先日ショッキングな情報が私の耳に入った。

 

それはHartチーム解散の報告であった。

そう、私が現在所属するアトミックチームに移籍するまで、およそ20年間在籍していたHartチームが解散するということだった。

 

解散といってもなかなかピンとこない人もいるかと思うのでもう少し細かく説明すると、Hartという国産スキーブランドがあり、その親会社であったアルペングループがこれまで20年以上にわたり行ってきたトップスキーレーサーに向けたスキー板の開発・生産と選手の育成及び支援から手を引くということである。

 

ご存知の方が多いと思うが、Hartチームはアルペンスキーレーサー湯淺直樹の産みの親でありこれまでの私の人生の全てと言っても過言ではないもの。

そんなチームが解散すると聞き、胸が張り裂けそうな気持ちになると同時にこれまで一緒に戦ってきたHartスキースタッフの皆様方の顔と思い出が走馬灯のように頭の中に浮かび上がり気が狂いそうになった。

 

大高さん、泉川さん、幸平さん、ようすけさん、大竹さん、清水さん等々本当に多くの人の夢と希望を背負い走らせてもらった20年間でした。

 

この20年間、本当に様々なことがあった。

この私の小さな脳味噌では到底収まりきれぬ程沢山のストーリーが巻き起こった波乱と夢に満ち溢れた20年間だった。

 

今日はHartチームにいた頃の記憶と永遠の感謝の気持ちを忘れぬようここに少しだけ、そのストーリーを綴ろうと思う。

 

 

私は9歳の頃にアルペンスキーを始めた。

北海道は手稲山に本拠地を置くSSプロダクツという名のスキー少年団に入団したのがアルペンレーサーを志すきっかけだった。

入団して間もなくレースの魅力に取り憑かれ狂ったように世界一に向けて歩み出したが、道は相当険しいものだった。

 

北海道というスキー強豪地域ゆえに、私の周囲にはとんでも無く強い選手ばかりだった。

今現在も技術戦で活躍する天才武田竜を筆頭に小松、石川、寺島、福島、木原などなど同世代ビッグネームの面々がリザルトの上位を独占し、私なんかは手も足も出ない、いわば空気のような存在だった。

 

ジュニア期の私は壮大な夢を抱き、希望に満ちた輝かしい時期だった。と書きたかったが、実際には目標と現実が乖離しすぎてその膨大な劣等感が心の全てを支配し、非常にダークな時期だったと言える。

「今は関係ない、絶対に彼らを超え世界一になる」と現状に目を瞑り、雑に自分に言い聞かせて生きていくのが精一杯だった。

そしてさらに私の目標を阻む存在があった。それは「イジメ」だった。

 

私は小学校6年生からある人物によってイジメられていた。

Sという当時40歳くらいの男から、殴る蹴るは当たり前の壮絶なイジメを受けていた。

 

Sはとあるメーカーの人間で、私もそのメーカーの用具を使用していたので面識を持った。

イジメが始まった理由は省くが、合宿先で風呂に行っていただけで「ウロチョロするな」と殴られ、倒れていたブーツを直しただけで「汚い手で触るな」と腹を蹴られた。

 

この時期は「絶対世界一になってこの人間のクズを見返してやる」そう雑に言い聞かせて生きていくのが精一杯だった。

だがイジメを受けながらも登りつめれるほど簡単な道のりではないのは明白で、ただでさえ目立たなかった成績はより一層影を潜めた。

そして中学校3年生の時、晴れて私はSのいるメーカーから成績不振で追放されたのだった。

 

使用する用具を決めかねていた私を救ったのは古巣SSプロダクツの佐藤監督であった。

佐藤監督は私の当時の状況を踏まえ、ネームバリューや性能はひとまず置いておいて、金銭的に余裕がありジュニアレーサーを広く募っているスキーメーカーを選ぶことを勧めてくれた。

 

そんな中、ヤマハがスキー事業から撤退しそのスキー生産能力を丸々買い取ってスキー板の生産・販売・そしてアルペンレーサーの育成及び支援活動を始めたメーカーが現れた。

それが「Hart」だ。

 

私は藁にもすがる思いで、その時キロロでスキーテストを行っていたHartチームに懇願し入団テストを受けさせてもらえることになった。

 

