘資料

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本資料が発掘されたのは、今から二百二十年も前のことであり、場所はグレイト・シーの西縁にある巨大な都市遺跡トウキョウである。それも大深度シェルターではなく、最終戦争以前の散発的な核ミサイル攻撃で破壊された、郊外の集落跡地の片隅であった。基礎部分しか残らない小さな廃屋の地下に封印された扉があり、その中には驚くべき遺産が眠っていたという。シェルターの設置場所から遠く離れているために、その後の集中的な爆撃から逃れられたことが、この地下室の遺産にとって、そして我々の祖先にとって幸いであったといえよう。
調査団は延焼を免れた紙の記録、劣化した磁気情報ディスク、計算機内に残っていた解析可能な電子情報等には夢中になったが、この小さなノートには大して関心を向けず、厖大な他の資料群の中に永らく埋もれさせてしまった。旧世界の人類が築いた都市遺跡の発掘品で明日の命を繋いでいた当時の状況を鑑みると、それは詮無いことであったかも知れない。だからこそ、今ここでこの記録を明らかにする意味は大いにあろうというものだ。
正直なところ、過去の言語を忠実に解読するのは、遺伝子工学が専門の私にとって楽な作業ではなかった。しかしその困難を支えてくれたのは、亡き妻、そして最愛の友と呼んでいい一体のロボットに捧げる思いである。このノートに日々狂おしい思いで文字を綴った人物と同じく、私も大きな過ちを犯した。ただ私には、好むと好まざるとに関わらず、過ちを悔いる時間が与えられているのである。なればこそ、私は彼に同情を禁じ得ないし、彼の狂気から学び取らねばならない。
地下室で発見された彼の遺体は、彼の愛すべき生き物に寄り添っていたとされる。私は彼の余りに純粋な精神に心打たれると共に、最愛の友に寄り添って生涯を終えることができた彼に、いくばくかの嫉妬をも、抱いたのである。
解読が困難な箇所は音のみの表記に止め、必要に応じて註を付した。不完全な部分も多かろうと思うが、諸氏のご批判とご指摘を賜れば幸いである。

 

新暦三二五年 S・トシオ
 

* * * * *

 

亡き妻サヨ 親愛なるバアル
そしてノートの著者と彼の猫に捧ぐ


* * * * *


二〇××年 四月一日

今日から研究所(1)に勤める。友達はそこは兵役がないからいいなと言う。もっとも僕みたいなひ弱な人間は徴兵検査でD評価だから、よほどのことがない限り兵隊にとられたりしないだろう。


五月十六日

一年先輩のアンジュさんと同じチームになった。彼女は所内きっての才媛だ。しかも美人だけれど、態度がつっけんどんなのが玉に瑕だ。でも僕は彼女の隣の席になったのが嬉しい。アンジュ。フランス語で天使って意味だそうだ。すてきじゃないか。でも皆はアンさんと呼ぶので僕もそう呼ぶことにする。
今日も一日ノックアウトマウスのデータ解析ばかりで嫌になる。第三課(2)では明日からネコを使った遺伝子操作の実験を始めるそうだ。
ニュースでは中東の激しい戦闘ばかり。あと新型インフルエンザと、ここ数年広がっているウィルス疾患のことも気になる。


六月二十日

飲み過ぎて気分が悪い。来月から戦時統制で酒の販売が禁止されて配給になるから、今のうちにたらふく飲むぞと、先輩達に無理矢理連れてゆかれた。


七月五日

第三課からネコのデータ解析の参考資料が送られて来た。アンさんはこんな仕事をするならここに来るんじゃなかったとぶつぶつ文句を言っている。彼女はネコが好きだから、動物実験にネコが使われるのは許せないのだそうだ。そういえば彼女はネコに似たところがあるような気がする。つややかな髪の毛とか、澄んだ瞳とか。


七月六日

研究所の裏で小さなネコをみつけた。第三課で使う検体だろうと思って持ってゆこうとすると、アンさんが呼び止めて僕からネコをふんだくった。呆然とする僕を放っておいて、アンさんは猫を抱いて何処かへ行ってしまった。

