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是非に及ばず

 
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戦争が嫌いです。

今夏、ラジオのパーソナリティがこんなことを言いました。

「今日8月6日は、世界初
 原子力爆弾が戦争に使われ多くの人が亡くなりました…」

とても落ち着いた静かな口調でした。
しかし、「世界初」という言葉はまったくそぐわない表現です。

世界初と聞いてどんなものを想像しますかはてなマーク
おうおうにして、いいときに使われるべきと思います。

若そうな声だったので、ちょっと使い方を間違えた程度かもしれないですが、
自分の声を拡散させていることをもっと自覚しろメラメラ、と腹が立ちました。

言葉は時代とともに変化していきます。
でも、原爆投下についての認識まで変わってしまうのではととても怖くなりました。

わたしならば「人類史上最悪、殺戮に使われた」と言います。

肥田舜太郎先生というお医者さんがいます。
肥田先生は、広島の原爆投下直後に内部被爆と向き合った先生です。
「核の傷」という映画にもなっています。

この映画が上映されたときに同時に講演会も行われました。
そのときに肥田先生が何を話したか。

文字におこしましたので、お時間のある方は読んでみてください。
(勝手に録音して、文字おこししました…スミマセン)

聞き取りづらい箇所も少しあって、ブランクになっている単語もありますが、
内容には差し支えない範囲です。

話し言葉をそのまま文字にしています。


********************************

2012年4月7日 肥田舜太郎先生(アップリンクにて)

いろいろずっと考えてみてひとつ、自分がみんなが言わないことが、ひとつある。
それは、広島長崎の被爆者、生き残った人々と、ずっと今日まで一緒に生きてきた。
その人たちに僕ができることは、放射線の病気が出て、途中からおかしくならないように健康を守って、長生きしようじゃないか。放射線に負けないで生きる生き方を自分たちで工夫して、頑張ろうという運動をやってきた。

それがある程度30年間たくさんの人と一緒にやったので。
要するにひとりひとりが持っている命が放射線と闘って自分を守ればいい。発病させなければいい。僕も発病していない。他にもいま21万人生き残っています。大部分が70、80代。なかには90の人もいる。不思議なことに仲間はみんな死んでいても、この人達は元気でいま生きている。

何にも考えず、何もしないできた人ももちろんいます。だけどその大部分はわたしと一緒に長生きしようとという努力を、自分でした人なんです。被爆者がやった努力は、いま新しく被爆者になる人も、できないわけはない。

それをやるしかない、ということをわたしは話してあげて。当たり前のことを言っているんだけどね。で、なんでそんなことを言える医者になったかというと、それは当時、自分が助かった直後は、何が起こったかは、なんにもわかりません。最初は火傷ばっかりですから。

最初の3日間はやさか村というところで、逃げてくる広島の被爆者、みんな黙っていてもみんな目に入ってくる。その人達が目の前でみんな死んでいく。触った人もいれば、脈を取った人もいます。聴診器宛てた人もいる。なにをやっても、絶対に、なにが起こったか分からない。
そして火傷で死んでいった。最初の3日間は、文句なしに火傷で死んだと。医者として確信していました。

というのは村長が、のちのちみんな亡くなると火葬にします。そして骨になる。遺族の方が後で来られて、お父さんとか亭主とかの骨はもらうわけ。そのときに、自分の身内はなんで死んだのですか、ということを聞かれると村長は。それにちゃんと答えないと申し訳ないから、先生もこんな最中でそう簡単には病名はちゃんと決められないだろうけど、先生が常識的にみて、こうだろうというものを記録しておいてくださいと。