テスト会場に行くと面積の大きい仏頂面の男がゴール付近に立っており、スタッフ思われる人たちにあれこれ指示を出していた。

タダでさえ雰囲気が怖いのにその男は体躯に見合った野太い声を発し、より一層の威圧感を発した。

私はその男から「とりあえず3本滑ってこい」と指示を受け、何も言わずに3本滑った。

割といつも以上にいい滑りができて、自分なりには「もしや受かるかも?」と思えるほど好感触だったのを覚えている。

 

だがそんな希望は一瞬にして打ち砕かれた。

 

3本滑り終わった私を前に彼は野太い声でこう言い放った。

「こんな下手くそなガキいらねぇ。」

 

テスト終了

 

 

いやむしろ人生終了

 

 

だが思ったほど心にダメージは無かった。

 

毎日殴られて生きてきた私にとっては入団テストで拒否されることは大したことではなく、さらには当時の私はすっかり打ちひしがれることに慣れていて、心のどこかで「自分の力では受け入れてくれないかも、、、」という心の保険をかけていたせいか驚くほど落ち込まなかった。

だがこの直後に奇跡が起こる。当然、当時の私にはそれにより人生がとてつもない勢いで進み出すことなど夢にも思わなかった。

 

 

SSプロダクツの佐藤監督はテスト後に私の知らないところで野太い声の主と何かを話していた。

どうやらその一言により、私のHartチームへの入団は許可され晴れて新たなる道を進むこととなった。

その一言は後に知ることとなったが、ここでは伏せておくこととする。

 

入団が決まった年の秋、私は初めての海外遠征を経験することとなった。

初めての遠征に出発する際、空港で待ち構えていたのは他の県で私と同様に選抜された見知らぬ同世代の選手達数人と野太い声の主、そして優しそうな顔つきが印象的な男性だった。

 

この野太い声の主の名は大高。大高さんは後に私の人生を大きく変えた張本人である。

そして優しそうな顔つきの男性は泉川さん。 Hartチームを支え、これまでの私の人生にとって欠かすことの出来ない存在である。

 

この遠征で私は人生初の「覚醒」を体験することとなる。

そう。誰にも見向きもされず、暴力でグシャグシャに握りつぶされてゴミのように捨てられた無名選手がたった半年で当時高校3年生であったあの佐々木明に次ぎ1年生でインターハイ2位に入るほどの覚醒を見せたのだった。

この覚醒を現実にしたのは大高さんの力であった。

過去にその野太い声で「いらない」と拒否し、非常に厳しい人間なのかと思いきや、チームに入った途端恐ろしいくらいの情熱と熱意で我々ジュニア世代を統制、指導し、ほぼ全員を全国中学やインターハイで優勝するほどの選手に育てた。

 

この頃から、私は自身が立てた目標に対し僅かではあるが近づいているという実感を持てるようになった。

ほぼ真っ暗だったビジョンは徐々に形を成し、以前より遥かに1日の練習の質が上がったように思えた。

ようやくアルペンレーサーとして帆に風を受け始めた矢先、またしてもSが行く手を阻むこととなる。

 

次のSは私より先にHartチームに実力で買われた7つほど歳の離れた先輩であった。

Sは自分が一番年上でありまた実力も上だったのをいいことにやりたい放題だった。

スキー選手の生命線である脛に蹴りを入れてくる。(後日痛くて滑れないが、休むと言うと仮病だと騒ぎ立てるので休めない)

全力で顔面を狙い至近距離でボールを蹴ってくる。

理不尽にものを奢らせたり、態度が気に食わないと長い説教タイムが始まる。(2時間以上にわたる)

このようにSはとんでもない奴だと思いきや、大高さんや泉川さんにバレないよう彼らの前では可愛い子猫ちゃんを演じ、気に入ってもらえるように振る舞ういわゆる「サイコ」で、当時7〜8人いたジュニアレーサー達のモチベーションを的確にへし折ってくる存在だった。

 

だが私にとってはこんなものは鼻クソ同然だった。

なぜならもうお分かりだろうが、以前からそれ以上のことを散々やられて生きてきたからである。

そのおかげでいつもケロっとしてたせいか、私だけ執拗にイジメられたのは言うまでもない。

 

日に日に激化するイジメだった。そんな中、泉川さんが腰に手を当てて夜遅くまで焦げないようにかき混ぜて作ってくれた激うまのカレー。そのカレーを「また明日から頑張れるようにみんな大好きカレーにしてみました」と言いテーブルに並べた後、「それではちょっと失礼します」と言ってキッチンの隅でワインを嬉しそうに飲む泉川さんが大好きだった。