 

七月八日
所長名で通達が出た。昨日第三課の実験室からネコが一匹いなくなったらしい。実験動物はすべてナンバリングされており、飼育室と檻の鍵も別々に管理されているので、内部の者が持ち出したに違いないから、その者は直ちに名乗り出るように、またその者を知っている者は所属長に報告するようにとのことだ。また三月以来節電のため停止していた監視システムを起動せざるを得ない、その分の電力は各課のデータ解析システムの使用時間を制限することで捻出するそうだ。一体どうなっているんだ。アンさんのことを密告する気持ちにはなれない。しかし作業がはかどらないのは困りものだ。

 

七月十一日
夏風邪をひいて仕事を休んだ。悪寒がひどい。夜になってアンさんが僕を訪ねて来た。びっくりだ。住所を総務課の名簿から探して来たという。ネコのことを言わないでくれたお礼だと、チョコレートのかかった焼き菓子をくれた。こんなものを見るのは子供の頃以来だ。甘くておいしい。ひ弱な僕にはやはり糖分が必要だ。配給切符にチョコレート菓子があったらいいのに。

 

七月十三日
明日は仕事に行けそうだ。夕方またアンさんが来た。所長は例のネコの捜査を特別警察(3)に依頼するとまで言ったらしい。僕は不安になったけれど、保健省の面子にかけてもそれはしないでしょうとアンさんは楽観的だ。ネコはアンさんの実家で飼っているという。時局柄ペットは白眼視される。特にネコのような役に立たない動物は。見つからない自信があるのだろうか。そういえばアンさんのご両親はどんな人だろう。

 

七月十四日
今朝、ツガル海峡の防空システムが開戦後初めて使用されたそうだ。いよいよ本土決戦か。僕にとってはデータ解析の端末デスクが戦場のようなものだ。出勤したら例の通達が廊下にまで貼り出されていた。学校の壁新聞みたいだ。アンさんは職場では僕にそっけない。また遊びに来てくれないかな。今日は一日、乳牛の遺伝子解析で潰れた。乳量の多い牛のクローンを作るのだそうだ。

 

七月十五日
所長が僕たちの部屋に来て突然怒鳴りだした。例のネコ泥棒がまだ見つからない、一体どうなっているとわめき散らすばかりだ。たかがネコ一匹で何をそんなに怒っているのだろうと思ったら、扉の影に怖そうな男二人が立っているのが見えた。あとで聞いたのだが、あれは特別警察じゃなくて軍務省の諜報部員らしい。アンさんのネコはどうやらとんでもない秘密を持っているらしい。でもアンさんは平然としている。どうしたらそんなに平気でいられるんだろう。

 

七月十八日
所長の顔色がだんだん悪くなって来ている。気の毒だとは思うが、アンさんのことをばらす訳にはいかない。帰り際、アンさんが「家に帰ってから見て」とささやいて、僕のポケットに何かを入れた。言われたとおり家でそれを開いてみると、今夜十時、カクラザカのA神社(4)の境内で待っているとのこと。計画停電で真っ暗な中出かけてみると、アンさんがネコを抱いて待っていた。しばらく預かって欲しいという。おとなしいし、鳴くこともないからバレる心配もないと。何度も断ったがあんなに必死に頼まれてはしょうがない。黒いリュックにネコを入れて家に連れて帰った。なるほど、小さくておとなしいのは本当だ。しかしバリバリとそこら中をひっかくし、クッションの上でおしっこをされるのはかなわない。どうすればいいのか。

 

七月十九日
非番。図書館でネコの飼育法の本を探した。砂を入れた箱をトイレ代わりにするのだそうだ。昔は専用の砂が売っていたそうだが、このご時世ではそんなもの望むべくもない。幸い僕の家には小さな庭があるので、そこで用を足させることにした。逃げてしまわないように首輪に縄をつけた。嫌がるかと思ったが、そうでもない。ただ隣人に見つからないようにするのが大変かもしれない。やり方を色々考えよう。

 

