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フリーランス日本語教師ハートnaonaoですウインク

 


私は1年間、韓国の学院で専任講師をしていましたウインク

そうそう、私がどうして韓国で教えたかというと

 

「早く日本語教師になりたい!」

 

「30歳まで海外で教えたい!」

 

という高校時代からの目標があり、

わたしはとにかく早く日本語教師になりたい一心で

一番早くなれる方法を選び、夢を実現するべく、

大学4年時に民間の日本語教師養成講座受講し、

ダブルスクールをしていました。


 

しかし、当時は日本語教師就職氷河期ガーンダウンダウン

国内では経験者のみしか採用しない日本語学校ばかり。

今の教師不足の時代からすると考えられない状況で、かなりシビアでしたガーン


 

タイミング悪く、ちょうど日本語教師養成講座修了したのが、6月あじさい

 

7月期の求人は経験者のみしか採用してもらえず…。

何校かチャレンジしたものの、不採用に…。

そして、タイミングよく、

受講していた日本語教師養成講座の担当者から

韓国でのお仕事をご紹介いただき

自己実現できる、滅多にない絶好のチャンスだと思い、

韓国行きを決意しました。

 

海外で教える場合は短大卒だとビザが下りない国が多く、

教えらないところが多いです。

 

私の教えていた韓国はビザが厳しく4大卒は必須でした。

 

海外では4大卒+民間の日本語教師養成講座修了していればビザがもらえ、

お給料は安いですが、比較的、誰でも教えられます。

 

そんなわけで経験ゼロ初心者は結構海外から

スタートする人が多いです。

そんなわたしもスタートは海外でした。

 

養成講座出てすぐ、経験ゼロの人でもすぐ、現地で採用というケースが多いです。

私もその一人でした。

 

海外で教える場合、ただお給料が安すぎますが…。

 

10数年前の話ですが、韓国で駆け出し1年目、

最初の3か月は専任ですが40万ウォンで、

4か月目からは60万ウォンでした…。(2003年当時1ドル=120円くらいでした)

そして授業数は日本語教師デビューにしては

びっくりの34コマ(50分=1コマ)でしたガーン

 

 

安くても、養成講座の紹介で、

代々の修了生がそこへ就職し、

教えているということキラキラ

 

住居やビザの申請は学院がやってくれて家賃はタダキラキラ

しかも韓国舞踊で有名な大学の教授宅にホームステイキラキラ

 

 

という安心して教えられるということ、

信頼もあるということで、韓国行きを決意しました。

 

住居は学院が提供し、家賃、光熱費など月々の支払うのが韓国の学院では普通です。

 

田舎なので物価も安く安月給でも

十分生活できるということ。

 
韓国の学院では日本人教師への賃金未払いがあるようで、
以前から心配していましたが、
その学院は今まで賃金未払いはなかったというので、
いろいろと考えて私には好条件だったので、
勉強しながらお給料もらえるなら十分な環境だったので、
 
行くなら今でしょ!
学院長と面接で二つ返事をしました!!
 
 
 
そして・・・
2002年に高校生からの夢だった日本語教師デビューをしましたキラキラ
 

 

住んでいたところはソウルとプサンの中間に位置する田舎だったので

物価も安く非常に住みやすかったですニコニコ

 

私の場合ですが、半年は学院長のお知り合いの大学教授宅にホームステイさせてもらいましたニコニコ

その教授は、韓国でも有名な韓国舞踊の教授で、

国内外舞踊の公演で大忙しな方です。

日曜はたいてい公演で朝早くからお弟子さん引き連れ、

バスで遠征バス

わたしも一緒に何度か同行させてもらいました。

 

また、その教授の舞踊団が日本で言うNHK、

韓国のテレビ局「KBS」の生放送に出演することになり、

幸運にも同行させてもらい生放送での舞台も拝見させてもらいましたニコニコ

 

「ヨソシネコヤ」という平日18時からの生放送番組ですテレビ

 

そんな方のお宅にホームステイできたなんて光栄の極み。アップ

本当に、このホームステイでは普通では経験できない多くことが経験できました。
 

その教授に感謝。アップアップ

本当にいろいろよくしていただいて、

 

わたしにとっては教授は韓国でのお母さんキラキラ

 

そして私にとって韓国は第二の故郷キラキラ

 

いつもいろいろと気にかけてくれて、食事にもいつも誘ってくれて

一緒に食べたり、一緒に過ごした日々は楽しい日々でした音譜

私が渡韓半年後、日本人教師が一人増え、3人になったのですが、

一人暮らし初めてという、何もできない人が来て、

いろいろ問題を起こし、これ以上教授に迷惑はかけられないということで、

半年後から日本人教師のみで寮生活となりました…

 

 

授業は、50分授業で

朝7時・8時・9時のクラス、午後は5時・6時・7時・8時のクラスがあり、

1日9コマこなしていました。

 

朝は学院を空けなければならないので、

5時起きで6時半過ぎには着くように行っていました。

 

授業以外の時間は自由時間で、お茶を飲みに行ったり、

家に帰ったり

ビデオバン(レンタルビデオして部屋で鑑賞できるところ)でまったり、

実にいろいろでした。

 

それ以外のほとんどは学院で授業準備や専任の業務をしていました。

専任の業務は学生登録の確認。

登録は1か月ですが欠席者に電話連絡。

教材販売、カリキュラム作成、学校新聞作成など。

また授業は学生数に応じて基本給から

インセンティブが発生。

 