亡くなった方の名前は分からないんです。そういう方はいっぱいるんですけど、年格好とか、兵隊とか、兵隊じゃないとか、女性だとか。

何かの目印でね。この人は何日何々と。全部「火傷」と書きました。それ以外のことは思いも付かなかった。

わたしの自分の病院はみんな全滅して、みんな死んだんですけど、その現場にいませんでしたから。爆弾が落ちた瞬間に、みんなどんな風に死んだのかっていうのは想像する以外、手がないんです。そのときはいなかったから。要するに逃げてきた人が、
ほとんど即死と同じような状態で死んでいく。うんといました、それは。
みんな火傷している。それ以外なにも分からない。なにがどうなっているのか、聴診器を当てたって分からない。脈を取ったって分からない。

ということで、「原爆」という言葉は、3日目に初めて聞きました。特殊爆弾というのは、発表していたけど。

どんなものかは分からない。3日目になって原爆という言葉が公の放送で出てきた。とはいえ、聞いたって原爆そのものがなんだか分からない。

何のコトやらです。特殊爆弾と言われても……。ところが、だんだん死んでいく人の症状が変わっていくんです。特に変わったのは4日目の朝。

8月9日の朝だね。その日の朝から死ぬ人の症状が内科的な症状が出始めた。それまでは火傷ですから、僕からしてみれば外科の領域なんです。

人間の体は1/3以上が焼けますと、助からないと学校で習っていましたから。そんな火傷もそれまで見たことがないですから、そのとき初めて見るんですね。で、死んでいくのを見ると、なるほどやはり教科書で習ったとおりで、半分近く焼けてしまっていましたから、1/3で死ぬとあるから当然だと思っていたんです。

ところが4日目の朝。援助のために九州や四国から軍隊にいた軍医、看護婦、衛生兵というのがたくさん命令で広島へ援助にきたんです。

わたしがいた八坂村にもかなりの数の応援部隊がきました。正確にはわかりませんが、看護婦さんがざっと百名、あと衛生兵という軍医の代わりに怪我を縫ったり、治療をする教育を受けた兵隊さん、衛生兵っていうのがやはり百名。小さな村へ医療の分かる人間が二百名は来た。で、軍医は23名くらい。それまでにいた僕たちと合わせて総勢30名くらい揃った。

●●●村というのは小さい村で、人口は1,300人くらいの村だった。家の数が134という小さな村だった。そこへどんどん入ってきた。村にあった民家は全部爆風で屋根が傾いたりで、入れる家がない。家族がみんな外へ出て田んぼのあぜ道にいるような状態ですから、患者さんが来ても屋根の下に入れる場所がない。小学校なら大丈夫かと目指すんだけど、校庭があるくらいで。結局来た人は地べたにみんな眠る。大きな農家の庭とかに。村中の道路という歩くところがないくらい道路に人がいて、みんな死んでいく。そんな状態なかで、僕らはよく気が違わなかったと思うくらい仕事していた。

4日目の朝から内科的な症状がでたというのは、
援助にきた看護婦さんが朝早くから白衣に着替えて、みんな村の表へ出てくれて、道路に寝ている患者を診て歩くんです。おかしいと思う人は熱を測る。

ちょうどその朝から発熱が始まったんです。僕たち内科の医者は、熱が出るってことは病気であたりまえなことと思うなんですけれど、40度を超える熱って言うのは医者でも見たことはあまりないんです。戦地から帰ってくるマラリアっていう病気の発作が起こると40度以上とか、もうひとつはチフスという伝染病。これが頂点にたっして命がなくなる寸前に40度ほ熱が出る。日常的に病院で見るは肺炎の末期にまれに40度以上とかがある。9度8分以上というは滅多に見たことがなかった。看護婦さんがおかしいと思って測るとみんな40度を超えているんです。

看護婦もビックリして大きな声で、「軍医殿!」と医者を呼ぶんです。まだ寝ていた医者も呼ばれて、とにかくとんでいきました。みると火傷した人間が湯気を出しながら、寝てるんです。確かに測ってみると40度2分とか3分とか熱がある。なんだろうと思うんだけど、よく分からない。