七月二十二日
所長が突然解任された。代わりに軍務省の役人が派遣されてきたらしい。保健省の研究所になぜ軍務省の人間が、と皆口々に文句を言っている。アンさんはレポートのチェック書類の下に、ちいさな手紙をしのばせてきた。ネコのことを随分気に掛けているようだ。元気にしていると返事を書いた。

 

七月二十五日
第三課からの仕事が一気に増えた。動物の身体能力向上に関する遺伝子解析と動物実験に関するデータ評価だ。どうやら動物兵器だなと同僚が噂する。でもゾウとかイヌとかではなく、ネコなのだ。あんな生き物をどうすれば兵器に仕立て上げることが出来るのか。どうも判らない。アンさんは同僚たちの噂を聞いて不機嫌だ。でも僕とのレポート・メール(と呼ぶことにした)は続いている。他愛のない内容だが、僕の数少ない楽しみでもある。

 

七月二十六日
今日、突然第三課への異動を告げられた。解析屋の僕に動物実験は無理ですと言ったが、今後は課内で解析もやるのだという。どうやら動物実験の内容を外に漏らさない工夫のようだ。まだ二ヶ月も経たないのにアンさんと離れてしまうのは厭だが、断れば南方送りだと脅されてはどうしようもない。半日かかって荷物をまとめて、第三課に挨拶しに行った。どいつもこいつも不景気な顔だ。アンさんは机の整理を手伝うと言ってくれ、別れ際にそっと手紙をくれた。帰って読んだら、あすの夜また神社で会いたいという。そして、手紙は必ず処分してほしいとも書いてある。燃やすのも目立つしゴミに出すのも憚られるので、庭に穴を掘って埋めた。そうしたらその上でアンナ(5)がおしっこをした。面白い。

 

七月二十七日
非番。家で過ごす。ひとりで住むには広すぎる家なので、アンナは遊び場に事欠かない様子だ。二階や地下室まで冒険に出かけていく。今日はずっと彼女の冒険に付き合った。ゴキブリやハエに果敢に挑む姿はなかなか面白い。しかし家に来てから全く成長する様子がないのは気になる。このネコはこういう種類なのだろうか。夜になってアンさんに会いに行った。境内のベンチに座って長いこと話をした。アンさんのご両親の話も初めて聞いた。アンさんの瞳がうっすら緑色なのはお母さんの血筋のせいらしい。また会えるかしらと言うから勿論と答えた。でも僕の家にはもう来ないという。監視の目が厳しいからと。アンナが元気なところを見せたいのに。

 

七月二十八日
第三課で初めての仕事。といっても内容は今までとほとんど変わりない。ただ実験室が近いので、時々動物の暴れる音や鳴き声が聞こえるのが辛い。僕みたいな貧弱な神経の人間に、こんな処の仕事が勤まると思っているのだろうか。そして、どうやら動物兵器の噂は本当のようだ。そして、あのネコがいたらもう実験はほぼ完了していたのに、と上司が呟く。あんな小さなネコが兵器だなんて、想像もできない。アンさんは職場では僕を無視することに決めたようだ。淋しいけれど、なにか思うところがあるのだろう。

 

七月三十日
毎日荒んだ雰囲気の部屋で仕事をしていると気が滅入る。今日もデータの抽出を間違えて大目玉を食らった。仕事帰り、省線の乗り場でアンさんと出会ったが、僕を無視してぷいと何処かに行ってしまう。落ち込んで満員の電車に乗り込んだら、知らないうちにアンさんは真後ろにいて、僕のポケットに手紙をしのばせた。今度はB公園の隅っこのベンチが待ち合わせ場所らしい。アンナはまた僕の枕におしっこをした。

 

八月一日
すでに実戦投入されているイヌ部隊の戦果と、遺伝子操作における改善点についての議論あり。うんざりだ。頭痛がするので残業せずに退出、アンさんに会いに例の場所に行く。アンさんから仕事の内容について色々聞かれる。同情してくれる。何でも話せるのはあなただけ、と言ってくれる。今度カルイザワの別荘に来てと言われる。アンナも一緒にと。どうやって連れていけばいいのだろう。一応アンナ輸送のためのメモをもらったが、不安だ。

