2017.2.18は映画「沈黙 -サイレンス-」を観てきました( ´ ` )ノ

私がよく行く映画館では2/23までの上映とのことだったので、慌てて行ってきました(⌒-⌒; )

ここから延々長々と散漫に語ります。

不快に思う方がおられたらごめんなさい。

個人的な見解ということで、ご寛恕くださいm(_ _)m


私は、信仰と布教がごっちゃになってることがロドリゴ神父たちの苦しみの原因であり、ロドリゴ神父は「転んだ」後、人からは完全にキリスト教を捨てたように見えていても、

最期は小さい十字架を手の中に隠し持っていたことから、彼は布教を止めただけで、最期まで信仰は捨てていなかったと思います。

心の中でどの神を信じても、それは自由。

たとえ踏み絵を踏んでも、十字架に唾を吐いても、神を信じる心を失わなければ、それは棄教ではないと思います。

だからこそ、キチジローはあれほど苦しみ続け、ずっと心に重荷を背負い続けたのだと思います。


私は、布教は極めて政治的な活動だと思うのです。

だから為政者は、国内での宗教の扱いに頭を悩ませ、布教を植民地政策の道具にしたりするのです。

日本でキリスト教を禁じた理由は井上奉行が話したとおり、教義の問題ではない。

日本でも、一揆そのものは生活苦に端を発していても、一揆をしているのは信徒の集まりだったりすることから、特定宗派が弾圧されたこともありました。

織田信長が延暦寺や石山本願寺を攻めたのは政治に関与しようとしたからであり、普通のお寺さんには寄進をしています。

徳川家康が浄土真宗の分裂を図ったのは力を削ぐためですが、逆に、江戸幕府が宗教や後に戸籍を把握しようと檀家制度を利用することもありました。

キリスト教に限らず、宗教が政治に関与しようとすることを認めず、宗教を政治に利用することはある、ということではないでしょうか。

また、日本は神道と仏教が両立しているようで、時々の政治によって、神仏習合や廃仏毀釈なんかが繰り返されてきました。

初めて仏教が入ってきた時も、すったもんだの末、仏教は定着しましたが、仏教推進派の聖徳太子や蘇我氏なんかの血筋は根絶やしにされました(たしか)。

これらも宗教の問題ではなく、誰が政権を握るかの代理戦争だったと言えるのではないでしょうか。


井上奉行以下、踏み絵を踏むように迫る役人たちは口を揃えて「とりあえず踏めばいい」と言い、心の底から棄教することは求めていない。

信仰は極めて個人的なもので、心の中でどの神を信じていても問題ないと、彼らは分かっているからでしょう。

ところが、井上奉行と話していている時、ロドリゴ神父は図らずも征服を目論む者の手先になってしまっていたと思います。

「素晴らしい神や世界の真理を知らない人たちを、教え導かねばならない」と、キリスト教の信仰を周りに価値観を強要する。

日本には既に神道や仏教があるのに、言外にそれらを否定する。

だから、棄教(というか布教活動の完全停止)を求められたのだと思います。


あ、でも、今、思ったのですが、一神教の信者さんにとっては「それぞれの神がいる」という状況が、既にあってはならない状況なのでしょうか?

それであれば、一神教というシステムが、既に布教を前提とした宗教であるということなのかも…。

私はドラゴンクエストが通信するようになってから全くしていないのですが、それは私だけが勇者だった世界から、他にもたくさんの勇者がいる世界へと変わったからです。

憚りながら勇者を神に置き換えると、私は「私は私の神を信じ、あなたはあなたの神を信じる」の立場であり、どちらの神がホンモノかなどをジャッジする気はさらさらないのです。

でも、そうではない人もいますよね、きっと。

互いの信仰や文化や習慣やその他諸々を尊重し合うことが、本当の国際交流なんだと思うのですが、異なる価値観を受け容れあうのは難しいですよね。

そう言えば、給食にイルカが出ていた友人に、「クジラを食べるなんてかわいそう」と言われ、給食でクジラが出ていた私は「イルカを食べる方がかわいそう」と言っていました。

でも、どちらも食べる人には意味不明な言い合いで、どちらも食べない人にはどちらもひどいとなるんですよね。


なんのこっちゃ。閑話休題。


村人の信者摘発は、結局、じいさまのような存在は村人を束ねる要になって、いいように作用する時はいいけど、一揆のようなことになるといけない。

禁じられているキリスト教の活動で中心になっている時点で、反体制的で、排除されるべき対象なんではないでしょうか。

本人にそういう気持ちがあるかどうかは関係なく、法に反しているのだから罰する、あるいはその可能性が予見されるから罰する、たたそれだけのことかなと。

ついでに言うと、罰し方の酷さがクローズアップされていますが、幕府に従わなければこうなるという見せしめなので、

ことさらキリスト教徒だけに課していたものではなかったのではないかなと思います。

盗みを働くとその一家全員が磔で処刑されるとか、殺人を犯すと打ち首にされて首は一定期間往来に晒すとか、刑罰は次の犯罪の抑止力としても使っていたと思います。

反体制的な盗みを働いていた石川五右衛門は公衆の面前で、四条河原で熱湯の釜風呂で処刑されたんだったと思いますが、まさに見せしめであり晒し者です。

処刑方法は罪状により変わると思いますし、禁教を密かに集団で信仰し続ける反体制的な行為だったから、重い刑罰が与えられたのではないかなと思います。


ちょっと話は変わりますが、ロドリゴ神父と殉教したガルペ神父が、じいさまたちが人質に出向く時、踏み絵を踏むか否かで揉めていたのを見て、

聖書の解釈を生活に引き寄せるのか、生活を聖書の記述に近づけるのかの対立のように感じました。

現代で原理主義と呼ばれるグループは、後者に近いのかなと思いました。

ガルペ神父が、踏み絵を踏めなかった信者たちを救おうと海に飛び込み、結局、殉教しましたが、原理主義のイメージから自爆テロをする人たちにまで連想が繋がりました。


じいさまなどただの信者は「死ねば天国に行ける」と教わっていただけで、「村上海賊の娘」の一向宗の門徒や「楊令伝」の土人と同じだなと思いました。

神のために死ぬということを、神は本当に求めているのでしようか。

神のために死ぬという行為を求めているのは、信仰心を利用したい連中だけなのではないでしょうか。

純粋な信徒の信仰心を「死ねば天国(極楽)」と煽って政治的に利用する行為には、強い怒りを覚えます。


私は信徒とは言えない程度の信仰心しか持ち合わせていませんし、神にも仏にも自然にも畏怖を感じて手を合わせたくなるくらいのAll OKな多神教なので、

信仰心の篤い人たちがそれぞれの信仰心を大切にできて、為政者・権力者どもに利用されないような世の中になれば良いなと思いました。


画像は公式サイトから拝借しました

{3FBABE5C-C9BF-4F9F-92D5-67781C3187C4}