世の中は、

自己責任と自己満足で成り立っていると思う。

成り立つべきだ、というほうが、「どちらかというと」きれいなのかもしれない。


持論で、

恩着せがましく生きるより自分が自然と為せることが人のためになることが一番よい、ということがある。

これが自己満足。これがたくさんあつまれば、価値観がそれなりにあった素晴らしいコミュニティができあがる。


それと別に、自己責任。

その例によく取り上げるのは「恋愛」だったりするんだけど、

そうでなくても、「仕事」もそう。

職場にある不満を、どう解決していくか、となったときに、まず何が正しいのか改めて考えてみる。それも必死にね。自分なりにいろんな角度からね。

それでも、自分が正論だと思ったら、どの方法を使えばそれが解決できるか考える。

ここで出会うよくある問題が「無能な上司」である。

これを乗り越えるには、行動力やら勇気やら空気を読む力が必要になる。きっと。日常の仕事をしているうえで、その一つ一つがその会社の一部になっているという意識を常に持って仕事をするのはかなり難しい。のかもしれない。どうだろね。

話がちょっとそれたけど、仕事がもうどうにもなにかおかしい!ってなったら転職するのが大きい選択肢の一つなんだけど、

つづけられなかった自分を責めて鬱になったり、どこの会社も馬鹿か、と思ったり、働いてみたらいろいろ違ったとか、もうそんなこと全部含めて、そこを選択した自己責任なんだ。


ここであらためて言うと、恋愛やら仕事やら、というか人生自己責任。

よく未成年が、勉強ができないことや非行に走る自分の根源を親のせいだという。

それはもちろん一理あるんだけど、

おれはそこから考えた。

彼らには他に逃げ道がないからだ。

自分で責任をとることができない切なさや悲しさやふがいなさや世界の狭さを

精いっぱい親のせいする。

それは悪いことなのかもしれないけど

彼らはそうしないと死んでしまっていたかもしれない。

責任を放棄して誰かのせいにすることで、生きているのかもしれない。


それって大人もそうだよ。


人間を押しつぶそうとする力は世の中にたくさんある。


強くないといけない。


強いとは

前を向いていること。


最近、ふと敬語について考えた。

年上には敬語を使うべきっておかしいのかもしれない。

長く生きていることが偉い時代ではない。知識の多さではない。

お互い何にも知らない相手に敬語を使うことを常識というなら

歳下にも敬語を使うべきである。それがたとえ子供だろうとね。

全ての人を敬うという姿勢を確立するために。