 

八月三日
動物の急速な発育を促す薬剤が実用化され、動物兵器量産の目処が立ったので、大いに張り切るようにと所長から訓示。この状況で何を張り切れというのか。動物兵器などに頼るようでは戦争には勝てないだろう。さっさと講和となってほしいものだ。来週アンさんの別荘に行くことに決めた。夏休みはたった二日しかもらえない。

 

八月五日
出勤すると、軍務省の諜報部から呼び出しをくらう。住所、氏名、家族構成、学歴から趣味まで聞かれる。妙なものだと思っていたら、研究所内での交友関係を聞かれた。僕は特に親しい友人はいませんと言っておいた。アンさんのことが気がかりだ。

 

八月八日
昨日、アンナを連れてカルイザワへ。アンから言われたとおり、細かい網の袋にアンナを入れてリュックに収めると、本当にそのまま眠ってしまった。面白い子だ。シンカンセン(6)で一時間ちょっと。駅からタクシーで別荘地へ。検問所があるが、これは大使館員などの治外法権を認めているからで、特別警察もここから中には入れない。アンとご両親の名前を告げると、すんなり通してくれた。こぢんまりした別荘のポーチでアンが待っていた。研究所での白衣姿しか知らなかったから、白いワンピースなんか着ているとどきどきした。ご両親はしばらく旅行に出かけているそうだ。アンナが元気そうでアンはうれしそうだ。僕たちは他愛もない話をしながら午後を過ごし、彼女の手料理を食べて、そう、特別な一夜を過ごした。それから(…)(7)。今日から僕はアンさんをアンと呼ぶ。僕たちはどんなことがあっても離れないと誓ったのだから。今日の帰り際、僕とアンナをポーチで見送ってくれた。またきっと近いうちに会えるはず。

 

八月九日
夢のようなカルイザワから帰ってすぐに現実に引き戻される。例の成長促進剤を投与された動物たちの実験を初めて目の当たりにする。筋肉が異常に盛り上がっていて、苦しそうに息をしている。どうやら常にある痛みに苛まれているようで、そのためか攻撃性が強いそうだ。まるで悪魔のようだ。アンナはこんなふうにされるところだったのか。絶対に守り抜いてやる。

 

八月十三日
明日から一週間、クレの実験施設(8)へのデータ輸送を命ぜられた。通信回線はハッキングされるおそれがあるので、メモリーを手荷物で運ぶのだそうだ。やっかいなことだ。そしてアンナの世話はどうしよう。何とかしてアンと連絡をとらなければ。

 

八月十五日
クレに来て二日目。アンナはアンの知り合いの家で預かってもらえることになった。真夜中に警察官や憲兵の監視をかいくぐってアンナを運ぶのは大変だった。監視カメラにかからないルートをアンが指示してくれたから大丈夫だろう。でもアンはなぜそんなことを知っているのだろうか。ここの軍事施設は大きくて迷路のようだ。動物の検体は少ないが、本格的なクローンの実戦投入となればここが「製造」拠点になるのだそうだ。

 

八月十八日
敵のドローン部隊の襲撃を受ける。重火器を搭載できる大きさではないから、施設に大きな被害は出なかったが、警備兵や研究者に死傷者が多く出た。僕は臆病な性格が幸いしたのか、机の下に隠れて無事だった。アンとアンナに会うまで死ねるものか。


八月二十二日
帰着。クレの施設は、施設自体が大きな被害を出さなかったことで軍務省の救済措置から外れてしまった。あんなことで大丈夫なのか(9)。あすはアンナを迎えにゆく。アンの知り合いもきっと大変だろう。アンからの連絡はない。

 

八月二十三日
出勤したら、真っ先に所長に呼び出された。アンとの関係を問い質されたが、しらを切った。するとカルイザワへの旅行のことを追及しだした。それでも判るはずはないと知らんぷりを決め込んだ。苦々しい顔をして所長は憶えていろよと昔のドラマの悪役のような台詞を言った。アンは出勤していないようだ。どうしているだろう。帰り道、尾行されていることに気づく。アンナを迎えに行きたかったがそうもできず、家にまっすぐ帰るしかなかった。もしかするとこの日記も近いうちに処分したほうがいいかもしれない。