だから一所懸命に診る。そうすると、特徴がある。火傷しているその鼻と口と、みなさんがあかんべーをするここから(目の下)、血が垂れる。鼻血や歯茎から血が出るのは普段でも見たことがある。でもそこで熱を出して倒れている人間は常時たらたら血があふれ出ている。いちばんビックリしたのは、まぶた。ここから出血するのは、医者も見たことがない。そんな病気はないんです、眼科にも。なんでそこから出血するのか分からない。その人の体で何が起こっているのか、火傷以外分からない。

寝ている人はムシロを敷いて寝ているんだけど、苦しいから上を向いて寝れないんです。心臓が苦しいから、みんな横を向いて足を縮めて、ほっぺたを地べたにつけて寝ている。医者としては熱が出ているから、常識的にまず一番最初に口の中を見るんです。風邪を引いて扁桃腺が腫れれば、39度8分くらいの熱は出ますから。

ひょっとしたら、これかもしれない。患者さんの横にひざまずいて診ているのだけど、患者さんは苦しいから地べたにほっぺをつけ横向いたまま。僕が口の中を見るには、上を向いて貰うか、わたしが横へ寝っ転がって口の中を覗くしかしょうがない状態。仰向けにしたいところだけど、苦しい。そんな人を無理矢理そうするわけにもいかないから、自分が横になってほっぺたを地面に付けて口の中を見ようとした。ところが横になって相手の顔の真正面に自分の顔を添えたとたんに、もの凄い臭いにおいがした。普段ね、みなさんを診察室きて、あーんしてくださいと口の中をみる。そりゃ臭い人もいますよ(笑)悪いけどなかにはね。でも顔を背けるくらいの臭いの人はいません。あのときのあの臭いは、特殊だった。瞬間で僕らは分かるんです。腐っているんです。腐敗が始まっている。肌、本人は生きているのに、目から血が出て、口の中に腐敗が始まるっていうのは理由が分からないんです。死んでから起こるんですから、腐敗っていうのは。まだ本人は生きているうちに、なんで口の中が腐っているのか分からない。おかしいと思ってもう一度、何が起こっているのかと考えるんです。

すると周りに寝ている人が、わたしが迷って考えているのを見て。みんな口が焼けていますから、ものが言えないんです。
ものを言わないで手振りで教えるんです。腕を持って腕の内側(上腕部の内側)を、こうやって指で指してここを見ろと2,3人が言っているんです。
なんだか分からなかったけど、焼けている腕を持ってそうっとあげて、内側を見るとそこは焼けていない綺麗な肌なんです。そこには紫色の斑点が出ていた。それが特徴でした。そういう斑点は学校で習いましたが、実際の患者では見たことがなかったんです。ただ講義で聞いたのが頭のどこかに残っていて、ここに紫色の斑点がでるのは血液の病気で入院した患者が重症になって、
もう1日2日で亡くなるというときに出る。

紫の斑と書いて「紫斑(しはん)」といいます。斑点を見て、教科書かなにかで見たのを覚えていて、これが紫斑かと頭のなかでポッと出てきて。これがあの紫斑かと。ところが次から次に死ぬ人、みんな紫斑が出ていた。だから寝ている人は死ぬ前に、自分の腕をお互いに見せ合って、紫色の斑点が出ているか見るんです。で、まだ出ていないと分かると安心する、という状態があったけどね。

あるとき人が死んだので、そこへいっていろいろ処置をしていたら、そばで寝ていた兵隊らしい人が、わたしの脇(洋服)をつかんで「軍医殿、軍医殿!」と引っ張るんです。「なんだ?」と聞くと、「わしゃピカにはあっとりませんで」と言う。要するに広島の言葉で言うと、自分は原爆にはあっていないというんです。原爆のことをピカというんです。最初にピカッと光りますからね。それで光ったあと、ドンッと衝撃がくる。圧力があったり地面が飛び上がったり、自分の体が放り出されたり。ピカドンといった。

