第三百四十六話 ある少女の朝・再 | ねこバナ。

第三百四十六話 ある少女の朝・再

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少女は手の甲で汗をぬぐって、空を見た。
少しばかり霞んだ薄青色の空から、朝の太陽がじりじりと少女の肌を灼く。
今日も暑くなるな。そんな当たり前のことを考えながら、少女はかがんで、小さな畑の真ん中、小ぶりに実った茄子に手を伸ばした。
ひとつもぎ取ると、へたの棘が、少女の指をちくりと刺した。

「あいたっ」

小さく叫んで指をくわえると、

「ぴゃーう」

か細い鳴き声が、茄子の葉陰から聞こえた。

「あれ、こんなところに」
「ぴゃーう」

全身黒づくめの、小さな猫が、鳴きながら少女をじいと見る。
前足の先だけが、まるで靴下を履いたように、白かった。

「あんた、可愛いねえ」
「ぴゃーう」
「でもねえ、あんたの食べるもんはないんよ」
「ぴゃーう」
「ほら、こんなとこにいないで、あっちの涼しいとこに行きんさい」

手で追い払うと、猫はさも残念そうに、のろのろと茂みの中に消えた。
脇に抱えた駕籠に、五つ目の茄子を放りこむと、少女は急いで家へと走った。
疎開のため半年ほど住んでいる小さな家は、絵描きの伯父が郊外に建てた、夏のアトリエだった。

  *   *   *   *   *

「おばさん、茄子取って来たよ」
「ああ、どうもありがとう」

少女が差し出した駕籠を受け取って、床から身体を起こした伯母は、ほう、と息をついた。

「あら、きれいに出来てるじゃないの」
「そうでしょ、そうでしょ」
「キミちゃんはすごいわねえ。あの人にも見せてあげたいわ」

やんわりと照り返す茄子の肌を見る伯母の目が、忙しくまたたいた。

「きっと、何かしら文句を言うに決まってるけどね」
「そうねえ」
「あの人ったらね、絵描きのくせに、畑仕事のほうが上手だったんだから」
「ほんとに、変なおじさん」
「ねえ、うふふ」

病弱な伯母の蒼白い笑顔に、一瞬生じた眉間の皺を、少女は、見ないことにした。

「あの人、帰って来るかしら」

南方で行方不明になった伯父は、東京で音楽を学びたいと言った少女を、故郷の広島から呼び寄せてくれたのだった。
この非常時にと反対する親を、伯父は必死に説得してくれた。
無口で朴訥な伯父の顔が頭に浮かんで、我慢出来ずに少女は叫んだ。

「大丈夫よ、おじさん、きっとすぐ戻ってくるよ」
「そうねえ、そうだといいわねえ」
「そうよ。だからおばさん、心配しないで、身体を休めてちょうだい」
「ありがとう、キミちゃん…」

伯母を床に寝かせ、少女は駕籠を抱えて縁側に出た。
夏の暑さが、白く光る外の景色が、少女にじんわりと沁み込んでいった。
ぎゅうと唇を噛み締めた、その時。

「ぴゃーう」

植え込みの陰からゆっくりと歩いてくる、あの黒い小さな猫を、少女は見つけた。

「あんた、まだおったん」
「ぴゃーう」
「どっから来たんかねえ、ほんまに。やっぱりお腹空いてんの」
「ぴゃーう」
「ゆうても…なあ。何食べるん、あんた」

ふと、少女は、猫が大好きな妹のことを思い出した。

「そういえば、お母ちゃんに内緒で、ようイリコ持って学校行きよったなあ。猫にあげるんじゃ言うて」
「ぴゃーう、ぴゃーう」
「ちょっと待っとって。今持って来るけぇ」

少女は茄子を縁側に放り出したまま、台所からイリコを幾つかつまんで持って来た。
小さな猫は、それに飛びついて、さも美味そうに食べ始めた。

「おいしいの」
「はぐはぐ、にゃむにゃむ」
「ふふっ、おかしいねえ、あんた」

小刻みに頭を動かしながらイリコを食う猫を、少女はじいと見ていた。
ふと少女の頭に、幼い妹の顔が、浮かんだ。
もう三年も会っていない。あの子はどうしているだろう。おさげ髪のよく似合う、甘ったれの妹。
きっと広島の軍需工場で、勤労奉仕にでも出ているに違いない。毎日半べそをかきながら、仕事をしているのじゃなかろうか。

「そうだ」

少女は急いで、自分の文箱から葉書を取り出し、故郷の妹に手紙を書いた。

  *   *   *   *   *

暑い日が続きますがお元気でせうか
私は元気です 伯母様も元気です
此夏は茄子を畑で作つてゐます 大層良く出来ます
送つて上げ度い位ひです
勤労奉仕も国民学校のお手伝ひも頑張つてゐます
御父様御母様の言ひ付を良く守つて過ごしなさい
今日は畑に猫が来ました 白い靴下を履たやうな黒い猫です
イリコをあげたら食べました 他には何を食べるのでせう
学校は何うですか お手紙下さい
御元気で  キミコ
サトコ 様

  *   *   *   *   *

「できた」

少女が顔をあげ、満足げな笑みを浮かべたとき、ごうと家の中に風が吹き込んだ。
葉書がはらはらと風に乗り、縁側の外へと飛んで行った。

「あっ、待って」

突然風はぴたりと止んで、

「ぴゃーう」

葉書は、じりじりと朝の太陽が照りつける、庭の真ん中に、落ちた。

「ぴゃーーーーう」

猫が高く鳴いた。

「ぴゃーーーーあう」

少女は立ちつくしたまま、西の空を見た。
霞んだ東京の空の向こうは、暑く、白く、輝いていた。

「ぴゃーーーーーーあう」

猫の鳴き声が、少女の鼓膜を、強く、強く揺さぶった。



一九四五(昭和二十)年八月六日、午前八時十五分の出来事である。



おしまい








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