 

八月二十五日
今朝も尾行されているのを感じながら出勤。アンはやはり出勤していない。仕事をさっさと切り上げて、省線の満員電車に飛び乗った。これで奴らは尾行できないはず。随分遠回りをしてアンの知り合いの家に近づくと、家の前には憲兵が自動小銃を構えて立っていた。近づくことができない。アンは、アンナは無事だろうか。

 

八月二十八日
今朝、出勤の前に公園で読書をするふりをして、日記を茂みの中に隠した。僕の家もいつ捜索が入るか判らない。これからこうして毎朝日記を隠し、夕方に回収するという方法をとろう。尾行されていないことを確認しての話だ。今日もアンとアンナの行方については何もわからなかった。所長は相変わらず僕を見ると怖い眼でにらむ。

 

八月三十日
何から書いたものか。結論から書いたほうが心の整理がつくかもしれない。アンが捕まった。アンナも一緒だ。昨日アンから手紙が来ていた。というより、郵便受けにメモが入っていた。今日の午後八時、近くの河川敷まで来てほしいと。矢も楯もたまらずそこへ行くと、アンナを網袋に入れて抱きかかえたアンが立っていた。アンは僕にアンナを託して何処かへ行くというが、僕も一緒に行きたかった。聞き分けのない僕に彼女は抱きつき、キスをして、その場を走り去ろうとした。その時サーチライトが僕らを照らし、数機のドローンが僕らを囲んだ。そして銃を構えた憲兵と警察官が、アンとアンナを無理矢理連れていった。僕のようなひ弱な人間では、憲兵たちに敵うはずがない。アンは連行され護送車に乗せられる間際、地面に押さえつけられた僕を一瞬見た。あの悲しそうな顔は忘れられそうにない。
今までのアンとの関係を根掘り葉掘り聞かれたが、僕はアンとはただの知り合いだとしか答えなかった。そしてアンナについても何も知らないと。アンナについては本当のことだからこれ以上答えようがない。深夜近くになってようやく放免されたが、明日軍務省情報局に出頭するよう命ぜられた。僕みたいなひ弱な男は泳がせておいても大丈夫と思ったのだろう。実際そうに違いないが。アンは無事だろうか。

 

九月一日
この日記を茂みに隠すことにしておいてよかった。昨日僕の家に警察の捜索が入った。猫用フードはもう処分済みだったし、動物用の檻も父の仕事の名残ですと言ってとぼけた。捜査員の中に、高校時代の同級生の姿があった。彼も徴兵検査D評価だったとのことで、兵役にはつかず、主に軍務省情報局との連絡役を勤めているのだとか。それとなくアンのことを訊いてみた。彼女は重要参考人として軍務省の監房に入れられたのだとか。アンナの行方については彼は何も知らなかった。
今日は第三課で気の滅入るような仕事。動物兵器の開発に一層弾みがつくと所長はご機嫌だ。そして僕のことなど完全に無視するようになる。別にかまわないが、アンナがそのことに関わっていないかが心配だ。

 

九月十日
日記を書くのは久し振りだ。今日アンナが僕の実験室にやって来た。以前とは全く違った姿で。あのひ弱な小さな姿は微塵もなく、まるでライオンのように逞しい身体になっていた。ただ灰色の美しい毛並みと、左耳の二ヶ所の傷でアンナとすぐにわかったのだ。彼女も僕をすぐ判ってくれて、鼻を僕の指にこすりつけてきた。しばらくここで預かれとしか支持されなかったが、どういうことなのだろう。ともあれ、今日はアンナと一緒にいられてうれしかった。

 