私はこの人のためにも絶対に世界一になりたいと思ったし、イジメで疲労した心を癒す大切な存在だった。

 

 

Sのやりたい放題帝国は長くは続かなかった。

そのきっかけは川口城二、岡田利修、大瀧徹也という超大型レーサーの入団だった。

この3人は泣く子も失神するほどスキー界じゃ名のあるお馴染みのトップレーサー達だ。

 

城二さんは懐が深く優しく、私のような小物の技術的な悩みを真剣に答えてくれる頼れる大先輩だった。

利修さんはイケメンのくせに思いやりがあるという手の付けられない存在で、チームのムードメーカーだった。

徹也さんは「人間1日や2日じゃ分からんっすよ!」という伝説の名言で生まれて初めて笑いすぎてゲロ吐いたという経験をさせてくれた。

 

この3人がチームに加わったことで、イジメはピタリと止み、気付いたらSは引退してた。

そして公私共に指標となる先輩達に引っ張られるようにして我々ジュニア世代は躍進し、ジュニア世代のタイトルを総嘗めにして行ったのであった。

 

 

 

 

大高さんはあることを私たちにさせた。

それは開発者を交えたスキーテストだった。

本来ならばチームのトップ選手をメインにテストを行い、その卓越した技術や経験を元にスキー開発が行われるのが一般的なはずだ。

そんな中、我々若手にテストをさせ技術者と顔を合わせそして意見を述べれる場を与えられた。

それにはきっと大高さんが我々若手に提唱した言葉の理念に基づいて、そうさせるよう指示したのだと私は分析している。

 

その言葉は「プロ意識」であった。

大高さんは常々私たちにプロの意識を持てと説いた。

プロであるならスキーで飯を食っていくということであり、成績を求められて当たり前の存在である。

したがって、辛い練習に耐えるのはもちろんのこと、進んでそれを当然のように行い、そして毎日の活動を選手として結果を残すということを見据えて行動することであると説いた。

 

この言葉が当時の私にとって、非常に大きな意味を持つものとなった。

この言葉により私は自分の言動や行動に責任を持つようになり、度重なるイジメによって荒れ気味だった心と生活を一変してくれたのだった。

そして何より、清水さん、ようすけさん、大竹さんといった技術者の面々と会うことにより、彼らの夢を背負って滑っているのだという使命感で気が引き締まり、より一層トレーニングに励んだのだった。

 

 

そんな中で私の心をより強く・硬く世界一に差し向け続ける存在があった。

彼の名は横田幸平。

 

彼はサービスマンとして私達の転戦に帯同してくれた。

彼は大高さんのいうプロ意識をより鮮明に私に意識させた。

 

どんなに眠くてもどんなに疲れてても翌日戦う時には刀身に一切のよどみの無い刀を準備し続けた。

それも10年以上。

吸収力と対応力は非常に早く、完璧な仕事をした。

彼の仕事に応えるためには世界一になるしかなかった。

彼の仕事に対し、私の仕事が劣っている。私が世界で3番目になった時ですらそう思ったほどだ。

まだだ。まだ彼の仕事、気迫、信念に応えられていない。絶対に応えたい。なんとかして彼に「よくやった」と褒めてほしい。

いや、言わせてやる。なんなら彼に「君はすごい!君と一緒に仕事ができて幸せだよ!!」くらい言わせてやる。

そう思って過ごし続け、厳しい選手生活において高いモチベーションを保ち続けられる大きな存在であった。

 

話始めればきりが無い。それほど私はHartチームによって人とのつながりや選手としてあるべき姿、理想的な形やスキーの基本。おまけに社会でのマナーや人としてのあり方など様々な方面からご指導をいただき、また影響されてきた。

ただのスキーチームでは無い。家族・友人・会社などという枠組みでは語れないもっと何か大きい輪のなかにいたような気がする。

世界一を志してから、ジュニア期においては全く持って人に語れるようなスキー人生ではなかった。

暴力や自己都合によってねじ曲げられたモノクロ以下だった私の人生は、Hartチームに出会い鮮やかに彩られ香りまで付き、今や子供達に夢を語ることや諦めない大切さなどを語れる人間にまで姿を変えられたのは筆舌に尽くし難いほどの情熱と温もりを持って接してくれたHartチームの皆々様方のお陰であることは言うまでもありません。

 

 

