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                                    HATTENDO管理人 厳さん
 静岡に引っ越してきて最初の月曜日の朝。
 祐介は可燃ごみを捨てるためにごみ捨て場へとやってきた。
 しかしそこには――

「ちょっとアンタ! ごみ捨て時間は七時五十分からよ!」
 青空の下に響き渡るババアの怒号。見た目は六十歳くらいか。
 この手のババアは相手にすると面倒だ。それに早くしないと学校に遅刻してしまう。
 そんなわけで、ここはさっさとごみを出して立ち去ろうと、
「今日は見逃してください」
 祐介がごみ袋をポイと放り投げた時だ。ババアがくるっと体を回転させると、そのまま胴回し蹴りでごみ袋を蹴り落としたではないか。衝撃でごみ袋が裂けて、中身があたりに散らばる。お前はキャプ翼の若島津くんか! と思った。
「なっ! なにしてんスか!」
「ルール違反したアンタが悪いのよ」
 あくまでも自分は悪くない、悪いのは祐介だと言いたいらしい。そんなババアの怒った顔がとにかく怖い。般若のお面を被ったような、いや般若の生まれ変わりと言っても差し支えない。
 そんなことよりごみが散らかったままでは、ご近所迷惑になってしまう。
「拾えよ」
「フンッ。自分で拾いな、クソガキ!」
「拾えって言ってんだろ、このクソババア!」
 ふたりの間には火花が散っていた。
 祐介は考える――絶対に負けられない戦いがここにはある、と。
 そんなふたりのことなどお構いなしにカラスがとことこ歩いてきて、生ごみを啄ばむ。
 しばらくにらみ合っていた両者だが、ふとババアの方から、
「そもそも今日は燃えるごみを出す日じゃないでしょ」
 という発言に祐介はギョッとした。そんなはずはない。先週市役所に行って確認したのだ。燃えるごみの収集日は月曜と木曜だと。
「そんな訳あるか!」
 ババアの後ろにある、ごみ収集日を記載した看板をみる。確かにそこには燃えるごみの収集日は毎週月・木と書かれているが。
「ほらそこ! 後ろの看板にも月曜と木曜って書いてるだろ!」
「アンタ、ここらへんの人間じゃないね? これを見な」
 そう言ってババアが手渡してきたのは『2009年ごみ収集予定表』なる紙切れ。そこには確かに火・金と書かれている。
「わかったらさっさとごみを拾って帰りな! クソガキ」
 祐介の脳には敗北の二文字が浮かんだ。悔しくて涙が出てくる。
 そんな祐介の背後から、ご近所の主婦がごみ袋を持って現れた。澄まし顔でごみを出す主婦に、
「ちょっとアンタ! 燃えるごみは明日なんだよ!」
 早速ババアがつっかかる。
 嗚呼、また一人ババアの生贄が……祐介が主婦を哀れんでいると、
「なに言ってるの、お婆ちゃん。燃えるごみは今日ですよ?」
 と言うではないか。主婦とババアは知り合いらしい。
「なに言ってんだい! これを見な!」
 ババアが祐介から紙切れを取り上げて、主婦の目の前に突きつける。
「これでも違うって言うのかい!」
「あらやだ、これ隣の市のごみ収集場ですよ? またお婆ちゃん、忘れたのね」
 紙切れの左上を指し示しながら、主婦がババアに突き返す。
「やだわぁ、お婆ちゃん。痴呆が進んでるんじゃないの? とにかく帰りますよ。こっちにいらっしゃい」
 主婦は祐介に一瞥すると、ババアの手を引いてごみ収集所を去っていった。


 費やした時間と労力――祐介の心は不完全燃焼だった。
来年の電撃文庫公募予定作。完成。

半年間エージング。推敲を何度も重ねて暖めておきます。エージングしすぎて出し忘れたりして…。

プロローグの冒頭



 西暦二一二八年。
 日中平和友好条約の批准から一五○周年にあたるこの年、日本と中国による新たな条約――日中友好交流条約――が締結する。『日中両国民による両国間の往来および移住に規制を設けない』この条約が後に、新たな火種を生むこととなる。



アバウトなあらすじ

 150周年にあたる2128年、親日派の洲国家主席の誕生に合わせて、日中間に新たな条約が締結された。これによりビザなし渡航や移住を無制限に許可できることになった。その条約が施行されて、日本への渡航者たちを乗せた第一号が到着。歓迎ムードも束の間、数年後には日本国内で中国人による事件が多発。日中間は再び対立へと向かう。
 実は渡航者の中に、中国の野党側が送り込んだスパイがいた。彼らの目的は日中を対立へと導き、国民感情をバックに政権を盗ろうと目論む。 スパイたちは日本国内の地下に潜伏し、衛星兵器の誘導装置の開発をしていた。照準は首都・東京。

 主人公は日中のハーフ。若干18歳にして警視庁 公安部 外事課 第3課に所属。テロに備えて銃の所持を認められている。
 愛銃はシャンティ(ヒンドゥー語で”平和”)と呼ばれるスタームルガーの改変版。銃のボディはすべて特殊プラスチックで賄われて軽量。対熱、対薬品、対圧、対摩擦、対衝撃に優れたハイパーエンジニアリングフィルムを採用。何重にもプラスチック偏光板を重ねることで光の散乱を抑える。あたかも視界から消えるようになっている。



疲れたからここまで。
 
当作品は2009年2月ライトノベル作法研究所にて公開されたものです。



 もう道化を演じるのはいやッ!
 わたしだってオシャレしたいし、彼氏だってほしい。けど、家柄がそれを許してくれない。
 パパは地元でも有名な国会議員なの。一人娘のわたしにかかるプレッシャーは大きい。高校では常に成績トップを守らなきゃいけない。毎日のように塾に通い、家に帰ったとしても家庭教師が待っている。
 パパはわたしに反抗することを許さない。以前わたしが「あたし」と言っただけでぶたれた。そんな娘に育てた覚えはないって。パパの言うことにはすべて従わないとまたぶたれる。
 わたしの人生くらい、わたし自身で決めたい。こんな風に考え始めた矢先の出来事だった――



***



 わたしは携帯電話を取り出した。デジタル時計は二十一時を示している。
 すっかり帰りが遅くなっちゃったなぁ。高三と浪人が私大の大学受験の時期で、なぜかわたし達高二クラスも受験対策講座を受けさせられた。
 夜空には美しい円を描いた満月が浮かんでいた。月はわたしの疲労を労うように優しく照らしてくれる。
 わたしは心身ともに疲れていた。普段なら何とも感じないカバンも、この日は鉄を持っている感じがする。
「もうやだ。こんな生活……」
 愚痴は幸せを遠ざけるっておばあちゃんから聞かされていた。けど今のわたしは愚痴らずにはいられない。勉強とかうんざり。いい大学に入ったからなに? そんなの、パパの自己満足じゃん。パパに押し付けられた人生観に、なんの価値があるっていうの? あぁ、家なんか帰りたくないよ。
 そんなことを思いながら、わたしは駅のホームで電車を待っていた。ホームにはわたしの他に男が三人。一人はベンチで寝ていて、あとの二人は大声で笑っている。
 手提げカバンから携帯電話を取り出す。わたしの帰りを待っているであろう家庭教師に、帰りが遅くなるってメールを打つ。送信ボタンを押して携帯を閉じた時だった。
「お、そこのカノジョー。これからどこ行くの?」
 顔を上げると、二人組の男がいた。明らかに下心みえみえだし。一人は鶏のトサカみたいな髪型をして、もう一人は鼻にピアスを四つもつけていた。正直キモい。
「その眼鏡、すごく可愛いね。どう? これから三人で遊ぼうよ?」
 ただでさえ帰りが遅くなってイライラしてるのに。構ってる余裕もないって。
「二人で遊んでください。わたし、忙しいんで」
 素っ気なく答えると、トサカ頭の男がわたしの右腕を掴んできた。
「冷たいなーカノジョ。大丈夫、大丈夫だってー!」
「イヤよッ! 放して!」
 わたしは精一杯の抵抗をしたけど、男の人に力では敵わない。グイグイ引っ張られる。鼻ピアスの男がわたしの腰に手を回してくる。嫌よ! 誰か助けて――