九月十四日
日記のペエスが落ちるのは仕方ないが、出来る限りつけていこうと思う。今のところ、これが僕の生きた証みたいなものだから。最近この戦争はとんでもない結果をもたらすような気がする。
この数日、職場に行くとアンナがいるのでうれしい。実験をする部屋は僕ひとりだし、アンナのほかに動物はいない。ただ、彼女が例の動物兵器の開発と関わっているのだとしたら、心配だ。アンはこのことを、どこまで知っていたのだろう。
帰り際、アンナの頭を撫でてやったら、頭頂部に妙な出っ張りがあるのに気がついた。触っても痛くないらしいが、ガン(10)だったらどうしよう。

 

十月一日
アンの居場所が分かった。ナカツガワという渓谷の町にある隔離施設だそうだ。それを僕に教えたのは所長だ。汚い手だとは思うが、アンのことが心配だからしょうがない。今までのアンとの関係を要点だけかいつまんで話した。そうしたら、アンとの面会許可証をくれた。アンは敵国の外交官の娘だから(11)、猫をかくまうだけで不審者と思われたのだろうか。来週の休みにアンに会いに行く。

 

十月七日
許せない アン ごめんよ 僕は役立たずでどうしようも…(12)

 

十月二十日
アンの形見の髪の毛から、遺伝子情報を抽出することに成功した。何故そんなことをするのか僕にも判らない。昨日、敵国との全面戦争が布告された。(13)

 

十一月二日
アンナが動物兵器として軍務に就くことになった。出征は来週だという。しかしその前に僕にはやっておかねばならないことがある。アンナの頭頂部の出っ張りは拡張モジュールの挿入口と、通信装置を兼ねるものだった。僕はそこに彼女の記憶をすべてそそがねばならない。

 

十一月四日
アンナの拡張モジュールに、アンの遺伝子情報を入れた電子頭脳を埋め込んだ。小さなチップをスロットに差し込むだけで、アンナは痛みも苦しみも感じないようだ。しかし数分後、アンナの様子が変わった。激しく檻を叩き、ここから出せとねだっているようだ。僕がなだめると、アンナは緑色の目で僕をじっと見た。何を訴えようとしているのか、僕はわかる。近いうちに、僕はそれを決行せねばならない。

 

十一月五日
アンナは軍事訓練と称して、大量のドローンが飛ぶ中での拠点確保をやらされた。しかも単独で。軍用スーツを着せられたアンナは美しかった。あらゆる索敵機能をかいくぐって、アンナは標的の排除に成功した。すばらしい働きだ。これを軍務省は期待していたのだろうが、僕のアイデアなしでは、これほどの働きはなし得なかっただろう。
唯一の訓練上の失敗は、標的となった下士官を本当に殺してしまったことだ。拡張モジュールをクールダウンさせた後、アンナはもとのアンナになった。心配はいらない。計画は着実に進行しつつある。

 

十一月六日
アンナの最初の任務が決まった。明日の朝、ホッカイドウ(14)からドローンで敵国へ潜入し、核ミサイル施設への攻撃を行うのだという。今日のアンナは落ち着いている。好物の軍用食料をぺろりと平らげた。口についた肉片をなめる仕草は、アンにそっくりだ。
アン、僕は君の思ったことをやるよ。これで戦争は終わる。

 

十一月八日
身体がもう動かない。でも僕は書かなければ。
アンナはホッカイドウに発つ飛行機を飛び出して、軍の空港を殲滅した。そうして自分の通信機能を使って、RSSに核攻撃開始の合図を送った。
RSSはトウキョウに24時間以内に核攻撃を加えると最後通告をした。US(15)もこれを非難する声明しか出さなかったから、黙認したといっていいだろう。
僕は案の定、アンナに妙なプログラムを仕込んだと疑われ、職場で即刻処刑されるところだった。そこにアンナが突然現れて、奴らを引き裂いた。血まみれになった研究室をあとにして、僕らは必死に逃げた。避難指示のサイレンが鳴る中、僕たちは人混みの中をかいくぐって、やっと家まで辿り着いた。
アンナは僕の膝に頭を乗せて横たわっている。出血がひどいので包帯を巻いたが、助からないかも知れない。僕もあちこち傷だらけで、もう動く気力がない。
アンの望みは、こういうことではなかったのかもしれない。でも僕にはこうするしかなかった。アンを虫けらのように殺した奴らは、核攻撃の熱で焼かれるべきだ。僕だって彼女を守れなかったのだから、同じ罪を受けなければならない。
アンナだけが可哀想で僕は(判読不能)でもアンナがいなければアンの敵は討てなかったでもごめ(判読不能)ごめんよアンナ。アンと僕と君とはいつも一緒だこの後もずっと
(空白数行)
あと一時間で空爆が始まる さっき睡眠剤を飲んだ アンナの息はもう絶えてしまいそうだ 僕ももう動けない けど僕が温めてあげるんだ アン ごめんよアンナ ずっといっしょに