こんな人たちに支えられて私は世界一のレーサーになるはずだった。

いや、ならなければならなかった。

 

私は彼らに謝らなければならない。今も、そしてこの先一生償って生きていかなければならない。

私は彼らに最高の結果を届けることができなかった。

彼らの作った作品を世界で一番高いところに持っていくことができなかった。

その責任は山より重いと思っている。

まだまだ出来ることがあったと思う。今はそのやりのことした事を最大限試し、アトミックという素晴らしいスキーをはき、改めて世界一という山を登り始めた。

 

自分はまだ山の途中。でも振り返ってももうHartチームはいない。

この壮絶な空虚感はどう埋められようか。今の私にも答えが見つかりません。

 

Hartチームは私の生きた証だった。

アルペンレーサー湯淺直樹が産まれ、育ち、歩んできたという生きた証だった。

 

そのチームが無くなり、この上なく残念で、悔しくて、そしてたまらなく切ないです。

 

それでも私はまだまだこれからも戦い、生きて、勝っていかなければならないのです。

 

なので最後にHartチームへ2つの言葉を書き記し、この記事を終わりにし、気持ちに整理を付けようと思います。

 

 

ごめんなさい

そして、ありがとう

 

 

 

 

湯淺直樹

金受け取った奴らも余裕で全員アウトでしょ。
金もらったら悪いことも目をつぶっりまっせ♫ってことを見事にやってのけた奴等を続投させるなんてありえないし、続投を表明する奴はもっと分からん。

恥ずかしいことを、恥ずかしがってやるからダメなんよ。

どんな恥ずかしいことでもやるときゃ胸張ってやるんだよ。

そうすればいつかきっと気付くはず。

俺って頭おかしいって。



湯淺直樹
昨日の話なんです。

ネットサーフィンしてたんです
そうしたらふと目に留まった「IQ測定」の文字

バナーをクリックしてさらに詳しい情報に目を通すと、どうやら世界でもトップレベルの判定技術を用いて正確にIQを測定できるIQテストが出来るそうなんです。

IQと聞くとアルベルト・アインシュタインが160から190と言われており、いわゆる頭の良さ、、知能指数を表した数字である。


測定したい。

メチャメチャ測定したい、、。


当然測ったこともないし、気にもしなかった数値ではあるものの、「もしかしたら意外や意外にめちゃ高いかも、、、」という一抹の期待を寄せてしまう自分がいる

何より男として人生で一度は測ってみたい、、そんな衝動に駆られたのです。

私はさらに人差し指に力を込め、測定方法までたどり着くと、クレジットカードで日本円にして2800円ばかり支払えば測定ができるとのこと

高い。

測ったからなんだというような数字を測定する為に3千円弱の出費かと思うと震えるほど高い。

でも測りたい、、一生に一度だし、、、

そう自分に言い聞かせて測定することにした。

簡単な性別や年齢を記入する質問欄を埋め、いざ測定

ページには「測定を始める→」の文字とともに以下のような説明が書かれていた。

「この測定には最新鋭のIQ測定を駆使的に用いましたから、目を離さず60分間の画面を注視すべき。」


なんか日本語おかしい。

でも気にしない。気にしてる暇がない。

私は画面の前で1つ深呼吸をし、測定開始のボタンをクリック。

すると真っ白な画面の真ん中にレッサーパンダの写真が張り付いているページに移った。

パンダの写真にはご丁寧に60分のタイマーが設置されている。


凝視した。画面が焼けるほど凝視した。

目が痛い。でも我慢する。

目が疲れた。でも我慢する。


なんやかんやで1時間がようやく経った。

タイマーが60分を迎えると自動的に「測定結果→」のバナーが現れた。

武者震いを抑えきれない気持ちでゆっくりと測定結果をクリック



「あなたのIQは  530000 です」



フリーザの戦闘力と完全に一致





もう暫くパソコンは見ない
いや、見れない



湯淺直樹


また虐待で何の罪もない4歳の子が亡くなった。
話を聞いただけでもこんなに心が痛むのに、当の本人の痛みを想うと心が張り裂けそうだ。

さっきテレビ番組で市の職員が「適切な判断、処置をした」って言ってたけど、その判断の結果が人の死に繋がったことは、根本的に対応した人たちの考え方やマニュアル、制度がおかしい事をハッキリと意味していると思う。

これ以上はもう勘弁してくれ。
これ以上の犠牲者が出るようなら政府のやり方が大きく間違ってるとしか言いようがない。
いや、もっと言うと政府が子供達を殺めていると思ってしまうほどだ。