私ともう一人の日本人教師が来てから

学院登録者数が2倍になり、授業数も増えました。

自分が商品のようなもので、

いい授業をすれば評判が広がり、

学生も増えるというわけです。照れアップアップアップ

田舎なのでそういう噂はあっという間に広がります。

 

帰宅するのが9時くらい。

帰宅途中にスーパーにより、買い出し、ご飯を作り

食事、シャワー、授業準備で就寝が1時ごろ。

起床は5時半ごろ。

朝起きてお弁当をいそいそ作って、

6時半ごろバスかタクシーで通勤、7時前に出勤という

生活を1年送っていました。

 

軍隊かと思うくらいホントに

過酷な生活でしたえーんダウン

 

 

土曜日の午後からと日曜日はお休みなので、

ときどき、韓国人の親友に会いに一人であちこち行きました。

 

全州から釜山へバス

 

全州からソウルへバス

 

韓国語ゼロで初めての高速バス、

言葉がわからず、英語も通じず…

最初は冷や汗でした。

 

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最初に乗った高速バスのチケットです。

いまでも大切に持っています。
 

 

韓国に来てから、祖父が入院し、危篤の知らせで2度、一時帰国しましたが、

一人でのリムジンバス、一人で飛行機に乗るのもまだなれてなくて、終始ドキドキ落ち着きませんでしたしょぼんダウン

 

でもそのおかげで、帰国するときにはもうどこでも一人で行けるようになるくらいの度胸がつきましたにひひ


 

初めて海外で仕事で、当初は土地になじめず山あり谷ありで、

国民性の違いや考え方の違いなどで韓国人先生、学院長とももめたりで、

一時は帰国も考えたこともあったなぁと。

 

日本人教師ともいろいろ言い合いました。

その先生とは偶然にも同じ養成講座で同じ実習生でしたポーン

最初は話もしなかったのに気が付けばいつも一緒でした。

その先生が私より2か月先に帰国することになり、

その先生が帰国してからというもの、話し相手がいなくて

ほんとうにつらかったです。

当たり前のように話せた相手がいなくなり、話せなくなることがこんなにも

辛いのかと身をもって体験しました。

そのころから、帰国までの間、思ったことをこの日記に書き綴りました。

 

 

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仕事で行き詰った時、時々、この日記を読み返します。

 

その中に初めて乗った高速バス、

いろいろ入った観光地などの半券などもしまってあります。

それらを見るたびに、当時つらかった自分を思い出し、

初心に戻ろうと、自分を奮い立たせています。

 

 

韓国にいた当時、日本にいる友達や先輩などからもたくさん手紙をもらいました。

母からも手紙をもらいました。

 

 

普段手紙も書かない母。

私のことに対しては一切何も言わない母。

当時はつらかった時支えてくれたこと、

今では感謝していますしょぼん

 

たくさん写真も撮りました。当時の写真はかなりスリムで、

仕事のストレスで10キロ痩せて服のサイズが3号か5号で今とは別人ですショック!


 

韓国の学院をやめる日、私の誕生日で

たくさんの学生が私のためにお祝いと

お別れ会をしてくれました。

誕生日会やお別れ会で先生方や学生たちに

もらったたくさんの手紙。

 

本当にたくさんの人に出会い、支えられてきたんだなぁと。しょぼん

手紙にはねぎらいの言葉の数々…。アップ

 

そういう手紙や写真も今でも大切に保管しています。

お金では買えないかけがえのない財産ですラブラブ

 

初めての海外での仕事

 

初めての日本語教師生活の場所

 

授業準備で毎日平均睡眠時間は4時間くらい

 

軍隊生活みたいな過酷な生活

 

辛いこともたくさんあったなぁ

 

楽しいことも

 

本当にいろんなことがあったなぁ

 

韓国で1年という短い間だったけど、

韓国でのこの1年間は人生で忘れられないかけがえのない

貴重な経験ができた場所です音譜

 

韓国は私の第二の故郷です

たまに帰りたくなる場所です。

 

時々、長期休みなどを利用して、友達や学生に会いに

韓国へ行きます。

当時よく相談に載ってくれたよき理解者でもあり、

いつでも受け入れてくれます。

第二の母の教授にも何度かお会いできました。

 

一期一会ですね。

 

 

もしチャンスがあるなら、

若いときに1度は外国で教えるといいですね!

 

そうすることで、視野が広がり、仕事にも幅が出ます。

「日本人は●●だ」という外国人から見た日本が

いろいろ見えてきますから!

 

私の場合、韓国で教えたことで、

韓国語も少しわかるようになり、

韓国人の多い日本語学校では経験を評価してくださり、

授業も多く持たせてもらったり、英語も少しわかるので

英語圏のプライベートレッスンなども

紹介してくださったりと

海外での経験が役立ち、考慮してくださるところが多いです。

 

 

あのころは本当につらかったけど、今ではいい思い出です。

やっとそう思えるようになりました。

 

あの時の過酷な時期を乗り越えられたのだから、

これからは何でも乗り越えていけるという自信が持てるようになりました。

 

 

当時は本当に過酷で辛かったですが、

あの時がんばっていなければ、

今の自分はここにはいないのだと思いますアップアップ

最後まであきらめないでよかったなぁと照れアップアップ

 

 

もし、チャンスがあるなら、

一度か海外に出てみてはいかがですか。

 

いろんな視野が広がり、

人生の糧になる経験が得られると思います。

 

海外に出て、日本はどんな国なのか、

自分はどうしたいのか、

いろいろなことがわかってくるでしょう。

 

海外で教えようと思っている方、

是非、1度海外で教えてみてはいかがですか?

 

 

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