 

 

 


1 研究所とは、トウキョウに存在したとされる、国立遺伝子工学研究機構と思われる。この時代、遺伝子工学の研究所は多くの教育・研究機関にあったが、以後の記述(通勤経路や研究の規模への言及)より、同所であると推測した。
2 研究所内の詳細な組織に関する記述が他にないので、この第三課なる部署が専門としていた業務の内容まではよく判らない。しかし多種に亘る動物の遺伝子操作の大半は第三課で行われていたようであり、著者の属する課(名称不明)はそこで得られたデータを解析し、他分野への応用を検討する部署であったらしい。
3 特別警察とは、内閣府直属の警察組織で、事実上軍務省の管轄下にあったらしい。軍政一体だった当時ならではの組織である。資料が少ないため詳細な活動については判然としないが、断片的な記録によれば、明白な証拠なしに逮捕・拘留すること屡々であったらしい。また「特警に捕まれ、死刑にならぬ。ただし出るときゃ棺桶の中」というブラックジョークが当時広まっていた。S.ホリ『極東の歴史・大戦争以前の繁栄期』より。
4 当時、この地には複雑な宗教体系があり、研究者であっても理解するのは難しいという。神社とは土地の神様を祀る祠のようなものだそうだ。T.ナカザワ『知られざる極東の宗教史』より。
5 この頃彼はネコに「アンナ」と名前を付けたらしい。
6 当時トウキョウから各地へ伸びていた高速鉄道網のことをこう呼んだとのこと。J.W.バーキン『大戦争以前の交通と物流』より。
7 甘いロマンスの記述だが、ここは彼らの名誉のためにも割愛したほうがよいだろう。
8 クレという地名がどの場所を示すか、まだ特定されていない。トウキョウから西に1,000kmほどの距離にあった都市とする説が有力である。
9 このあたりは意味不明だが、「甚大な軍事的被害を受けた施設」にある一定の緊急的予算措置が講じられることになっていたと考えるのが適切か。
10 悪性新生物のこと。戦争末期にあっても、悪性新生物は死因の第一位であったとされる。 T.ロスワイルド『旧世界における悪性新生物との戦い』より。
11 ここでいう敵国とは、グレイト・シー北西辺から西側のESO(欧州安全保障機構)東辺に至るRSSという巨大な連邦国家を指すと思われる。なお、アンという人物の両親は、RSSの外交官だったと、前の記述から推測できる。
12 この後判読不能な文字。というより、激情に任せた書き殴りのようにも見える。
13 この日の記述から、アンという女性は軍あるいは警察当局に処刑されたものと思われる。どのようないきさつだったかは、この日記から知る由もない。なお、この記述以降、日記の主の記述は不確かな、意味不明なものが多くなる。理解しがたい記述も多いが、資料としての価値を損ねることのないよう、原文をそのまま掲載することに努めた。
14 グレイト・シー北西辺の島。このとき本国ではここが対RSSの拠点となっていたらしい。
15 グレイト・シー東に位置していた、RSSと並ぶ当時の巨大国家。

 

 

 

おしまい

 

 

第百五十一〜五十三話「さよならトシオ君」

第二百四十六〜九話「カゲネコ」

もどうぞ

 

 

 

 
久し振りのおはなしが
こんな不景気なおはなしですみません
年末までにもうひとつ、おはなし書きたいと思います
 
いつも読んでくだすって、ありがとうございます

 


 
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