「おーい。兄ちゃんたちぃ。そこらへんにしときぃ」
 その声にみんな振り返った。ベンチに寝ていた男だ。関西弁ってことは大阪人かな? なんて冷静に言ってるじゃなかった。とにかく助かったぁ。
「なんだオメーは。しゃしゃり出てくんな」
「そうはいかんやろ。その子、君らがブサいくで、めっちゃうざがってるやん?」
 白のキャップ帽をかぶった男がベンチから立ち上がる。背は一八○センチくらいかな。体格がかなりいい。
「俺らにケンカ売って、ただで済むと思うなよ? デクノボウが」
 トサカ頭がボクシングの構えをする。この人、もしかしたらボクシング経験者なのかしら? 数回ジャブを見せて威嚇し、そのまま関西弁の男に近づいていく。二人の距離が狭まる。手を伸ばせば顔に当たる距離まで。そしてトサカ頭が関西弁の男の顔面に目がけてパンチを繰り出した。
「危ないッ」
 わたしが叫んだのと同時くらい。
 カチっと音がして、関西弁の男がものすごい高さまで垂直に跳んだ。五メートル? ううん、もっと跳んだと思う。助走もしてないし、棒に頼ったわけでもない。人間じゃ有り得ない!
 関西弁はそのまま落ちながらトサカ頭に踵落としを入れる。トサカ男は吹っ飛ばされてホームの壁に激突した。わたしは思わず目を瞑る。
 気がつけば、わたしは自由の身になっていた。わたしの腰に手を回していた鼻ピアスは、間抜け面で呆然と立ち尽くしている。鼻ピアスもあのジャンプに驚いたのかな? とにかく今がチャンスだ。
 わたしは持っていたカバンを鼻ピアスの顔にぶつけて、関西弁のところに走った。
「走れるか? お嬢ちゃん」
「うん」
「おっし。逃げるでー」
 関西弁の男に手を引かれて、わたしは改札口に向かって走った。
 


***



「ちょっと、ちょっと待ってー! わたし、もう……」
 どれくらい走っただろう。足がもう動かないし。
「そか。ほんなら休憩しよ」
 わたしたちは居酒屋の前に止まった。すごく息苦しい。居酒屋の前に設置されている自販機にもたれる。あれだけ走ったのに関西弁さんは呼吸の乱れがない。
「一体あなた、なに者なの?」
「なにって、フツーの人間やで。ハハハ」
 関西弁さんは頬をポリポリ掻いて笑う。
 絶対ウソ! 普通の人間があんなに跳ぶわけがないもの。生身の人間には絶対できっこない。まるでアクション映画に出てくるスーパーヒーローだった。
「関西弁さんはお化けよ! あっ、ごめんなさい。あなたの名前が分からなくて……」
「おいおい。『関西弁さん』ってオレのことか? オレの名前は秀平や」
 関西弁さん改め秀平さんが右手を差し出してくる。わたしは左手を出して応じた。握手ってやつね。ちょっとドキドキする。わたしより一回り大きな手。実は男の人と握手するのは初めてだったりする。
 でもわたしはこの人をまだ信用したわけじゃない。さっきの男たちに比べたら信用できるけど。もしかしたら後で法外な請求をしてくるかもしれない。油断したところを襲ってくる可能性だってある。
「わたしは美鈴。まだあなたのこと信じてるわけじゃないけど。でも、さっきは助けてくれてありがとう。一応お礼を言っておくね」
「礼なんてええよ。あ、のど渇いたやろ? なんか飲む?」
「それじゃ、いただこうかしら」
 秀平さんは自販機の前でポケットをまさぐっている。
 わたしはあることに気が付いた。彼の両足首に包帯が巻かれている。足でも痛めてるのかしら。まぁ本人は痛そうじゃないし、大丈夫かな?
「あかん! 美鈴ちゃーん」
「どうしたの?」
「今オレ、七十円しかない。ジュース代おごってもらってええ?」
「……」
 呆れた。レディにジュースをおごらせるなんて最低だわ。
「わかったわよ。奢る! 助けてもらったし」
「ありがとな。オレ、このコーラ」
 わたしがお金を入れる前から、秀平さんは自販機のボタンをカチカチと連打する。
 この人はすごく子供っぽいし、初めて会ったわたしに対してすごく馴れ馴れしい。
 でもなんでだろう? わたしは彼が嫌いじゃない。むしろ彼の屈託のない笑顔に魅せられていく。もっと秀平さんのことが知りたい。
「あなたは何者? ここには何をしにきたの? 何歳? 結婚はしてるの? 仕事は? ていうか、さっきのジャンプはどんな力を使ったの!」
 わたしは秀平さんに、わたしが疑問に思っていることをぶつけた。彼はジュースをのどにつまらせて咳き込みながら、
「そんないっぱい質問せんでくれよ」
 苦笑いしている。わたしったらつい興奮しちゃったみたい。ごめんなさい。反省しまーす。
「えーと、まぁ、オレが言えるのは、日本中を旅して回ってるってことくらい」
「旅? それだけ?」
 予想していなかった答えだった。わたしは驚いて彼の顔を覗き込んだ。秀平さんは至って真面目な顔をしている。
「そ。そんだけ」
 彼は自販機に背中をつけ、ゆっくりしゃがみ込んだ。
「いいなぁ」
「どうしたん? 美鈴ちゃん」
 わたしは心底、秀平さんが羨ましかった。パパに逆らえずに窮屈な毎日を送るわたしとは違う。この人は自由に生きている。今のわたしにとって、彼は眩しすぎる存在なんだもの。
「わたしも秀平さんと日本中を巡ってみたい」
「いきなりどうしたん?」
「うちはパパがね、すごくうるさいの。わたしはただの操られ人形。パパを満足させるために生きてるような人間……あ、ごめん! 個人的な話をしちゃった」
 フレンドリーな雰囲気につられて、つい余計なことまで喋っちゃった。
「いや、ええよ。溜め込み過ぎは体によくないしな。吐いて楽になることもあるんやで?」
 心配してくれてありがとう、と言い掛けて思いとどまった。
 危ない、危ない。彼のペースにはまるところだった。この人だってまだ信用できるわけじゃないんだ。
「ちょっと待って! あなた、わたしを安心させようとしてるでしょう? パターナリズムなんてもうこりごりよ」
「パター? なんじゃそりゃ?」
「……。とにかく! あなたを完全に信用したわけじゃない」
「そう言ってたね」
「さぁ、あなたの計画を言いなさいよ! なにが目的?」
 彼に吐露を迫る。
「なら言うで」
「うん。言って!」
「オレはな」
「うんうん?」
「美味いモン、たらふく食いたいなぁ」
「え?」
 真顔でそんなこと言われると調子が狂うわ。一体全体、どういうつもりなのかしら。
「ここ二、三日くらいかな、なーんも食ってへん」
「そうなんだ……じゃなくって! 本当はどうなの? なにか企んでわたしを助けたんでしょ?」
「ないよ? そんなもん」
「うそ! 早く言いなさいよ!」
「美鈴は眼鏡に似合わず、疑り深いやつやな」
 眼鏡は関係ないでしょうよ。っていうか、いよいよ「ちゃん」も省かれちゃった。まぁ、悪そうなことをする人間には見えないけど。
「まぁ、野望っぽいのが一応あるで。聞きたい?」
「うん」
「オレは元々自衛官やっててな。ちょっとひと悶着があって辞めたけど」
 どうりで体格がいいわけね。それなら納得できる。
「この命、困ってる人を助けるために使いたいと思ってな。そんで日本中を回っとるんよ」
「あっははははは」
「いやいや。笑うとことちゃうで?」
「だってー。そんなこと、誰も出来っこないじゃん」
「オレがする。金のあるヤツしか生き残れない世界なんて、絶対間違っとる」
「むりむり。大体、お金がなきゃ人間なんて――」
 あれ? なに言ってるんだろうわたし。
「おうおう。資本主義、上等や」
 彼は表情こそ平静さを装っているものの、明らかに声は怒りを含んでいた。わたしが笑ってしまったからだ。
「ジュースご馳走さん! そろそろ寝床を探しに行くわ。ほな、さいなら」
 秀平さんはさっと立ち上がる。
「あのっ……また、会えるかな?」
 返事は返ってこない。秀平さんは線路沿いを歩いていき、そして闇の中へ吸い込まれるように消えていった。



***



 帰宅した時には深夜十二時を回っていた。
 駅のホームであんなことがあったから、電車を使うわけにもいかなかったの。また変な人にからまれるかもしれないし。結局わたしは家まで一時間かけて歩いてきた。
「ただいまぁ」
 わたしは小さな声で、おそるおそる和室を覗き込んだ。
 毎日自分の部屋に行く前に、パパに挨拶をしなきゃ。そうしないとパパが怒る。
「美鈴。ちょっとこっちに来なさい」
 パパは読みかけの新聞を畳の上に置いて、わたしの方を向く。鋭い眼光でわたしを睨みつける。
 足がすくんで動けない。自分の部屋に走って逃げたい。けど、パパのところに行かなきゃ打たれる……。
「美鈴!」
 今度は怒気を含んだ声で名前を呼ばれた。わたしはおそるおそるパパの元へ近づく。
「なに?」
「どうして遅くなったんだ」
「どうしてって……」
 わたしは返答につまった。秀平さんと話してたなんて言えないもの。けれど、パパは嘘が通じる相手じゃない。すぐ話の矛盾に気づいて問い詰めてくるし。どうしよう? このままじゃ怒られるッ――
「誰かに襲われてないか?」
「えっ?」
 パパの口から予想外の言葉が飛び出した。
「襲われたのか?」
「うん。でも周囲の人に助けられて逃げた」
 パパの顔がどんどん青ざめていく。
「もういい。自分の部屋に戻りなさい」
「どうしたの、パパ?」
「それから登下校の際は気をつけなさい」
 そう言ってパパは腕を組んで黙る。
 パパの様子がいつもと違う。なにかあったのかな? でもこの時のわたしは、怒られなかったという安堵感でホッとしていて、パパの様子なんてどうでもよかった。
 


