知っているようで知らない菅原道真公の謎(その2・国史篇) | にゃにゃ匹家族

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昌泰4年(901年)、宇多上皇をそそのかして娘婿の斉世親王(ときよしんのう)を皇位につけようと謀ってとして大宰府に左遷(実質的な流罪)された菅原道真。(昌泰の変)

その半年後に、太宰府に立ち寄った醍醐天皇の側近・藤原清貫に、道真はこう語ったといいます。
「みずから企てたことではないが、宇多上皇やその取巻きの源善(みなもとのよし)の意向を知っていながら、それを否定することができなかった。」
道真は、あくまでも無実を主張するものの、すっかりあきらめきった様子だったといいます。

「昌泰の変」の前年、前々年と、道真は、幾度となく、右大臣を辞任したい旨、また職封(報酬)を減じてほしい旨を願い出ていますが、いずれも聞きいれられませんでした。
それは、宇多上皇が斉世親王を皇太弟に立てようとしているという風説が、巷でささやかれ始めたころだったのでしょうか。
道真は、地位や権力を手放して、政治的野心など一切持たぬことを示したかったのかもしれません。

しかし、不穏な空気に追い込まれるように、道真は、「昌泰の変」の一番の首謀者とされ、太宰府に流されてしまいます。
道真当人のみならず、4人の息子たちも、土佐、駿河、飛騨などばらばらに配流され、当初は、私塾「菅家廊下」の門人たちも、処分の対象となっていました。(門人たちの大量処分は、政務に支障がでるとのことで、のちに撤回される。)

源善ら宇多上皇の取巻きの公家たちは、「謀反教唆(むほんきょうさ)」の罪名で「出雲権守」などに左遷となり、斉世親王も時をおかずに出家します。

こうして、「昌泰の変」という政変劇は終結し、改元されて「延喜」の世となります。

それにしても、菅家一門に対する処分が重すぎないでしょうか?
左大臣藤原時平は、皇位争い、権力抗争に見せかけて、実は菅家一門の排斥が目的だったのではないかとさえ思われる処分の内容です。


なぜ、藤原時平は、ここまで道真一門を排斥しなければならなかったのか?
その後の時平の動きにそのヒントが見えるかもしれません。

1.手柄を独り占め?

「昌泰の変」の後、宇多上皇はすっかり権威を失います。
宇多上皇は、道真左遷の報を聞いた時、内裏に駆け付け、醍醐天皇に道真の冤罪を晴らそうとしますが、門前で兵たちに押し止められます。
上皇は陽が落ちるまで門前で座り込むものの、ついにわが子の醍醐天皇に会うことはかないませんでした。
上皇の権威失墜は覆うべくもない有様でした。


一方、空席となった右大臣や大学頭(だいがくのかみ・道真の長男、菅原高視が務めていた)などの主要ポストには、当然のことながら「醍醐天皇―藤原時平」派の人間が座りました。
そして、のちに「延喜の改革」と呼ばれる、政治改革が進められていきます。

「荘園整理令」による土地私有化の制限、土地単位の課税への転換、私有民の禁止などが、時平時代に、官符として発令されています。
しかし、これらは、前回も書いたように、すでに道真らが進めていた改革の路線を継承したものです。

道真時代の太政官符などの法令文書はすべて廃棄され残っていないのですが、地方に残る古文書や帳簿によって、道真の時代にこれらの改革がすでに行われていたことが明らかになっています。

時の右大臣・道真の実務能力の高さや豊富な経験は、藤原家の中でも抜きんでて優秀であったとされる時平でも、当然比ぶべくもありませんでした。
しかし、藤原家総帥・左大臣藤原時平にとっては、改革完成者としての栄誉・手柄はなんとしても自らのものにしなくてはならなかった。
そこで、時平は、道真一門を排斥し、道真時代の法令文書をすべて廃棄して、改革の手柄の独り占めを狙ったと考えられます。

道真讒訴の本当の目的は、はたしてこれだったのでしょうか?