わたしは「原爆にあっていない人間がなんでこんなところにいるんだ?」といったんです。そしたらボソボソと話し始めて、自分は広島にはいなかったと、爆発があったときは50キロ離れた福山という広島のとなりの町にいたと。新幹線のひかりでくると広島の次が福山の駅。お城があってきれいな町なんですよ。そこで部隊に入って兵隊になったという。原爆のことは知らないけど、広島でなにかがあったと。だから集められて広島へ救援のためにきたのだという。

何が起きたかは分からないけど、時間のかかる任務だとトラックに乗せられてきたと。広島に到着早々に倒れている人や生きている人を助けたり、死体を片付けたり、48時間飲まず食わずでいたそうです。それで8日の朝。太陽が出て起きて、さあ働こうとしたら脱水症状を起こして、意識を失って倒れてしまった。仲間がビックリして担ぎ上げて、医者に診せなきゃいかんと。それで近所の村に連れて行くと医者がいっぱいいて治療が行われていた。そこへ仲間が担いで連れてきて、一番近くで寝ていた被爆者の集団の中に置いて帰ってしまったという。ここで寝ていれば医者が来て診てくれるだろうと思ったらしいんですね。

そこで寝ていてそのうち気がついた。僕が行ったころには、「軍医殿!」といって話しかけられるくらいになっていた。そのときはわたしも申し訳ないことしたと思っているんだけど、ピカにあっとらんと言ったそのことをしっかり確かめなかった。その時は原爆にあっていない人は診る暇もなかったんです。そればっかりで死んでいくわけだから、それで忙しかったので。原爆にあっていなくて、ここにいるなら、勝手に寝ていろと、そのうちに治るといって。わたしはその人の話もろくに聞かずに行ってしまったんですね。

少し経ってまたそこで人が死んで呼ばれて。あ!と思い出して「ここで寝ていた、あのピカにあっとらんといっていた兵隊はどうした」と聞いたんです。「死にました」と。ええ!?と、僕にしてみたらビックリです、本人は原爆にあっていないと言っていたのに。元気に寝ていたのに。なんで死んだかわからない。原爆にあって死んだというなら、みんなと一緒だけど。
血が出て、熱が出て、口が臭くなって、頭の毛が全部抜けて、紫斑が出て。わけが分からない。そういう死に方をするのは原爆にあった人だと、たくさん見ていたからそう思っていた。本人は原爆にあっていないというのに、同じ死に方をした。

わからんです。わからないことだらけ。つまり、その日をはじまりにして、自分が当日広島にいなかった。広島が大変だと聞いて翌々日に広島に帰って自分の家へいったら跡形もなく焼けていて、家族が全員どこへいったかわからんと。みんなそれを探して焼け跡を歩いた。そういう風にした人たちにも変な症状が出て、倒れて、診てくれと。つまり明らかに原爆にあっていない、はっきりしている。物陰に隠れていたとかではなく、はじめから広島にいなかった。そういう症状がではじめて、ずうっとそれを診ている。


だんだん、だんだん衰弱して起きれなくなる。本人が死ぬ間際にわたしの手を握って、「先生、わたしを殺したのはいったいなんなのですか」と。原爆っていうのは知らないんです本人は。
そうしてどんどん死んでいく。わたしは医者ですから、人が死ぬのが一番嫌なんです。助けられないのが。なんで死ぬのか分からない人が、聴診器を当てているとすうっと死んでいく。そのひとつひとつの消えていく命が、僕にとっちゃたまらなく、悲しい。わからないことで死んでいく。せめて、なんで死ぬのか。わかりたい。いくら診ててもわからない。

そうやって消えていく命を何百も経験する。そのうちに理屈で、命が大事と思ってた。その目の前で人の命が、病室で肺炎とかなんとか病気で死んでいくのと違って、なんだかわけわからんのに、死んでいってしまう。しかも本人は原爆にあっていないという。そうするとどうして死ぬのかわからない。悲しいんです、とっても。だからひとつひとつなくなっていく命に、死なんでくれ、生きててくれと言いながらね、お別れした。