***



 翌日。
 授業中にも関わらず、みんな普通に大きな声で喋っている。まぁいつも通りと言えばいつも通りね。元々声が小さくて聞き取りつらい先生の講義も、みんなの話し声にかき消される。これでもうちの学校は進学校なんだ。
 教室のあちこちからチョコの話が飛び交っている。今日はバレンタイン。どうしてみんながそこまで盛り上がれるのか、わたしには理解できない。いつでも買って食べればいいのにね。
というより、今はそれどころじゃない。
 昨晩から秀平さんのことが気になるの。
 また会えるかな。もしかすると会ってくれないかも。昨日は助けてもらったのに、あんなひどいこと言っちゃったし。どうしても謝らなくっちゃ。でも秀平さんどこにいるんだろう? せめて電話番号だけでも聞き出しておけばよかったなぁ……。
「杉下、杉下!」
 わたしを呼ぶ声に、ハっとして顔を上げる。目の前に化学の先生が立っていた。
「アニリンの作り方、答えられるか?」
 先生はわたしをじっと見てくる。まるでわたしに救いを求めているような。こうも生徒に騒がれると、授業にならない。だからお前に答えさせて、なんとか授業形式を維持したい――なんて言いたそう。
「まずニトロ化ですよね?」
「なにと、なにを使うんだっけ?」
 わたしはふと黒板を見た。
 そんなの、さっき自分で黒板に解答を書いたじゃない。混酸って。見なくたってわかるけど。わかり切ったことを、わたしに答えさせてどうするのよ。ていうか、秀平さんになんて謝ろうかと考えてる時に邪魔しないで! イライラする。
「先生。黒板の式だとわかりません。混酸って、濃硝酸と濃硫酸からニトロニウム――」
「杉下?」
 一瞬、教室がしーんと静まり返る。みんながすごく驚いてる。一番驚いてるのは先生だけど。
 不思議と言葉が止まらない。わたしは話を続けた。
「ニトロニウムイオンが、ベンゼンにキューデンシ攻撃して」
「す、杉下! わかった、もういいから」
「まだ説明途中ですよ? 式、書きましょうか?」
「待て、杉下。そこまで教科書に載ってないだろ? 授業でそこまでやることもない」
「まさか先生、知らないんですか?」
「……」
 先生はそれ以上喋らなかった。青ざめた様子で教卓の方に戻っていく。
 わたしは思った。この人は高校化学の教科書に載ってる以上の内容を知らないのでは、と。こんな程度で教師が務まるなんて、教師って楽な仕事なのね。先生への愛想も小想も尽き果てた、と言うべきかしら。
 まわりの子たちが驚いてこっちを見てくる。
「なによ? 何か文句あるの?」
 見せ物じゃないんだから!
 わたしは一人一人を睨みつけた。どの子もわたしと視線を合わせようとしない。
 机に肘をついて教科書を眺めながら、ふと思った。わたしってSっ気があるんじゃ?
 いやいや、まさかね。
 なんて思いながら外に視線を移すと、赤い光が目に飛び込んできた。あれはパトカーの赤色灯だ。うちの学校で何かあったのかな。
 いろんな事態を勝手に想定しているところに、校内放送が流れた。
『生徒諸君にお知らせします。先ほど中央体育館の倉庫にて、不審者がいると通報がありました。現在、男の身柄は警察に取り押さえられています。間もなく授業は終わりますが、危険なので教室から出ないように』
 教室中から悲鳴にも似たざわめきが起こる。「やだー。怖いっ」とか「マジ、襲われたらやばくね?」などなど。
 そんな騒ぐほどのことじゃないと思うんだ。不審者は警察が捕まえてるんだし。ていうか、みんな被害妄想が強すぎでしょ。こんなことくらいで一喜一憂できるみんなが羨ましいわ。
 鼻で笑いながら外を眺める。するとわたしの後方で誰かが、
「体育だったB組の人が不審者を見たんだって! 今メールきた」
 と話している。
 後ろの会話によると、不審者はガテン系で関西弁らしい。どうせ誰かの作り話でしょ。関西人がこんな関東圏にいるわけないでしょ。なにバカなこと言って――関西弁ッ?
 ここでチャイムが鳴った。わたしは一目散に職員室を目指した。不審者の姿をこの目で確かめたくて。もし秀平さんだとしたら……。
 そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。わたしは教室を飛び出した。階段を駆け下りて職員室の前を通りかかった時、
「お願いやからさ、俺の話を聞いてぇな」
 聞き覚えのある言葉だ。間違いなく秀平さんだ。
 秀平さんの声は職員室から? 違う。感覚的にはもっと別の、遠くからだと思う。たぶん外から。そこに秀平さんもいるのかな? 行かなくちゃ。
 すぐに昇降口へ向かう。上履きのまま、昇降口の扉あたりまで出た。二人の警官に両腕を押さえられながら、真ん中を歩く大男が見える。
「秀平さんッ」
 思わず声をかけてしまった。
「お? おぉ、おはよう。美鈴ってここの学校の子だったんや?」
 なにのんきに挨拶してんのよ。
「なにしてんのよ、秀平さん」
「今から警察に連れて行かれるんやー」
 それは見ればわかるよ。わたしが言いたいのは、なんで勘違いされるような所を選んだのってこと。
「美鈴、助けてー。この人ら、俺の話聞いてくれへん」
「わたしにどうしろっていうのよ! バカー!」
「こらッ! バカはないやろ! せめてアホと言え」
 困ってる割にはずいぶん余裕がありそう。関西人にバカっていうと怒ると聞いたけど、まさか本当に食いつくなんて。
 そんなことはともかく! 謝らなきゃ。秀平さんに昨日のことを謝らなきゃ。
「あのッ」
 続きの言葉が出てこない。言いそびれてる間に、秀平さんは警察に引っ張られていく。
「わたし……」
 また言えなかった。わたしはただ秀平さんの背中を見送った。



***


 
 夕方。太陽は最後の悪あがきと言わんばかりに西の方角から強い光を放っている。
 冷たい風がわたしの全身を吹き付ける。わたしはコートの襟元を両手でぐっと押さえながら家路を急ぐ。
 ――秀平さんにもう一度会いたい。
 そう考えて歩いていると、
「バレンタインにチョコレートはいかがですかあ?」
 声がする。振り向くと、バレンタインの文字が目に飛び込んできた。
 コック風の女性店員が震えながらでわたしの方を見ている。まだ冬の冷たい風が吹き荒れる中、外で売り上げアップのために頑張ってる店員さん。
 確かこのお店は高級チョコレートで有名なの。いつか行ってみたいと思ってた。けど正直、高校生のわたしには敷居が高すぎる。OLですらなかなか手が出せないお店だもの。
 でも見るだけならいいよね? 見るだけなら無料だし……。
 お店の外には木製のテーブルが用意されていて、その上にチョコが入ったかご並んでいる。その中でも『当店おすすめ』と書かれた札が付いているかごを覗いた。透明な袋の中にハート型のチョコが十枚入っている。何グラム入ってるのよ。しかもこれだけで三千九百円だって! 高校生には高すぎるよ。
「プレゼント用ですか?」
 チョコを眺めていると、店員さんが訊ねてきた。
「あ。えっと」
 そんなこと聞かれても困る。見てるだけだし。
 でも見てるってことは、少しは興味があるってことよね。興味がないなら素通りするじゃない。そういえばどうしてわたし、立ち止まってるんだろう? 自分のため買うの? 別に食べたいと思わない。じゃあ、誰に? それはわからない。
「とりあえずこれください」
 三千九百円のチョコを指でさした。
 


***



 時計を見ると夜六時を示している。空はすっかり日が沈んで、星々がキラキラと輝いていた。
「チョコ買っちゃったよ」
 痛い出費だった。わたしは呆然とチョコの入った袋を見つめる。心のどこかで秀平さんに渡せたらなんて期待してる自分がいる。今頃彼は警察で取り調べを受けているはず。会うチャンスなんてないかもしれないのに。
 とりあえず塾が始まっちゃう。急がなきゃ。
 急ぎ足でいつもの商店街を歩いていると、
「おーい! 美鈴ちゃん」
 聞き覚えのある声がした。振り向くと、車から坂部おじさんが上半身を乗り出していた。
「あ、おじさん!」
 この坂部おじさんはパパの高校時代の友達なんだって。ここらへんでは有名な坂部建設の社長さんで、選挙戦ではパパにとって最大の支援者だった。最近じゃ会社の経営が厳しくて大変だって聞いてたけど。でも元気そうでよかった。
 わたしはおじさんのところへ歩み寄った。せめて挨拶くらいしなきゃね。
「こんばんは」
「美鈴ちゃん。送るよ」
「でも家はもうすぐだし、大丈夫ですよ」
「なに言ってるんだい! 君のお父さんが倒れたんだぞ」
 坂部おじさんの一言で、わたしの頭の中は真っ白になった。どうしてパパが。そういえば昨日パパの様子が変だったけど。まさか誰かに襲われたんじゃ――
「ささ、早く乗って」
 おじさんに勧められるまま、わたしは助手席に乗り込んだ。
「しっかりつかまってるんだぞ、美鈴ちゃん」
 そう言っておじさんが車を発進させる。