2.勝者のための国史編纂?

時平は、さらに、道真が編纂に携わっていた「日本三代実録」の編者から、道真の名を消しています。
「日本三代実録」とは、「日本書記」「続日本紀」「日本後紀」・・と続く一連の官選国史「六国史(りっこくし)」の6番目最後の歴史書です。

720年に完成した「日本書紀」は、乙巳の変(いっしのへん・中臣鎌足(藤原氏の祖)が蘇我氏を滅ぼした政変)の折に焼失したとされる「天皇紀」「国記」に代わるものとして、日本の正史として新たに編纂されました。
そして、その後、歴代天皇の御代について書き継がれてきたのが「六国史」です。

「日本書記」では、藤原不比等が、「続日本紀」、「日本後紀」では、それぞれ藤原継縄、藤原緒嗣がと、「六国史」すべてにおいて、藤原氏が編集にかかわっていました。
最後の「三代実録」でも、時平が最終的な監修を行ったと思われます。

歴史は勝者の側に立って記述されるのが世の常であります。
藤原氏監修のもとでの「六国史」が、藤原氏の不都合な部分を糊塗、改ざんされて書かれていることは想像に難くありません。

「三代実録」においても、清和帝、陽成帝、光孝帝の時代におこった藤原氏の他氏排斥事件(承和の変や応天門の変)についてどう記すか、時平と道真とのあいだで、認識・意見の相違があり、それが対立点となったことは、当然考えられます。

また、892年には、道真編纂による「類聚国史(るいじゅこくし)」が完成しています。
これは、出来事を時系列に記している「六国史」の内容を、18の分類(神祇・帝王・人・歳時・音楽等々の18項目)ごとにまとめ、年代順に収めた歴史書で、205巻にのぼる膨大なものです。(現存は62巻のみ)
現代でいえば、百科事典のようなものでしょうか?


道真は、「菅家廊下」の門人たちを動員し、心血を注いで完成させたと思われます。
そして、その編纂過程において、道真は、「日本書紀」の大きな嘘に気づいたのではないでしょうか。

それは、藤原氏が手を汚してきた権謀術数の数々にもまして、そもそもの藤原氏の出自や氏族としての正当性にかかわることだったかもしれません。
あるいは、日本書記の中で神話としてごまかされている神武天皇以前の建国の歴史の新たな側面だったかもしれません。

いずれにしても藤原氏の存立基盤を揺るがすような内容だったからこそ、時平は菅原一族をばらばらにして、菅原家に残る“証拠”を抹殺しなければならなかった。 

権力者藤原時平が、右大臣でありながら当時は政治的には孤立を深めつつあった道真を、あえて排斥しなくてはいけなかった本当の理由と何か?

それは、道真一門が、その歴史研究の過程において、藤原氏にとっての「不都合な真実」の証拠をつかみ、時平がその抹殺を図らねばならなかったということではなかったでしょうか。



正直な学者であり、また古代の出雲氏族を祖に持つ菅原道真にとって、日本の正史が歪められていることは、まさに断腸の思いだったのではないでしょうか。

道真は、配流先の大宰府でその「歴史のうそ」について周囲に話していたかもしれません。

というのも―

太宰府天満宮をはじめ各地の天神社・天満宮では、道真の命日の2月25日(現在の1月25日)「うそかえ祭り」という一風変わった神事が、千年以上たった現在でも続けられています。

「替えましょう~替えましょう~嘘をまことに替えましょう~」

といいながら、参拝者は踊りながら見知らぬ者どうしで、鷽鳥守り(うそどりまもり)や木彫りの鷽鳥をどんどん交換していくという変わったものです。



歴史のうそを告発しようとして左遷された菅原道真公。

その道真公の命日に、
「嘘をまことにかえましょう」
とみんなで声をあげるのは、一番にお慰めする方法かもしれませんね。