今の法律や条例には子供を守る意思が感じられない。
もっと先手先手で動いて、「この国にでは児童虐待は絶対に許さないからなっ!!!」って感じられるくらい強固な意思が伴った法律や条例を制定してほしい。


報道を見てるだけでも耐えられないんだ。
きっともう耐えられないって思ってる子供達はもっといるはず。



湯淺直樹

暑い。とにかく暑い。

車に乗り込むと温度計は40度を超えて43度という見慣れない数字を叩き出してましたけど、

それも4日目となるとすでに見慣れましたが、身体は流石に慣れませんね、、。

 

そして私の愛車であるロメ男にも異変が、、、「オイル交換時期」という表示が出現したのです。

 

ということで先日アルファロメオの営業所へ行き、早速オイル交換をしてきました。


アルファロメオ名古屋天白店で御座います。


名古屋市内にあるアルファロメオの店舗にお邪魔したのは初めてだったんです。
このお店、、まあ美しいこと美しいこと、、。


こんなシャレオツなラウンジでまったり出来ます。

でもそんなこともしていられません。
何せ目の前にずっと見たかった車両がズラリと並んでいるのですから、、。

ハイまずはこれ↓


クアドリフォリオ先輩です!!
私的には現在販売されているSUVというカテゴリーの車の中で世界一かっこいいと思う車で御座います。
これはスポンサーしていただいているという現状を抜きにしても胸を張って言えます。

笑えるくらいカッコいい、、、。


↑エクステリアはまずノーマルにはないエアインレットがすごくカッコいい。
私のロメ男にもキリとノコギリで開けたいくらい。


↑オケツがまたカッコイイ。4本出しの排気口が転げ回るくらいカッコいい。
私のロメ男にも缶コーヒーの缶を繋げて4本出しにしたいくらい、、。


挙げ句の果てにはマットブラックのホイールがまたカッコいい。この私の言葉のボキャブラリーでは説明できない形のホイールアームがまた泣き叫びたくなるくらいカッコいい。

ってかこの写真を撮りながら私は既に泣いてたと思う。


↑インテリアに至っては無駄のない洗礼されたスポーティーなデザインでして、これまた湯淺心をくすぐる内装となっておりましたね。

また皮のいい匂いがこれまた上品で、この匂いで白飯4杯はいける。

確実にいける。

そしてハンドルのところにある真っ赤なボタンですが、これがエンジンスイッチとなりまして、フェラーリと一緒です。
美容整形でこのボタンを鼻に付けて、レースのスタート前に誰かにポチッと押して欲しいですね。


フェラーリと共通する部分はこのボタンだけにあらず、このクアドリフォリオはなんと車の心臓とも言えるエンジンがフェラーリ製なんですよ。
だから排気音もほぼフェラーリ、、。

2.9ℓツインターボエンジンから発揮される馬力が510馬力、、、。

アトム→100000馬力
ジャンボジェット機→およそ120000馬力
ロケットの主エンジン→およそ3000000馬力

クアドリフォリオすげぇwww

やばい比較対象間違えた。

とにかくとにかく今宝くじに当たったら1番最初に買いたい車を見れて大満足でした。

他にも出たばっかりのジュリアさん↓もいて、お金って幾らあっても足りないんだなということを再確認できましたね。



ああ、、、ビルゲイツになりたい。


と思ったところで私のロメ男がすっかりオイル交換を終えてさらに元気になって帰ってきました。

因みに現在走行距離13000kmを超えましたが未だ不具合無し。
現代の車では当然と言えば当然ですが、一昔前の「イタリア車は壊れやすい」といった風潮もスッカリ過去のもののようです。

皆さんもこれを機に是非とも足を運んでいただければ幸いです。

Thank you Alfa Romeo!!!!!