 最初の信号は赤だった。けどおじさんは信号を無視して交差点を突っ切る。警察に見つかったら罰金なんだけど。そんなの関係ねえと言わんばかりに、車はぐんぐんスピードを上げていく。
 走り出してから十分くらい経ったかな。しばらく公道を走っていって、途中わき道に入った。
 ヘッドライトに照らされて浮かび上がる砂利道。舗装されていない道の上を、車体を上下左右に大きく揺らしながら車は進む。激しく揺られるせいか、わたしは動悸に似た不快感に襲われる。車酔いかもしれない。
「おじさん。パパはどこなの?」
 わたしの問いかけに、坂部おじさんは黙っている。おじさんは表情ひとつ変えずに運転を続ける。
「ねぇ、おじさん?」
 もう一度話しかけてみたけどおじさんは無言だった。
 おかしいわ。パパが倒れたっていうのが本当なら、今頃病院のはずよ。一体おじさんはどこに向かってるのかしら。悪い予感が脳裏をよぎる。もしかしたら……この人はわたしにウソをついているんじゃないかって。
 しばらくして車が止まる。
 周囲を見渡すけど、真っ暗でよくわからない。少なくとも病院じゃないことだけはわかる。病院なら明かりがついてるはずだし。
「さぁ着いたぞ。降りるんだ」
「ここはどこ? 本当のこと教えてよ、おじさん。パパはどうしたのッ」
 すっとわたしの額になにかが触れる。棒のようななにかが。
「ここで死にたくなけりゃ言う通りにするんだ」
 おじさんは静かに、けれど冷徹に言う。
「や、やだなぁ、おじさん。なにを言って――」
 え? こんなところでわたしは殺されるの? なんで? わたし、なにもしてないのに。ウソでしょ? 冗談だって言ってよ!
「はやく降りるんだ。逃げようとしたら迷わず打ち抜くからな」
 カチャっと音がして、わたしの額に強く押し付けてきた。おじさんの発言と今のカチャって音。わたしに突きつけられているのは拳銃?
 ――やっぱりわたしはここで殺されるんだ。
 いや、諦めたらダメよ。ここでパニックになったらだめ。落ち着けわたし! きっと生き延びる方法があるはずよ。今はおとなしく従うしか……。
「わかったわ」
 わたしは車から降りた。
 背中に拳銃らしきものを突きつけられながら、わたしは建物に向かう。



***



 二階の部屋の照明がつく。なにひとつない殺風景な部屋だ。二十、いや三十畳はあるかもしれない。
 窓はひとつ。窓ガラスがなく、冬の冷たい風が室内に吹き込んでくる。
 おじさんの手元をみた。手に握られていたのはやっぱり拳銃だ。
「荷物はここに置いて、そっちに行きなさい」
 わたしは坂部おじさんの言う通り、荷物を置いて部屋の隅に座る。
「おじさん。どうして……」
「悪いのはお前の父親だ。恨むなら父親を恨むんだな」
 パパとおじさんの間になにがあったかなんて知らない。ただ言えることは、パパの娘だというだけで完全にとばっちりを受けているということ。とにかく今は警察が来てくれることを信じるしかない。それまでなんとか時間を稼がなきゃ。
「わたしをどうするつもりよ」
「なぁに。ちょっと父親を説得してくれたらいい」
 おじさんはわたしのカバンから携帯電話を取り出した。それをわたしに投げる。
「そいつで今から電話をかけるんだ。父親にだ」
「わたしはなにを喋ればいいの?」
 返事の代わりに銃口を向けられる。わかったわよ。電話すればいいんでしょ。
 わたしはメモリからパパの携帯番号を検索してかける。
「もしもし。パパ?」
『美鈴か。今はどこだ』
 おじさんの方をチラっと見る。おじさんから特に指示は出ていない。
「わからない。ただ坂部のおじさんが」
『坂部? なんで坂部が』
「そんなのわからないよ!」
『警察がお前を捜してる。もう少し待ってなさい』
「もう少しってどれくらいなのよ! 携帯だってあとどれくらいもつか」
 あ、そうか! おじさんにバレずにここの位置を知らせる方法があった! 携帯電話だ。
 わたしの携帯にはGPS機能があるんだ。わたしに自分の携帯で電話させるくらいだから、おじさんはGPSの存在に気づいてない。これはチャンスだ。パパがGPSでわたしの位置をつかんめば……。
「電話をよこしなさい」
 おじさんがこっちに近づいてきて手を伸ばした。わたしは携帯電話を渡して、ひたすらパパがGPSに気づくことを祈った。
「娘が大事なら、うちの全従業員を救済しろ」
 そう言っておじさんは通話を切る。
「こッ……こんなことしたって……なにも変わらないですよ!」
「なんだって?」
 坂部おじさんは鬼のような形相でわたしを睨みつける。
「おまえになにがわかる!」
「わからない。だけど従業員の人たちだって、こんなことして喜ぶとは思えないもんッ」
 負けずにおじさんを睨み返す。
「キレイ事を」
「パパとの間になにがあったの?」
「お前の父親は恩を仇で返したんだ」
 さっきからパパに対して恨みがあるみたいだけどさ。坂部おじさんとパパの間になにがあったんだろう。あれだけ仲がよかったのに。
「あれだけ国政に出る前に支援したのにだッ! 議員になったとたん、太林の人間に接近しやがった。こっちは地元の小企業だぞ。連中の圧力で仕事もない。従業員だってたくさんいたのに」
「それは……」
 知ってる。パパは議員になってから大手建設業の太林組と付き合い始めたことを。
「お前の父親は俺たちを助けてくれなかった。こっちは泣く泣く従業員を切ったんだ。一家離散したヤツまでいる。こうなった責任は必ずとってもらう!」
 わたしはおじさんに言い返せなかった。ううん。むしろ同情しちゃう。
「それで娘のわたしを選んだのね」
「そうだ」
「……」
 パパが坂部おじさんをこんなに苦しめてたんだ。
 わたしだってパパのおかげで裕福な暮らしをしてたんだ。その影でこんなに苦労してる人たちがいたのに。すべてはパパが引き起こしたことだもの。わたしは関係ないなんて言えない。わたしにも責任はある。
 だけどやっぱり……。
「おじさんはやっぱり間違ってる。これは犯罪よ! こんな形で主張したって世の中は認めてくれないよ」
 わたしが言い終わると、一発の銃声が鳴り響く。その音にショックで心臓が止まるかと思った。わたしの生意気な口を牽制するための威嚇射撃だ。
「どのみち俺には退路なんてない。俺はあとでここで死ぬ。ヤツが要求をのまなかったら、お前を道連れに死ぬだけだ。いや、このまま殺してしまってもいいな」
 天井に向けていた銃口をわたしに向ける。
 この人は本気だ。たぶんわたしは殺される。おじさんの銃に打たれて。まだ死にたくない。わたしにはまだやりたいことがたくさんあるのに。
 神様。もしいるならわたしを助けて――

「すみません。お取り込み中のとこ悪いけど、静かにしてくれへん? さっきから寝れへんのや」
 え? 神様? ていうか聞き覚えのある関西弁だ。
 わたしは部屋を見渡す。すると窓に上半身を乗り上げている秀平さんがいた。必死に窓にしがみ付いていると言った方が適切かしら。てか、なんでここにいるのよ!
「な、なんだお前は! 警察かッ」
「警察ぅ? ちゃうちゃう。俺は善良な一般市民や。おっさん」
「お前、どうやってここに来たんだ?」
「どうって、ちょっとジャンプしただけや。それよりちょっと、俺を引き上げてくれへん?」
 こんな非常事態に、なにのん気なこと言ってるのよ。しかもなんで窓から入ろうとするの。普通に階段を使いなさいよ。
「お? そこにおるのは美鈴とちゃうか? んー。これはなにか犯罪の香りがするな」
 助けてって秀平さんに叫びたかった。でもわたしは銃口を向けらてい喋れない。
「まぁええわ。美鈴! ちょっと手ぇ貸してー。はよせんと落ちてまう」
 わたしのことはどうでもいいんかいッ!
 その時だ。おじさんが素早く銃口を秀平さんに向けた。
「ちょ、おっさん! 待ちいや」
 おじさんは秀平さんに向けて二、三発ほど発砲した。銃声が上がった直後、秀平さんは窓から落ちた。
「しゅ、秀平さん! 秀平さん!」
 わたしは無我夢中で叫んだ。
「人殺し! おじさんは人殺しだわ!」
「人殺しで結構。どうせお前も殺すことになるんだ」
 おじさんはゆっくり銃口をわたしの額につける。引き金に指をかけて、薄ら笑いを浮かべている。もはやこの人は悪魔だ。狂ってるとしか思えない。
「さよならだ、美鈴。あの世でさっきの男と仲良くやりなさい」 
 おじさんが引き金を引こうとする様がスローモーションみたいに見える。