その経験がね、いままで人間の命が大事だとか、命とはなんぞやなんていう論議をしてね、色々なことを言っても、なにひとつ自分を満足することは何も出てこない。なんなんだという思いが強くなって。いままで何気なく原爆にあって死んでいく人をみて、死ぬのが当たり前みたいなつもりで火傷の患者を診てた自分にこんな医者であっていいいのかという気がずっとしていた。その人達の命に、命そのものを教えられた。

その病気のことが分かったのは30年後。1945年でしたから、1975年にアメリカへ行って、さっき映画で出てきたスタングラスという医者に会って、彼の書いた本をもらって。体に入った放射線が長い時間をかけて体を壊したのがその症状だということを教わって、いわゆる内部被爆という問題をはじめて、30年経ってわかった。それから勉強をはじめた。日本中でいま、内部被爆のことをこういう場所で話せる医者は僕ひとり。誰もいない。

なぜそうなったか。占領したアメリカ軍。9月2日(1945年)からアメリカ軍は武力をもって日本を占領した。そのときに占領司令官が、たくさんの原爆の被害者がいる、死ぬ者もたくさんいる、どっちも爆弾そのものもそうだけど、患者の被害も全部アメリカの軍の機密であると。だからやられた人間が、わたしの体がこんなになったとかを喋ってはいけないと。アメリカ軍隊の秘密なんです。違反した場合は占領軍が、重罪に処する。そうやって脅かしたんです。そして日本の医者と医学者に対して、みなさんは患者を診るのが商売。患者が診てくれと言えば診なければいけない。診るのはよろしい。ただ、その結果を詳しく書いて残して、それを論文にして、原爆にあった人間はこんな風にして死ぬとか、そういう記録を絶対に作ってはならないと。医者同士、学者同士もそのことを研究しあってもいけないと。違反すれば重罪になる。日本中の学者と医者が黙ってしまった。なにもしなくなってしまって、それが7年間続いた。アメリカ占領軍のいるあいだ。

だから日本の国の中で、医者であれ、学者であれ、あるいは患者本人であれ、被爆した体の変化について、誰もなにも喋れない。記録も出来ない。7年経ち、アメリカが引き上げたあと日本が独立したら安保条約を結んだ。アメリカの核兵器で日本は●●●だから64年間、日本の学会は放射線の被害になんにも調査も勉強もしていない。こんな珍しいことが起こったのに。

よその国に行くとみんなに言われるよ。「ドクターの貴重な経験や話を、わざわざドイツまで70過ぎて話にきてくれてありがたい。でも我々が聞きたいのはあなたの体験じゃなしに、日本政府が政府としてまとめた原爆の被害が知りたい」

そんなものは日本にはない。アメリカの軍事機密をいわれて、日本の政府は何もしなかった。何人被爆したかの調査もしていない。ビックリするよ、みんな。去年の震災でたくさんの人が死んで、最後のひとりまでいま調べている日本政府が、なぜあのときの記録は作っていないのか。アメリカが軍事機密と言て制限されたと話して初めてみんな知る。

いまみなさんが広島長崎のことを本などで読んで、広島と長崎に原爆が落ちたことを知らない人はこの中には誰もいないと思う。だけども、火傷のこと、町がひとつなくなった、破壊された、これは知っている。放射能でどういうふうに人が死んだかは、誰も知らない。そんな状態が起こったのは、アメリカの軍事機密だといって日本人を沈黙にさせたから。これはアメリカの利益のためなんです。生き残った命はそのために、迷惑している。そのことすら日本政府は報告していない。政治家は口にすればアメリカから睨まれる、不利になる。だから言わない、これがいまの日本の実情です。わたしはわかりやすく、被爆者に、みんな死ぬなと。放射線が入ってもみんなが病気になって、みんなが死ぬわけではない。だから自分の命を人一倍大事にして、お互い長生きしようじゃないかと。その運動を30年やったんです。

