まっすぐ正面を見据える茶トラ猫の目の奥に、強さと利発さを垣間見ることができる。

 

 ボブと名付けられたその猫は、飼い主の著者と外へ働きに行く。時には主の肩に乗り、あるいはバスの窓際の席で流れゆく景色を見て楽しんでいる。つい自分の猫と比べてしまう。我が家の猫と言えば、肩に乗せるだけで怖がり、下ろした後もしばらくはふがふがと文句をたれる。ひと口に猫と言っても、だいぶ違うものだ。

 

 本書はボブとの生活もさることながら、著者自身の自分史でもある。複雑な家庭環境で育った幼少時代から、過酷な貧困生活を経てボブとの人生を共にした自分史であり、ボブへの感謝と愛情表現の場でもある。

 

 ミュージシャンを目指してオーストラリアからロンドンへ渡るもろくな稼ぎはなく、ホームレスとなった果てのヘロイン中毒。薬物依存症更生プログラムを受ける合間に、なんとかアパート生活を開始したところで、怪我をした茶トラ猫と出会う。

 

 当時の過酷な日々を支えたのは、まさにボブの存在だ。著者の孤独と貧困ばかりが綴られていたならば、それがサクセスストーリーであったとしても、成功に到達する前に、私は読み続けられなかったと思う。最後まで、それも夢中になって読むことができたのは、ボブの魅力と、二人の間にある優しさと信頼を垣間見ることができたからだ。

 

 更生プログラムも順調に進み、著者は長いこと会っていなかった母親を訪ねて6週間オーストラリアへ旅立つ。その間、ボブは友人のベルに預けられる。母親と過ごす時間により身も心も健康を取り戻す一方で、著者はボブを恋しく思う。ボブの方はどうだろう? 猫は食事とトイレさえちゃんとしていれば、一人でも大丈夫と思われる人もいるようだが、あながちそうとも言えない。

 

 ぼくがベルの部屋に入ったとたん、ボブは尻尾をピンと立て、ソファから飛びおりてぼくのほうに走ってきた。それからしばらくのあいだ、おみやげのカンガルーのぬいぐるみをガリガリとひっかいて遊んだ。その夜家路につくと、ボブはすぐに僕の腕によじのぼり、いつものようにぼくの肩の上におさまった。身も心もリフレッシュした地球の裏側への旅も、一瞬にして過去の出来事になった。もう一度ふたりで世界に立ち向かわなければならない。もう二度とボブをひとりにはしない。ぼくはそう思っていた。

 

 10年以上も前のある休日の昼下がり、当時私は3匹の猫と暮らしていた。仕事は朝早くから夜遅くまで、休みはままならず不在がちだったから、待ちに待った休日だった。晴れ渡る日曜日、ひと通り家の中の掃除を終え、ソファに横になる。輝く水色の空が、リビングの窓を通して見えた。うとうとし始めたころ、キジトラ女子が私の腹の上に乗り、うたた寝を始めた。ふと見ると、すぐそばの座卓の下で、白黒男子と三毛猫女子も共にまどろんでいる。あぁ私たち、家族なんだ。猫との生活は、癒しと幸福に包まれている。