「待てやおっさん」
 その声に反応しておじさんが銃を窓に向ける。
 あれ? 秀平さんが窓際に立ってる。てっきり銃で打たれて死んだと思ってたのに。良かった。本当に良かった! 秀平さん、生きてたのね。
「女の子に銃を向けるとは感心せぇへんな。なぁ、おっさん」
「しぶといヤツ」
 坂部おじさんが両手で銃を構える。確実に秀平さんを狙い打つ気だ。
「今度は外さんぞ。死んでもらう」
「こいよ。おっさん」
 次の瞬間、銃声が鳴った。発砲した時にはすでに秀平さんの体が宙に浮いている。
 秀平さんはまるで、天空から獲物を狙う鷹のような目つきで見下ろしている。そして両手で天井を押して勢いをつけ、そのまま飛び降りた。秀平さんのひざを頭部に受け、おじさんはわたしのカバンの上にどうっと床に倒れる。
 わたしの前に銃が転がってきた。わたしは素早くそれを拾って、おじさんに向けた。打たないけど一応牽制のためにね。
「こぉんの、あほんだらぁぁぁぁ!」
 秀平さんは咆哮し、坂部おじさんの顔面を殴りつける。慌ててわたしが止めに入る。
「ちょっと! やりすぎよ、秀平さん!」
「悪い。ついカッとなってもうた」
 秀平さんはふぅっと息をついて、ゴロンと床に寝そべる。
「あ」
「どうしたの? 秀平さん」
 彼は急に慌てて起き上がる。
「なんか踏んだ」
 そう言って秀平さんはわたしのカバンを持ち上げた。
「それ、わたしのカバンだよ! 返して!」
 わたしはカバンを引っ張って取り返す。
 そういえばすっかり忘れてたな。中にチョコが入ってるんだった。カバンの中から袋を取り出してみると、チョコは跡形もなく粉砕していた。
「チョコが……」
「わ、悪い。ごめんな美鈴。その、すまん」
「ううん。いいの。誰も死なずに済んだし。チョコよりも命の方が大切だから」
「それ、俺がもらってもええか?」
「あ、うん。あげるよ。どうせ誰にも――」
 あ、秀平さんに渡そうと思ってたんだ。恥ずかしくてこんなこと、死んでも本人には言えないッ!
「サンキュー。今日なんも食ってへんから腹へってて」
 秀平さんは袋の封をちぎって、一気に口の中に流し込む。
「ぎ、義理チョコなんだからね」
「んあ?」
「なんでもないわよッ」



***



 一時間ほどして、警察が到着した。パトカーのサイレンが鳴り響く。
 坂部おじさんは秀平さんのベルトで手を縛ってある。あとは警察に任せよう。
「行こう、秀平さん」
 わたしは声をかけたけど、秀平さんは首を横に振る。
「どうして?」
「悪い。一人で行ってくれ」
 そういえば秀平さんは、しきりに左の足首をさすっていた。
「足でも痛めたの?」
「ちゃう。壊れたんや」
 壊れたってどういうことよ? なにを言ってるんだろう。
 秀平さんはズボンの裾を上げる。ようやく彼の跳躍力のカラクリがわかった。
「以前な。自衛隊おったとき、事故で両足首がだめになったんや。けど、歩けなくなるんは辛いやん? それで知り合いの医者に頼んでさ。ちょっと高性能の義足をつけてもらったんや」
 秀平さんの足は義足だったんだ。本物の足そっくりに作られているけど、よく見れば色が違う。微妙に橙色だ。かかとの部分が破れていて、そこから銀色のスプリングがちらっと見える。
「こいつは機械で制御してるんよ。かかとを強く踏むとスイッチが入るんよ。どや、すごいやろ?」
「それより、事故ってなにがあったの?」
 詳しく訊ねようとした時だ。 階段を上がる足音。
「美鈴ッ」
「パパ!」
 パパが息を切らしながら近づいてきた。
「大丈夫か?」
「うん。秀平さんのおかげでなんとか」
「秀平? それはそこにいる男のことか?」
 パパは秀平さんを見下す。たまらず秀平さんが苦笑いを浮かべる。
「貴様。二度とうちの娘に近づくんじゃない」
「パパ!」
「黙っていろ、美鈴。お前はわたしの言うことを聞いていればいい」
「どうして? どうしていつもそういうこと言うの?」
「お前の人生はわたしが決める。お前が道を踏み外さないようにだ」
「じゃあパパは自分が絶対に正しいと思ってるの? 人生をめちゃくちゃにされた坂部おじさんはどうなるの?」
「うるさいッ」
 パパが手を振り上げる。また殴られ……あれ? 殴られない?
「そんくらいにしときぃ。おやっさん」
 パパの手首を秀平さんが掴んでいた。
「私に触るな! 貴様」
「そんなこと言うなや。防衛大臣さん」
「貴様は――」
「おいおい。俺の事故を隠蔽したんはあんたや。自衛隊の事故が報道されたらかなわんモンな? ただでさえ憲法九条を変えたがってる時にな」
 わたしは知らなかった。パパがそんなことをしていたなんて。秀平さんまでがパパの被害者だったんだ。一体パパはどれだけの人を苦しめれば気が済むの。
「パパ。本当なの?」
「……」
「答えてよッ」
 パパは無言を貫く。反論しないってことは、秀平さんが言ったことはすべて事実なんだ。
「もういいッ! わたし、パパの子供でいることをやめる!」

 遅れて警察の人たちが部屋に入ってきた。わたしはパパを警察に突き出そうかと思ったけど、
「今のことは内緒にしたる。その代わり、ちゃんと美鈴の父親を務めろや」
 秀平さんが諭すように言ったからやめた。秀平さんは本当に優しい人だ。一番パパを恨んでいそうなのに。
 感傷にひたっているところに、
「あいつがうちの娘を誘拐した犯人だ。捕まえろ!」
 急にパパが警察官たちに指示を出す。わたしは驚いた。
「なに言ってるの、パパ!」
 だって悪いのはパパじゃない。パパは全く反省している様子がない。それどころか、秀平さんを誘拐犯呼ばわりするなんて許せない。どこまで腐ってるの!
 わたしは持っていた銃でパパを撃とうと思った。心中するつもりだったんだ。両手で銃を構えてパパに向けた。
 その時、秀平さんがわたしから銃を取り上げた。そして、
「全員動くな! 動いたらこの娘の命はないで」
 銃口をわたしの頭につける。
「いかにも、俺が誘拐犯や」
「ちょっと! 秀平さんまでなにを言ってるの? だってわたしを二度も助けてくれたじゃない。なんでパパのウソに付き合うのよ!」
 混乱してるわたしの耳元に「ちょっと堪忍な」と秀平さんがささやいた。
「娘はいただいていくで」
 銃が天井に向けて投げられた。わたしを含めてその場にいた誰もがそれに目を奪われる。
「おし! いくで、美鈴」
 突如わたしの体が浮いた。なにが起こったか理解できない。そして次の瞬間には、わたしは秀平さんに抱きかかえられて窓から飛んでいた。



***



「わたしたち、まるで逃亡中みたいだね。これからどうするの?」
「そうやなぁ。家まで送るで?」
「イヤッ! 家には帰らない」
 ふたりで喋りながら林の中を歩く。さっきから秀平さんが痛そうに左足を引きずっているんだけど、なにを言っても「右足がある」だし。
「なぁ美鈴。今ならまだ引き返せるで?」
「あんなヤツ! 父親なんかじゃないもん」
「ヘソ曲げとらんで素直に帰ったらええのに……」
「そんなことよりも、わたしも連れてってよ。秀平さんの言う人助けの旅に。ねぇ、いいでしょ?」
 だめって言われても付いていくわ。だって今日からわたしは自由だもん。もうパパに縛られることもない。今はただ、秀平さんと一緒に日本中を回ってみたい。
 そんな感じでしばらく歩いているうちに公道に出た。
「なぁ美鈴。考えたけどやっぱ無理や」
「なんで?」
「お前はまだ学生やん。これから色んな可能性があるやろ? 俺と一緒にいたらアカン」
「そんなこと……」
「美鈴と喋れて楽しかったで、ホンマに。ちゃんと家に帰って、そんでもってオヤジを安心させるんや? ええな? 約束やで」
 言いたいこと言ってから突然、秀平さんはぴょんと飛び上がる。
「あ!」
 わたしは声をあげた。秀平さんはすぐ近くを通りかかった大型トラックの上に飛び乗る。
「美鈴ぅ! また会おう!」
 トラックの上から手を振る秀平さん。
「ちょっと待ってよ!」
 わたしが呼びかけたときにはすでに遅かった。トラックはどんどん遠くへ離れていき、そして闇の中に消えていった。

