第二百三十二話 黒猫の居る部屋 | ねこバナ。

第二百三十二話 黒猫の居る部屋

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青い畳の上には、黒猫が居たのだ。
青緑の草ッ原の真ん中に、墨の一滴をひと垂しでもしたやうに、ぽつねんと居たのだ。
僕は暫し其光景を、呆然と眺めて居た。

「どうぞ、お座り下さいな」

僕は原稿を貰ひに来た丈けなのだ。
それがこんな奥の間に通されて、開け放たれた部屋の向ふに、黒い猫を見せられるなど想像もしなかつた。
だから、奥方(だと僕は思つてゐた)の勧めの声も、耳には直ぐに届かなかつた。
慌てて僕は座布団を押し遣つてその場に座したが、奥方はズイと座布団を勧める。仕方無く、まるで仏壇の鈴にでも成つた気分で、僕はその分厚い座布団に座つた。

「良い猫でせう」

奥方は涼しげな声で云ふ。僕はハアと間抜けな返事をした。奥方はそれを聞いて可笑しさうに笑ふ。

「だッて、貴方はずッとあの猫を見て居るぢやありませんか。屹度魅入られてゐるのでせう」

猫に魅入られるとは何処か謎めいてゐる。抑も僕は猫を見に来たのでは無い。社から原稿を頂きに参つたのだと奥方に告げると、奥方はマア、と高い声を上げた。

「旦那様は暫くお帰りにはなりませんの。ひと月前に旅に出て了はれたのですわ。行先は私にも判りません」

そんな話は初耳だ。僕は慌てて主人の戻る日を訪ねたのだが、何時戻るかは判らぬと云ふ。

「マアそれよりも、ごゆつくりなさいましな。今お茶を淹れて参ります」

奥方はさう云つて去つた。僕はホウと溜息をつき、顔を上げると。
黒猫が此方をジイと見て居た。青い畳の真ん中で。
長い尻尾がユラりと揺れてゐる。
金色の眼の奥に、縁側から差込む光が弾けた。
僕は又しても、猫の姿に見入つて了つたのだ。

じわりと青畳に黒猫が滲む。
じわり、じわりと黒猫の輪郭が溶けてゆく。
僕の脳内は、黒い滲みで満たされやうとしてゐたのだ。
心地良い。この心地良さは何だらう。
僕は。

「サアお茶をどうぞ」

我にかへつた時、僕は腰を浮かし掛けてゐた。

「何うかなさゐましたか」

奥方は首を傾げて僕を見る。僕は只首を振つて、微温い茶をズゞと啜つた。

「若しご迷惑でなければ、明日も又いらッしやいな」

旦那様が戻つて来るやもしれませぬ、と、奥方はニコリと笑つて云ふ。
僕は矢張、ハアと間抜けな返事をする外無かつた。

  *   *   *   *   *

橙色の光の中に、黒猫は居たのだ。
オレンヂを溶かしたペンキで塗つたやうな部屋の真ん中に、夕陽が焼焦げを作つたかのやうに、黒猫は居たのだ。
僕は又、呆然と立ち竦んで、其光景を眺めて居た。

奥方は又僕に座布団を勧める。僕は今度は何の躊躇ひも無く其処に座した。
僕が座した正面には、猫が居る。開け放たれた襖の丁度真ん中に、黒猫が居る。
奥方は、主人は今日も帰らないと云ふ。さうして又微温い茶を僕に差出す。
僕は其言葉をボンヤリと聞いてゐた。イヤ聞こへてゐたか何うか疑はしい。
其れよりも、其んな事よりも僕は、眼を奪はれてゐたのだから。

夕陽が色を濃くしてゆく。
猫はピタリと影絵のやうに動かない。その輪郭がジジジジジと焦げる。
アアあれは猫の影だ。影は焦げと成つてズイと伸びて行き、部屋を斜めに切取つた。
さうして、部屋をジジジジジジと焦がしてゆく。音がする。
焦げは部屋いつぱいに広がつて、僕の鼓膜を揺らした。
ジジジジジジジジジ

「お茶は如何です」

奥方の言葉を聞いた時、僕は四つン這ひに成つてゐた。
姿勢を低くして、何かを狙つてゐたのだ。
僕は一体何うしたのだらう。
震える手を見つめて息を荒げてゐると、奥方が云つた。

「お疲れなのでせうね。明日又おいでなさゐまし」

奥方の眼の奥で、夕陽が弾けた。

  *   *   *   *   *

青白い光の中に、黒猫は居たのだ。
童謡にある砂漠の如く青く輝く部屋の真ん中に、深海の底に揺れる海草のやうに、黒猫は居たのだ。
僕は最早、崩れ落ちるやうに座布団に座り込んだ。

奥方はすいと消えて了つた。
僕の目の前には。八畳程の部屋。其の真ん中には黒猫。
只其れ丈けなのだ。なのに。
僕はその猫の姿に、ギユウと掴まれてゐるのだ。これ以上無く強い力で。

猫の輪郭が月明かりに揺らめく。
長い尻尾と長い影が重なる。
金色の眼が、銀色の月光を反射した。

ずんずん猫が近付いて来る。
イヤ違ふ。近付いてゐるのは僕の方だ。
僕は四つン這ひに成つて猫の側へと近付いて。
鼻面を、擦り付けた。
湿つた感触が鼻をくすぐる。さうしてズルリと頬を撫でる。
黒猫は僕のまはりをユラリと揺れる。僕も猫のまはりをユルリと巡る。

「なあお」
「まあお」

月明かりは益々黒猫を滲ませる。
滲んだ其の姿は畳に溶けて行く。
僕は滲みに顔を擦り付け。

「まあおおおおおおうう」

黒く青く沈む猫のなかへと、溶けて行つたのだ。

  *   *   *   *   *

僕は部屋の真ん中に座つて居たのだ。
青白い畳の部屋の真ん中で。
涼しい風が、するりと吹き抜けて行つた。

「どうぞ此方へ」

奥方の声がして、襖が開いた。
僕の正面には、一人の若い男が居た。
僕を凝視して居る。

「お茶を淹れますね」

奥方は去つて行つたが。
男は僕をジイと見てゐる。
僕に、魅入られてゐる。

僕は長い黒い尻尾をユラリと動かして。
彼を、誘ったのだ。



おしまい





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