湯淺直樹

苦しい時も、悲しい時も、どんな時も目標があれば顔を上げて生きていけた。

むしろ苦しい時こそ「こんなこと、大したことではない。」と自分を鼓舞して生きてきた。


毎日の積み重ねがやがて大きな成果となる。と自分に言い聞かせて生きてきた。
だから、毎日毎日狂ったように走った。
ただただ前だけを向いて、雨の日も風の日も雪の日も雷の日も走った。

私は札幌市内でも割と大きめの歓楽街を備えた賑やかなところで育った。
それでもこの足で15分も走れば先の見えないほどの深い樹海に突入でき、自然と街とがちょうど良く混ざり合った素晴らしいところだ。
そんなところで私の壮絶なランニング人生が始まったのだ。

無理をする性格のせいか、昔から怪我が多かった。
でも傷ついても傷ついても前を向くことだけはやめなかった。
レーサーである以上、どんなに痛くても痛みを恐怖に変えない、「痛みを負った戦士」であり続けたいと思ったからだ。

晴れの日は好きだった。天気と同じく晴れやかな気持ちで走ることができて、とても良い「声援」だった。
雨の日は涼しくて好きだった。走る際に帯びる膨大な熱をちょうど良く冷ましてくれるとても良い「声援」だった。
曇りの日は好きだった。自分が速く走ることによって曇り空ですら切り裂いてやるという意気込みを込めてより速く走ることができ、とても良い「声援」だった。

風邪やインフルエンザなどの一般的な病気は強靭な戦士湯淺の手にかかれば1時間も走れば大体治った。


足首の骨が折れてもギブスをノコギリで切って折れた足の踵をうまく使って自転車を漕いだ。
強靭な戦士湯淺はこの方法で全治1ヶ月の怪我を2ヶ月で完治させた。

 
肋の骨は二度ほど折っているが、肋骨骨折の治療はどうせ放って置くしかないので強靭な戦士湯淺は一切意に介さずゴリゴリトレーニングしまくってた。
お陰であれから20年経った今でも疲れた時に痛みが出てくる特殊な身体を得た。

本当に、ただひたすら前に、前に進んできた。

ただひとつ、強靭な戦士湯淺がどうする事も出来ない事があった。

「腹痛」だ。


腹痛の時は流石に走るのも憚る気持ちになる。
大いになる。

特にトイレに行きたくなるなタイプの腹痛の時は最悪である。
これから汗となって絞り出す身体の水分が余計なところから余分に放出され、いざ走り出したときに脱水症状に陥りやすくなるからだ。
かと言って走り出す前に水を飲んでしまうとトイレに逆戻りを余儀なくされる可能性があるため、迂闊に水分摂取はできない。

しかしそこは強靭な戦士湯淺。

私の歩みは決して止まらない。

私はある仮説を立てた。
激しい腹痛に襲われた時こそ、直ちにトレーニングを開始し、汗を絞り出す。
汗によって水分を奪われた身体はいつも通りある事に気付くはずだ。
「あれ、身体の水分足りなくなってきたな、、。」と。
そこであえて口からの水分摂取を断ち、我慢する。
するとどうだろう。
先程まで下から我先にと放出されんばかりに準備していた水分たちも、急激に水分が必要となった身体に呼び戻されるように改めて吸収され、晴れて腹痛も治るのではないか。
このような仮説を立てた。

強靭な戦士湯淺は腹痛になるのを待った。
この仮説を立証する為に。
しかし強靭な戦士なお陰で待てども待てども腹痛はそう簡単に起こらない。

そしてこの説も立証されず仕舞いなのかと諦めムードが漂ってそれすらも過ぎ去って説も忘れかけた頃だった。

時はきた。

ある日私はウグイスガイ目イタボガキ科に属する牡蠣という忌まわしき名の罪深い海産物のせいで、過去に類を見ないほど激しい腹痛を感じた。

しかし強靭な戦士湯淺は説のことを瞬時に思い出し、その瞬間に光の速さでトレーニング着に着替えて家を飛び出した。

そして、走って走って走りまくった。

いつも声援を送ってくれる商店街のおっちゃんおばちゃん達も私と認識する隙も与えぬほどの速さで走った。

汗なのか、冷や汗なのかも分からぬほど、狂ったように走った。

そしてついに、翌日から巷での私のあだ名は晴れて「ゲリ樹」となった。
「痛みを負った戦士」から二階級特進で「ただの痛いヤツ」になった。

なにこれ。


流石にその後しばらく走るのはやめて、一旦自宅に引きこもり、その後、自宅警備員に就任した。


最後まで読んでくれたみなさんも、これをきっかけにもう一度よく考えて欲しい。
なぜ、自分が産まれてくる遥か昔から「無理は禁物」という言葉が存在してるのかということを。