 自分勝手すぎる! せめて言わせてよ。好きって。
 二月も中旬に差し掛かったある日のこと。
 今年最大の寒波が襲来した。部屋の中だというのに吐息が白い。なんで室内がこんなに寒いんだよ。昔から寒さに強い俺ではあるが、さすがに今日は無理。
 寒さに耐えかねた俺は、近くにあったエアコン用のリモコンを取って、スイッチを入れた。

 ガガガ。

 スイッチが入った途端、壁掛けの黄ばんだエアコンからやかましい音が鳴り響く。例えるなら機械が軋むような音だ。
「おいおい。どうしたんだ?」
 よく見ると、エアコンの送風口が完全に開いていない。送風口にホコリでも詰まってしまったんだろうか。
 エアコンの下に椅子を移動する。そして椅子に乗ってエアコンの送風口を覗き込んだ。特にごみが詰まってる様子はない。ついでに温風も出ていない。
 エアコンの下には一九九九年製と表記されている。十年前に生産されたわけか。それなら壊れてもおかしくない。とりあえず音を止めたいが、今は真夜中の一時半。今すぐに修理を呼べるわけがない。
「どうすっかなー」
 俺は腕を組みながら対処法を考える。こうして悩んでいる間もエアコンからの音がうるさい。ただでさえこのアパートは壁が薄くて音が漏れる。両隣への近所迷惑を考えると、今すぐこの音を止めなければならん。それにこのままだと俺も寝れないわけ。さっさとコイツをなんとかするしかない。
 ではどうするか。とりあえず素人の俺にできそうなことを試してみるしかない。
「つーか、エアコンの電源を落とせばよくね?」
 ここは基本中の基本である電源を落としてみる。
 俺は一旦椅子から降りてリモコンを手に取り、エアコンのスイッチを切る。さぁこれで解決だと思いきや、エアコンはの電源が落ちない。送風口も閉じない。
「どうなってんだよ」
 椅子の上に再び上がって送風口を覗き込む。電源が落ちないってことはたぶん、機械自体の調子が悪いんだろう。エアコンと送風口の間に人差し指を突っ込んでみる。
 ガガガガガ。
 エアコンが音をあげながら、送風口を閉じだした。
「放せっ」
 指を挟まれた。ちょいと引っ張ってみるが、結構ガッチリ挟まれていて抜けない。
「まじで放せよっ」
 もうちょっと強い力で指を引っ張ってみる。うんともすんとも言わない。もう片方の手で送風口を押し下げてみたが、それでも頑として動かない。俺はだんだん焦燥感に駆られる。
「てめー、マジで放せよ!」
 今度は思いきり指を引っ張る。
 エアコンはこのタイミングを狙ったかのように送風口を開らく。指が抜けたのはいいが、勢い余って俺は椅子から落ち、床に尻もちをついた。
「痛ってー」
 ガガガと音を鳴らしている。エアコンが俺を笑っているようにしか思えない。俺はエアコンに対して憎しみがこみ上げてくる。俺のことをバカにしてるのか、コイツは。
「うぜぇなコノヤロー。死ねバカ! ふざけんな!」
 ついカッとなって、頭に浮かんだ汚い言葉を片っ端からエアコンにぶつける。
 それからすこし経って、
「ハァ」
 俺はため息をついた。なにエアコン相手に感情的になってんだよ俺。アホらしい。
 もう一度エアコンを見上げる。エアコンの送風口は半開きのまま、音だけが止まっていた。
 ついに壊れたのか? それとも俺に悪口言われてへこんだか? というかこの際なんだっていいよ。音が鳴らないなら。
 机の上にある時計を見ると、夜中の二時を過ぎていた。エアコンに構ってる暇はない。とにかく今日はもう寝よう。あとは明日にでも修理を依頼すればいいさ。
 俺はベッドにごろんと転がって部屋の明かりを消す。
「あーあ。無駄な時間を過ごした」
 つぶやいて、かけ布団を被ったときだ。
 ガ……ガガッ。ガガガガ。
「またかよっ」
 反射的に俺はかけ布団を蹴り上げて起き上がり、部屋の明かりをつけた。エアコンはさっきより更に激しい音を鳴らしている。
 俺は今、エアコンに対して非常にムカついている。こうなったらさっさとコードを抜いてしまおう。
 ベッドから降りて、エアコンの電源コードらしきものを引っ張ろうとしたときだ。
 ガガガガガー、ガーガーガーガー、ガガガガーガガー。
「今のは太塚愛のさくらんぼ?」
 ガーガガ、ガガガガガー。
 今のは確かに太塚愛だった。さくらんぼを歌っちゃったよ、コイツ。これはこれでちょっと面白い。太塚愛の歌をもう一回歌ってくれないかな。
 俺は期待しながらエアコンを見つめた。しばらく待ってみたが、
「あれ?」
 エアコンは沈黙している。
「おい。もう一回歌ってみろよ」
 俺は椅子にあがってエアコン本体を叩いてみた。すると、エアコンはガガガと音を立てて送風口を閉じていく。
「……」
 なにそれ。俺一人がすべったみたいな空気なんだけど。



 気を取り直して部屋の電気を消し、俺はベッドの上に横たわる。
「朝六時には起きなきゃ遅刻し――」
 ヴッ……ヴヴヴ。
 俺は慌てて起き上がり、部屋の明かりをつける。今度は冷蔵庫から激しい音がする。
 もういい加減にしてくれぇー!
 もう十五年も昔の話になる。
 十五年前の俺はまだ中学生で、ピッチャーをやっていた。先に断っておくが、俺はそれまで一度も公式試合で投げたことはない。
 野球部の仲間からは、お前は空気のようなヤツだとよく言われた。初めはどうみてもいじめにしか思えなかったが、どうやら本当に影が薄かったらしい。発注したユニフォームが届くと、いつも俺の分だけ忘れられる。練習後の反省会では、俺は行方不明扱い。
「浩輔っ! 一緒に帰ろうぜー」
 そんな俺に、いつも声をかけてくれたのは真二だった。帰り道では、よく俺の愚痴を聞いてくれたっけ。彼は口癖のように、
「そんなことはないよ! 浩輔はすっげぇピッチャーだよ」
 なんて言って、俺を励ましてくれた。
 キャッチャー兼キャプテンを務める真二の言葉には重みがある。そんな真二に、俺は尊敬の念を抱いていた。彼が居てくれたからこそ、俺は野球を頑張れたんだと思う。

 ――ひとつだけ、忘れられないエピソードがある。
 
 中学三年の初夏、市が主催する野球大会だ。俺たちにとって大事な初戦だった。
 汗が吹き出す真夏の暑さに気が滅入る。乾燥した空気に、容赦なく照りつける真夏の西日。おまけに、ベンチに備え付けの扇風機は壊れていた。思い出すだけで鬱になりそうだ。
 そんな地獄のような環境で試合を見守った。試合は投手戦となり、予想以上に速いペースで進行していく。
 八回裏の守備が終わった頃だ。
 ベンチに帰ってきたエースが泣きだして、監督が困ったとつぶやく。ちなみに、エースの降板理由は十五年経った今でも分からない。
 俺は棚からぼた餅という言葉を思い出した。
「ひょっとして俺の出番か?」
 そう考えた俺は、中腰になって肩をぐるぐる回し、監督にアピールした。お前に任せると言ってほしくて。
 ところが、監督はしばらく腕を組んで動かない。まだエースに続投させるか、否かを考えているらしかった。どちらにせよ、この時の監督の頭に「俺」という選択肢はなかったみたい。
 俺はこう考えた。そもそも監督は、俺を戦力として考えてないのでは、と。
 エースはというと、右腕で顔を覆って男泣きしている。周りを気にせず声を出して泣く姿から、悲壮感のような一種の絶妙な雰囲気が出ている。何があったか知らないが、お気の毒というほかにない。
 チームメートの誰もが、下をうつむいて口を開かない。そんな時だった。
「監督。浩輔を使いましょう」
 チームのキャプテンである真二の一言が、張り詰めた雰囲気を切り裂いた。真二の発言に、全員が俺の存在を思い出したようだ。何人かは初めましてと言い出しそうな顔をしている。
 でも、一番驚いていたのは俺だと断言できる。俺自身が、さっきまで俺に出番はないと諦めていたんだから。