被爆者であるといっても、世の中にいっても日本中の人が知っているエライ人でもない。あなたの名前を知っているのは、自分会社と住んでいる地域くらい。隣の町に行ったら誰も知らない。本人が自分はそういうつまらん人間だと。小学校からそう思うような教育を受けている。そう思っている。自分という人間は地球上に一人しかいない。変わる人は誰もいない。こんな大事な命を自分はもっているんだ。そういう思い方を誰もしていない。

僕らは被爆者ひとりひとりにそんな話をしているんです。あなたはひとりしかいない、あなたの命はあなたが持っている。他人のだれもそれをどうすることもできない。どうすることもできるのは、あなただけ。だから世界中にひとつしかない、その大事な命をいまあなたは持ってる。自分の命を客観的に見る見方を教えたの。その大事にするしかたをみんなで勉強したの。

こんな経験をしてきたから、今回の事が起こって、他の人は逃げろとか出来もしないことをいう。わたしは出来ることをいう。それはあなたが、残念だけど放射線が入っちゃった、被爆者という名前がついちゃった、それを薬を飲んでチャラにするとかダメ。死ぬまであなたはこの体と付き合っていく。あとは放射性の影響で病気を出さなければいい。一緒に勉強して長生きしようじゃないの。

悪いことは一切しない、いいことはやってみる。生きるということを毎日、自分の意識の中に持っている。今日も俺はいきるんだと、そういう生活を毎日する。それしかないんです。どうしていいか分からない、毎日イライラすると。心配しないで開き直れと。もう一度入っちゃったものは取り出せない、覚悟を決める。何が起こっても、もう驚かない。自分を守れるのは自分しかいない。一生懸命生きる。なんとなく生きるんじゃない、生きるんだと生きる。

人間はもともと海の中に住んでいた生物。4億年前にどう間違ったか、エラで空気をとっていた生物が、浅いところで生活している間に、空気に触れているうちに上へ上がったヤツが出てきた。初めはみんな死んでいるんです。地球上の放射線と紫外線にやられてみんな死んでるんです。死んでも死んでも上にあがる、何万年も続く間に、あがったやつが抵抗できる体、免疫を作って。このときの人間は光りも持っていない、熱もない、あるのは太陽だけ。だから太陽と一緒に起きて、太陽と一緒に眠る。

その免疫を先祖から貰ってみなさん持っているんです。その免疫を減らさないで大事に続けるためには、人間がそれを作った時の、太陽と一緒に起き太陽と一緒に寝るという原則的なそういう生活に近い生活をして守。ちょうど30年くらい前から、夜も電気をこうこうとつけて、遊んだり、物を食ったり、くだらないテレビを見たり。なかには仕事をしたり。30年前から、みなさんは昔の人間が知らなかったそういう生活に引き込まれていった。そうして持っている成人病が、どんどんどんどん、いま、悪くなっている。みんなの健康が保てなくなっている。それがたった30年前ですよ。テレビができ、電気をこうこうとつけ、深夜テレビというくだらないものを見せられて、大事な寝る時間を削って。そういう生活に大部分の人が入った。

早寝早起き、三食をちゃんと意識して、大事に食べる。こういうことで免疫を大事にしながら、放射線に抵抗して生きる。これしか生きる方法が、僕はないと思うんです。それが嫌なら、いまの生活に溺れてどうなってもいいという方はその生活を続けたらいい。どうなってもいいという方は、どうぞご自由に生活されればいい。
放射線にやられたくなかったら、子ども達も含めて、健康に生きる、人間の本来の生活をすることが大事。