湯淺直樹


皆さまこんにちは。
ついに令和という新たな時代が始まりましたね。
皆さまにとって素晴らしい時代となりますことを心よりお祈り申し上げます。

さて、ご報告となりますが先日までのゴールデンウィークをもって今シーズンの雪上の活動が全て終了致しました。

今シーズンはとてもじゃないですが良いシーズンとは言えませんでした。
1月中旬にウェンゲンでふくらはぎの筋肉を断裂して以降、全ての予定やバランスが崩れ、アルペンスキーとはかけ離れた滑りしか出来ず、とても悔しい思いを致しました。

それでも新たなマテリアルを身に纏い雪上に立ち、この歳でも改めて多くのことを学びシーズンを終えれたことは、確実に収穫のあるシーズンであったと言えます。

ですが、とにかく怪我なくシーズンを終えられることが重要であると知っていたはずなのに、それでも怪我をしてしまったことは猛省しなければなりません。

同じ過ちを繰り返すことはもう許されませんので、これからくる夏場の練習から気持ち改めて努力し直さなければと思います。


このような厳しい状況で過ごしたシーズンでしたが、本日ここに生きてシーズンを終えれたことは言うまでもなく湯淺ファン(いるのか?)ならびにスキーファンである多くの方々からの温かいご声援のお陰です。

また、所属先であるシーハイルアカデミーたちかわスキークラブの皆様
技術系世界最強軍団アトミックスキーの皆様
ウマウマ調理麺でお馴染みの株式会社ヤマヲ様
住宅設備機器で4年も前からお世話になっている株式会社小泉様
イケメン隊長率いる戸井田製作所様
古巣愛知県のオフリール様

アルペンスキーで怪我をしてしまったらここ、、旭川進藤病院様
そして俊足スポーツSUVで話題筆頭のアルファロメ様
滑らなきゃいけないスキー選手が選ぶ滑らないタイヤナンバーワンのコンチネンタル様
いつも安定の大瀧先生
いつもニコニコ橘井健治先輩
などなど、本当に多くの方々に今日まで支えていただきました。

この場を借りて皆様に心より御礼申し上げます。
本当にありがとうございました。

令和になっても結局湯淺でした。

そう言われるほど、これからも変わらぬ情熱を持って目標に向かって突き進んでいきたいと思います。


今後ともご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。

湯淺直樹

よく自分の車に名前を付けて擬人化し、愛着を示す人がいる。

私もそのくちのひとりだ。

我が相棒の名はロメ男。
コテコテのイタリア人で、基本的にカッコつけだけどカッコイイから格好がつく憎いやつだと思っている。



彼を一言で表すならまさに「妖艶」という言葉がぴったりだ。

そんなロメ男がうちに来ておよそ5ヶ月、、

この間の走行距離は6000kmを超え、自家用車としてはかなりのペースで走っていると言っていいくらいだ。

これまでに住宅地、郊外、街中、高速道路、峠道など公道で考えられる範囲のほぼ全ての道を走り、さらにこれらの道において、雨で濡れた状態やザクザクの雪道、ツルッツルのアイスバーンなど日本国内における気象条件の下で考えられるほぼ全ての路面状況での走行を果たすことができた。

5ヶ月と期間は短いが、このアルファロメオ社が送り出したステルヴィオという車種において日本国内では私以上にこの車の性能を堪能しきった人間は他にいないと自負している。

今回はそんな私が送る、ロメ男との漫遊記や乗車インプレッションの第1弾をお届けしたい。


昨年12月のあくる日、私はアルファロメオ社とサポート契約を締結しこのロメ男に乗せていただける運びとなった。


超車好きの私としては涙を流さずにはいられないほど、嬉しい出来事だったんです。
でも、ポロポロと溢れた涙はロメ男に乗り、2秒で乾きました。




なんてったってまぁー速いんですから。



アクセルに置かれた右脚の動きにつられて「ヴォウッ!ヴォウッ!!」という勇ましいロメ男の息吹が心を踊らせます。

調子に乗ってグイグイやると次の日はむち打ちになる事は間違いありません。


でもロメ男が好きなのは直線じゃないんです。

彼はカーブ好き。
この辺がまたエロスwww

SUVという堅牢なイメージが根付いた車種もここまで来ると単なるヤマネコ。

クルンクルンと回る頭は峠道に敢えて行きたくなるほど軽快にそして容易に向きを変え、ハンドルの切りすぎに何度も軌道修正を強いられるほど、これまで私が乗ってきたSUVとは次元が違います。

楽しい。
ロメ男、、、楽しい。



続く


湯淺直樹