 以上のような経緯から、俺はマウンドに立ったわけである。
 緊張しなかったと言えば嘘になる。だけど、この時は不思議に重圧をあまり感じなかった。むしろ、興奮していたと言ったほうが正しい気もする。
 真二がマスクを被り、しゃがみ込む。両校ベンチからの視線を浴びながら、投球練習は始まった。
 無我夢中で投げた球は、真二の頭上を越えてフェンスへ。両校ベンチからは、ため息と失笑が聞こえた。
 味方ベンチに顔を向けると、監督の顔が引き攣っていた。俺は怖くて帽子を深くかぶり、監督と目を合わせないようにした。
「ナイスボーッ! その調子だ、浩輔っ!」
 真二は大声を出して、球を投げ返してきた。
 そんなばかな、と俺は驚いた。あんな大暴投がナイスなわけがない。
 皮肉と受け取るべきか、或いは……。真二は俺を動揺させるために、敵側から送り込まれてきた刺客かもしれない。そう思った。
「まあいい。とにかくバッターだ。バッターに集中しよう」
 俺は相手打者を見た。バッターは、にやけながらバッターボックスに入ってきた。わざとらしく咳払いをして、クスクス笑う。後にも先にも、他人に殺意を抱いたのはこの時だけだった。
 ついでに相手ベンチからは、腰抜けなんて叫びが聞こえた。その言葉に腹が立った俺は帽子を取り、腰抜けといったヤツを睨みつける。真二は本当によく分からないヤツで、こんな状況の中、
「浩輔、気にすんなって! エロ本のことを思い出せっ」
 と、大声で叫んだ。彼の一言で、どっと笑い声が沸き起こる。
 ミットに投げろと言われれば分かるが、エロ本とはどういうつもりだ。さっきからフォローしているつもりなのか知らないが、俺は深く傷ついている。
「恥ずかしいからやめいっ」
 俺は叫び返した。
 それにしても、ちきしょう……。みんなして俺をばかにしやがって。溜まりに溜まった鬱憤を晴らすように、大きく振りかぶる。
「俺は……スペシャルなんだぜぇっ」
 俺は訳の分からないことを叫びながら、渾身のストレートを投げた。



 で、十五年経った現在。
 六畳一部屋で、真二と共同生活を送っている。部屋の明かりが壊れていて、蝋燭の火を照明代わりにしている。修理を依頼したいが、二人ともお金がなくて放置している。
 ちなみに、あの後の試合は勝った。たぶんエースの球速に慣れた相手が、俺のへなちょこボールを打ち損じてくれただけ。とにかく収穫の多い一日だった。
 あれから俺の存在感が高まった。真二と俺は漫才コンビと呼ばれるようになる。
 真二とは別々の高校に進学するも、同じ大学の落語サークルで再会した。腐れ縁というやつらしい。そんでもって現在、俺たちは本当の漫才コンビとして売り込み活動中だ。
「できたぞ、浩輔っ! 今度こそ大丈夫なはずだぁぁぁ!」
 真二が大声をあげる。俺は真二からノートを取り上げて、中身に目を通す。そこには象形文字のような、理解に苦しむ文字が羅列していた。
「浩輔はカンイチで、俺はジュリエット役な。これで売れること間違いなしっ」
 真二は目を輝かせている。
 芸人の世界は厳しい。それこそ、高校球児が甲子園の頂点に立つのと同じくらいに。
 それでも。真二となら、どこまでも行けそうな気がする。たぶんね。
「そうだよな! 頑張ろうぜ、真二」
 そう言って、ノートを閉じた。表紙には真二&浩輔という文字が書かれている。

 静まり返った深夜のプラットホーム。俊介は構内の一角にあるベンチに座り、終電の到着を今か、今かと待ち侘びている。構内を見渡すが、他に人気はない。
 俊介はスーツに身を包み、黒皮の手さげカバンを大事そうに抱えている。額にはうっすらと汗を浮かべ、落ち着かない様子で腕時計を見ている。
「だめだっ。トイレ!」
 カバンを抱きかかえたまま、急にベンチから立ち上がった。
 彼から見て右側の、約十メートル先にトイレの標識が見える。カバンを右手に持ち替え、足早にトイレへ向かった。



「まだ十五分もあるなぁ」
 腕時計に目を向け、ふぅと息をつく。
 蛇口を捻り、両手で水を掬い上げて顔を洗う。そして濡れた手で内ポケットを探ってハンカチを取り出し、顔を拭いた。
 それからハンカチをくしゃくしゃに丸めて、内ポケットに仕舞い込み、鏡を見た。指先で右の眉毛をなぞりながら、ひゅー、ひゅーと口笛を鳴らしている。

 ――ギィッ。
 軋むような音。同時に俊介は鏡越しに、真後ろの戸がゆっくり開いていくのを見た。はっとして身体を反転させて振り返る。
 半開きの戸。そこは清掃具が収納されているスペースである。
「誰かいるの?」
 戸に向かって声をかけてみた。
 彼は戸を見つめ、何かを考えていたようだった。緊張で、手に汗をかいている。
 俊介は意を決し、身構えながらそっと戸を押した。

 中には長い茶髪の少女が、地べたに体育座りをしながらうつむいていた。青緑色のブレザーから推測するに、この辺の女子高生らしい。
(なんで女子高生がここに……)
 まさか、男性用トイレに少女がいることを、俊介は疑問に感じた。
 しかし、すぐに彼は別のことを考える。口元が自然とゆるみ、ニヤニヤしながら少女を見下ろしている。
「大丈夫っすか?」
 浮かれた声で話しかけてみたが、少女はうんとも寸とも言わない。俊介は少女の前に屈みこんで、更に続けた。
「酔ってる? どっか暖かい所でもいこっか」
 俊介は笑みを浮かべながら、少女の方に顔を近づける。

「あっ」
 俊介の表情はみるみる青白くなっていく。そして思わず左手で自分の口をふさいだ――少女の右腕をしたたる血。刃物による傷であることは疑いない。
 少女の右腕が、俊介の左足をぐっと掴んだ。
「うわぁ!」
 俊介は腰を抜かし、その場に座り込んだ。
「助……けて……」
 全身を震わせながら、何かに怯えている少女。俊介は下から少女の顔を覗き込む。
 涙ながらに助けを求める少女から、瞬時に傷害事件の可能性を考えた。
「今誰かを呼んでくるよ!」
 そう言って俊介が立ち上がろうとする。少女はすぐさま、彼の足にしがみ付く。
「お願い。行かないで。一人にしないで」
 少女は弱々しい声で、嗚咽を交えながら訴えかけている。
(落ち着け! 落ち着くんだ俺!)
 俊介は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。彼の額から汗が流れ、頬を伝う。
 再びその場に屈みこみ、少女の頭を撫でながら落ち着かせようとした。
「俺はここにいるからね。落ち着いて! まず名前を教えてくれない? 俺は俊介」
「真衣」
「オッケー。真衣ちゃん。何があったの?」
 俊介の問いかけにも、少女はただ両手で頭を抱えて、全身を小刻みに震わせているだけだった。
「真衣ちゃん、ごめんね。無理に言わなくてもいいから。よしよし」
 少女の上半身を抱き寄せて、彼女の背中をさすった。

「立てそうかな、真衣ちゃん? とりあえずベンチで横になるといい」
 俊介は少女の身体をぐっと抱き寄せ、彼女を抱き上げ、外に連れ出そうとした。
「だめっ! あいつがくる……ダメぇっ」
 少女は俊介の肩越しに鏡を見て、奇声に近い悲鳴をあげた。
「えっ?」
 少女の言葉に俊介は首を傾げた。
 少女の言葉に突如背後が気になって、俊介は真後ろを振り返る。俊介と少女が鏡に映っているだけだ。
「真衣ちゃん、鏡がどうかした?」
 再び俊介が少女の方を向くと、彼女はぐったりとして気を失っていた。
「ちょ、真衣ちゃん? 真衣ちゃん!」

 ドスンッ。
 何かが壁にぶつかるような音がした。それも隣から。
 俊介は少女をその場にゆっくり下ろし、忍び足で隣の大便用個室の前に立った。ごくりと唾を飲み、ノックする。
 ふと足元を見ると、液体のような何かを踏んでいる。靴を前後させてみると、ぬるぬるしている。
 俊介は即座に理解した。個室の内側から、おびただしい量の血が流れだしていることを。
「まさかっ!」
 俊介は勢いよく扉を押す。中には中年のサラリーマンが、壁に寄りかかっている。垂れ下がった中年の指先から、血がしたたり落ちている。
 俊介はぶるぶる震える左手を、スラックスのポケットへ突っ込み、携帯電話を取り出した。右腕で左手首をつかみ、なんとか携帯を開こうとする。

 カッシャーン。
 携帯電話を床に落とした。携帯電話は床を滑って、洗面台の前で止まる。
 俊介はすぐに携帯電話を取ろうとして足を滑らせ、顔から床に倒れる。それでも鼻を押さえながら床を這いつくばり、携帯電話に左手を伸ばした。

 携帯電話を掴んだとき、少女の足がその手を踏みつけた。俊介が見上げると、不敵な笑みを浮かべた少女が立っていた。
「ま、真衣ちゃん。そ、そこに、ひ、人が死んでるっ! 警……さ。その足をっ」
「俊介だっけ? ごめんねぇ」
 少女は笑顔を見せながらその場に屈み、左手に持っているカッターを俊介の首にあてた。
「ばいばいっ」



