■娘を狂わす寺小姓


「火事と喧嘩は江戸の華」などと言われて言われるくらい、昔の江戸は火事が多かったそうです。
江戸時代の日本の人口は2600万人程度と言われその内、狭い江戸城下に100万人の人々が密集していたそうです。江戸は人と建物が密集していたので火事が多かったのではとおもいます。
でも、江戸の発達は火事や地震があったから、焼け野原になるたびに江戸城下は郊外に拡大され、人口も増加していったのだとおもいます。都市発展のためには火事も必要な時代だったのかもしれません。

でも、そのことでまた人口が増えて、家が密集して火事が増えるみたいな悪循環もありました。

江戸時代の267年間で49回の大火があったそうです。同じ期間では京都9回、大阪6回と言われますから、ダントツで江戸が多かったのです。


そういう中で明暦3年(1657年)1月18日~19日にかけておきた「明暦の大火」は、火災史上最大の惨事として歴史に残っています。死者数は11万人と推計され、山の手から出火した火災はおりからの北西風により城下を延焼し江戸城天守をはじめ多数の大名屋敷が燃え、江戸市街の6割が焼失したそうです。
この明暦の大火
は江戸時代最大の被害を出した火事であり、これにより江戸の都市計画や消防制度が大きく改革されたことでも有名です。
火事については仮名草子「むさしあぶみ」
(浅井了意作)に、この大火の記述が詳細に書かれています。

今日、お話するのは、この火事の通称「振袖火事」と言われる因縁話です。

[公式]新説あぶな絵伝
との起こりは麻布百姓町(現在の六本木ヒルズ付近)で、質店を営む遠州屋彦左衛門の一人娘「梅乃」が母に付き添われて上野の山へ花見に出かけた時に、偶然見かけた寺小姓(注1)に一目ぼれしてしまうことからはじまります。

その小姓は、雪をあざむくような白い額に、前髪がはらりとふりかかって、彫り込んだようにくっきりした目鼻立ちの子でした。これまでに見たこともないような美少年だったそうです。「梅乃」は、この名さえしらない寺小姓にひと目惚れをしてしまいます。家に帰ってからも、その面影が焼き付いて離れなかったったのです。

数日して梅乃は母に新しい振袖が欲しいとねだりました。紫縮緬(ちじりめん)に荒磯と菊を染めるようにと色や柄についても細かく注文しました。それは上野山で見かけた寺小姓の振袖柄でした。母は言いなりに、染物屋へあつらえを依頼したそうです。
ところが、振袖が仕立て上がってきた日から、梅乃は自分の部屋に閉じこもりその衣装をひしと胸に抱いて、小姓を想像しながら自らを慰めるようになりました。目を閉じると、上野山で会った寺小姓の横顔が浮かび、微笑みを含んだうるんだ目で見つめらっれているような強烈な印象に全身が包まれてしまうのでした。振袖を胸に重ね指で優しく乳房に触れると、それだけで全身が熱くなっていきました。(次回に続く)


(注1)寺小姓は奈良時代、貴族の子弟が幼少のうちに寺に入り、僧の日常生活の手助けをすることが制度化されていました。寺院はもちろん女人禁制ですので、男児を使ったわけです。さらに時代が下ると、貴族に限らず俗人の男児が寺に預けられ、成人まで学問修行をしながら僧の供侍をすることが一般に行われるようになりました。いわゆる小坊主とは違います。これら有髪の少年達を、寺稚児,垂髪,渇食(かっしき)などと呼びます。武家でも、家を継げるのは長男だけ、次三男となると、口減らしのため8歳ころになると手習いの名目で寺にだされたのでした。

これが寺小姓といわれるものです。表向きは手習いですが実際は女をもてない坊主のアチラの処理を勤めることも多かったそうです。


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