この世の中を、こんな汚れた社会にしたのは残念ながらあなた方なんです。だからこれから生まれてくる、ひ孫や孫のために、これをきれいにする責任がみなさんにあるんです。みなさん以外にはいないんです。だから原爆もなくす、原発も止める、そういう責任が、俺は知らんよといっても、みなさん方にはある。だから頑張って、余生をそのために尽くして、みなさんの子孫のために、日本をきれいにしましょう。
そういう訴えをわたしはしてきました。
どうかそう思って、ゆっくりお考えになって、みんなと相談をして有益な人生を送られるようにお願いしたいと思います。
以上です。
***************************


1時間以上の講演でした。
肥田先生は御年95。医療現場を引退した後も、講演などを続けられています。

人生の大先輩に生きることを教わった気がしています。



















ちょっと調べものをしていたら、宇喜多秀家にたどり着きました。

宇喜多秀家と言えば、戦国時代の武将です。豊臣政権では五大老として活躍しました。
正室は前田利家の娘、豊臣秀吉の養女となっていた豪姫です。
秀吉に寵愛され、秀家の「秀」は秀吉から授かったそうです。

しかし、秀家は関ヶ原の戦いで敗退。八丈島に流刑となってしまいます。
豪姫も同行を願ったそうですが、それは叶いませんでした。余生を前田家で過ごしたそうです。
秀家と息子、そして家臣たち十数名は島に流されました。

たいへん貧しい暮らしだったようですが、なんと84歳まで生きたそうです!!
人生五十年といわれた時代に80歳を越えるなんて叫び

関ヶ原の戦いが終わり、世は徳川の時代に突入します。
同行が叶わなかった豪姫ですが、夫と息子たちのために八丈島へ米を送ることを幕府に願いでました。

その願いは15年後に叶うこととなり、二年に一度、米70俵や衣類、薬品などの物資を送ることが許されたのです。

この前田家からの八丈島の宇喜多家への仕送り、なんとビックリマーク明治2年まで続いていたそうですよ!!

秀家も豪姫も亡くなった後も、ずーっと続いていたなんて!!

大政奉還。新政府となって、宇喜多家が赦免されるまでです。

徳川の世が終わって、新しい国に生まれ変わる。
赦免は、そんな意味合いも込められていたのかもしれませんが。

仕送りが明治初期まで続いていたなんて。
つい最近ですよ(至極個人的な私の感覚です)

八丈島には、秀家と豪姫の像が仲良く並んで建てられているそうです。
まだ八丈島には行ったことないので、行ってみたいですねー。





「緊急連絡先」という欄が、たまにあります。
そこには誰を書きますかはてなマーク

もし、未成年なら両親でしょう。
もし、結婚されていたら奥様や旦那様。
おそらく家族の名前と続柄、電話番号を記入するのがほとんどです。

いつも当たり前のように家族の名前を書いていましたが、ちょっと考えてみました。

わたしは山に登ったり、海でカヤック漕いだりします。
つまり、怪我をするような遊びをしています。

山に登る時は計画書を作ります。
計画書には山歩きの行程や装備、誰と行くか、そして緊急連絡先も書きます。

でも、もし山でわたしの身に何かあった場合、両親に第一報の連絡が入ったとして、
両親は対応できるでしょうか!?
交通事故などとは違うので、いきなり最寄りの警察に行ってもらちがあきません。

両親は山登りはしませんから、なんやかんや分からないことだらけです。

そう考えると、第一報はしかるべき対応ができる人の元へいき、
そこから家族である両親に伝わって、どうするべきか助言してもらうのがいいのではないか、
と思うのです。

山岳会などに所属していれば、そういう流れになると思います。

尊敬する山の先輩は、山仲間を緊急連絡先にしていると言っていました。
そして、どこまでをどうするかという話しもしっかりしているそうです。

なるほどえっ

そういう段取りをとっておく方法もあるんですね。

「緊急連絡先」に誰の名前を書くか!?
山に行かれる方は、今一度考えてみてもいいかもしれません!!