 返り血を浴びた少女が、洗面台にある鏡と向き合うように立っている。
「あたしを道連れにしよってリストカットしたみたいだけど。あたしを止められなくて残念ねぇ、真衣。」
 血が付着したカッターの先端を、舌ですべらすように舐めながら、上目遣いで鏡を見る。
 鏡には、泣きながら何かを叫ぶ、もう一人の少女が映っている。
「今度はあんたが鏡の中よ。これからはあたしが真衣を演じてあげる」
「ねえ……私たちが出逢った日のこと、覚えてる?」
 桜の木の下で悠子は目を細めている。見る限りでは九分咲きといったところか。どこからか春風に乗って桜の花びらが飛んでくる。
「お前に告白した時も九分咲きだった気がするな」
 俺がそう返すと、悠子は満足そうな表情を浮かべた。
 まるで一枚の絵を見ているような気分になる。微笑みながら桜の木の下に立つ白い少女。吸い寄せられるようにそっと悠子に近づこうとした時、何かに躓いた。
「きゃっ」
 彼女の声がする。俺は大きくバランスを崩し、とっさに両手で地面をついた。そっと後ろを振り返ると、花壇の仕切り間に靴紐が挟まっている。
「気をつけてよね」
 悠子が心配そうに近づいてくる。俺はゆっくり立ち上がり、手についた砂を払った。
「わざとだよ」
 一寸吹聴してみせた。彼女は白い歯を見せながら、くすくす笑っている。
 急に風が吹き始めた。近くで干されているベッドのシーツが大きな音を立てて靡いている。ようやく回復したばかりの悠子の体を気遣う。
「悠子。そろそろ病室に戻ろう」
 そう言って俺は彼女の肩に両手をかけた。ところが彼女の態度が豹変する。
「なによ! また私にあそこへ戻れっていうの! 私を病人扱いして」
 突然口調が変わり、彼女は大きく右腕を振り回して俺の手を払いのけた。
 さっきまでの悠子とはまるで別人である。髪は乱れ、肩で息をしている。怒りの目で俺を睨みつけている。彼女のあまりの変わり様に言葉を失った。
「私は!」
 彼女は交差した刃物のような物を取り出した。すぐに右手に握られているそれがハサミだと理解した。
「だめだ! 悠子!」
 とっさに両手で彼女の右上を掴んだ。
「放して!」
 なおも抵抗する彼女からハサミを奪い取って遠くへ投げた。これ以上ここにいると何をしでかすか分からない。
「私の赤ちゃんを返して!」
 騒ぎを聞きつけて看護士が駆けつけて来た。俺は子供のように泣きわめく彼女を強引に抱えあげて病棟に向かう。辺りには悠子の叫びが響き渡った。


 悠子は存外結構な女性だった。三年前に花見の場所取りで偶然出遭う。折角彼女がとった場所を譲ってくれたうえに、手料理を振舞ってくれた。その後紆余曲折はあったが、二年の交際を経て昨年入籍する。
 そして悠子の妊娠。紛れもない、俺たち二人の間の子だ。そんな我が子の誕生を今か今かと待ち望んだ。
 だが、その瞬間は訪れなかった。三ヶ月前の真冬に、悠子の乗った車は対向車と衝突する。妊娠七ヶ月目に入り、性別確認のための通院途中に起きた不幸。運転席が大きく歪み、彼女は下半身を挟まれた。俺は職場で事故の一報を受け、取るものも取り敢えず病院へ駆けつけた。
 幸い悠子は一命を取りとめる。それを聞いてほっとしたのもつかの間、医者から死産を告げられた。俺は幸せの絶頂から急に絶望の淵へ叩き落され、三日三晩も泣き通した。
 それから悠子は順調に回復した。けれど彼女は事故以来子供の話になると、さっきのように発狂する。脳に異常がある訳ではない。
 要するに彼女は現実を受け入れられないのだ。彼女には何度か事故の話を聞かせようと試みた。しかし悠子の中ではまだ、子供は生きていると信じているらしい。


 病室に暖かい日の光が射し込んでいる。時折、風に煽られた薄黄色のカーテンがふわっと揺れた。悠子は病室のベッドの上で静かに眠っている。
 散々ベッドの上で暴れたあと、彼女は気を失った。俺の腕には爪で引っ掻かれた痕が無数に残っている。
「辛かっただろう……」
 彼女の手をさすりながら呟いた。今の俺にできるのは、一日も早く悠子が立ち直るのを願うのみ。
「あなた、そこに居たのね」
 悠子が目を覚ました。顔をしかめながらベッドに両手をつき、無理に体を起こそうとする。俺は椅子から立ち上がり、彼女の背中に手を回して支えた。
「ねえ、子供の名前、そろそろ決めてしまわない?」
 急に思い出したように悠子は言う。嬉しそうに微笑む彼女を見て、思わず視線を反らしてしまった。
 悠子だっていつかは事実を受け入れなきゃいけない。俺たちの子供はもうこの世にいない。けど無理に現実へ引き戻そうとして、また彼女を傷つけてしまうかもしれない。葛藤の末、俺は彼女に話を合わせることを選んだ。
「んー。そうだなぁ。男の子だったら……」
「私は女の子がいいな!」
 話題を振っておきながら俺の話は無視かい。
「悠子はどうして女の子がいいの?」
「女同士、たくさん恋の話もできるし」
 彼女は自分が考えていた構想を楽しそうに披露している。他人から見れば、さっきまで暴れていたとは到底信じられないだろう。
「女の子なら家事を手伝ってくれそうだし」
「俺は娘を嫁に出すとき泣くかもしれないな」
 そういって悠子と顔を見合わせて、小さく笑いあった。
 俺は大きく息を吐いて天上を見上げた。小さなひび割れをいくつも発見する。それに何となく壁の色は黄ばんで見える。何年前に建てられた病棟なのか少し気になった。
「ねえ、ベッドの下を見てみて」
 悠子がベッドに人差し指を突き立てた。一体何だろうとベッドの下を覗き込んだ。何やら箱がみえる。早速引っ張り出してみると、それは裁縫箱だった。
 開けてみると中から編みかけのマフラーが出てきた。編み針に深い青色の糸が繋がっていて、先端をピンのようなもので止めている。
「それはあなたの分。奥にあるのが子供用よ」
 そう言われて裁縫セットを掻き分けてみる。すると底の方から、赤い糸で編まれたマフラーが出てきた。
「これを悠子がひとりで?」
「少しお母さんに手伝ってもらったりしたけど……だって母親になるんだし」
 彼女は顔を赤らめてうつむく。俺は赤い糸で編まれたマフラーを両手でひろげた。二十センチはありそうだ。
「すごいなあ。まあ、時季は違うけど」
 そう言ってマフラーを折りたたみ、悠子の膝上にそっと乗せる。
「ほら私さ、明日退院じゃない? 明日には子供と一緒に帰るの」
 悠子は掌を重ね合わせて待ち遠しそうに語った。手のしわ同士を合わせて幸せ、なんてテレビでやってたっけ。今の彼女は本当に幸せそうな顔をしている。
「ところで、名前の件だけど」
「うん」
「俺は女の子だったら、さくらって付けたい」
 そう言って窓の外に視線を移した。さっきまで晴れ渡っていた青空はどこへやら。分厚い雲が上空を覆っている。いつ降り出してもおかしくない。再び悠子の方を向いて続けた。
「それだけじゃないぞ。ちゃんと名前に意味はある。花言葉でいう」
「優れた美人、精神美でしょう?」
「それそれ。きっと悠子にそっくりな美人になるよ」
 言い終わると同時に小さな異変に気付く。急に視界がピンボケになった。悠子の輪郭が二重にも、三重にも見える。
「三人で帰ろう……」
「あなた、泣いてるの?」
 はっとして袖で目をこすった。自分でも溢れ出る涙を止められない。
「この手で抱きしめたかったなあ」
 決して悠子の前で涙を見せまいと耐えてきた。悠子が生きてさえいれば、またやり直せると自分に言い聞かせてきた。それでも子供のことが忘れられない。父親として、男として。
「あなた……ごめんね。私、子供産めなくて。ごめんね。ごめんね。」
 赤いマフラーがするりと床に落ちた。悠子はベッドから身を乗り出して飛びついてくる。俺は彼女の細い体を強く抱きしめて泣いた。


――あれからもう一年か。
 歩行者用通路は桜の花びらで覆い尽くされている。少し先の方では黄色の帽子を被った園児達が走り回っていた。
 今は久方ぶりに休暇をとって悠子と散歩している。街全体を、うたた寝を誘うような春の陽気が包んでいた。悠子の手を引きながらゆっくり桜道を歩く。
「なあ、悠子」
「なに? あなた」
 悠子は笑みを浮かべている。大きなお腹を抱えながら。俺たちは事故を乗り越え、新しい命を授かった。今度こそ幸せな家庭を築けるように。
 ちなみに、お腹の子は女の子だそうだ。名前はすでに決めてある。この子にさくらと名付けよう。
「悠子は山桜の花言葉を知ってるかい?」
「精神美でしょう?」
「それは桜。山桜は貴方に微笑む、だそうだよ」