人間の幸せ、最後は神仏との共有。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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 神とは仏とかは、最後は、自分の中で、どのようなイメージで自分にとっての神仏をイメージできるかにかかっている。エントロピー、物事が無秩序の方向へと向かうこの世の因果をみれば、神仏とは、自分の生を、反エントロピー方向へ、物事が無秩序とは逆に秩序ある方向、組織化できる方向へと、後押ししているものだと、どこかで、気付く時がくる。

 

 

 キリスト教、仏教や新興宗教の枠組みを超えたものとして、神仏は存在するものだと、人は、人生の最終章になって、気付きだすものである。そこで、感じるものは、自分を育ててくれたもの、その人たちの愛である。家族、親族、友人、知人、先生、そこで、過ごした感覚である。人生の終盤に感じる幸せとは、自分が大きく育っていった時に自分に注がれていた人々の愛の情感、それを感じることである。それが、自分の命の延長線上に夢見る光景である。再び、愛する人たちと至福の時間を共有したい、それが、最後の人としての願いになるはずである。

 

 

 人は、どこかで、この世から卒業しなければならない。神が自分を支えてくれるにも、限界がある。だれでもが、この世で、生きられる時間の定めがある。少なくとも、60歳まで、生きられたのなら、人生の喜怒哀楽を一応味わったことになる。人によれば、10歳で亡くなるひともいれば、20歳、30歳、40歳、50歳と、未練を残して、あの世へと旅立った人がいる。それに比べたら、とりあえず、60歳まで生きたのなら、それでもう十分だと思う。後の人生は、おまけ、この世で頑張って生きる若い人の支えになるようにいきたらいい。この世がさらに良くなるように、自分が培った能力や経験をベースにして、利他につくしたらいい。

 

 

 60歳以降、自分の我欲を満たすことを、主眼にして、意地汚く、生きたとして、どんな意味があるのだろうか、巨額の富を有した所で、何の役にもたたない、骨肉の争いの種になるだけである。60歳が一つの頂点、そこから、上にいくのも、下にいくのも、60歳にいた時の方向ですべてが決まる。エネルギーをもっているなら、さらに、ゆっくりと上昇し、それから、下降していくかもしれない。我執や利己心、欲望に、心を乱され、そのまま、落下していくかもしれない。人それぞれである。どのように、落ちていくのかは、それまでの生き方にかかっている。

 

 

 自分、一人では生きていけない。だれかの助けが必要なのである。人は、毎日、眠る。そして、次の朝、目覚める。その繰り返し、しかし、目覚めない時がくる。それが、人の死である。会社の事務所には、簡易ベットが置いてある。午後、ときどき、眠くなるときがある。ちょっと、横になる。大抵は15分ぐらいで目が覚める。きっと、私の最後も同じ感覚だと思っている。ちょっと、眠たい。そういって、ベットに横になる。そうして、静かに息を引き取る。最後の最後まで、何かをやっていて、疲れたといって、横になる。そうして、そのまま、あの世へといく。それがいいと思っている。話がそれたが、人はなぜ、目覚めるか、それは生きているからである。生きられるから目覚めるのである。この生きられる感覚、これこそ、神仏とともにあることの証なのである。

 

 

 生きられる間は、生きた方がいい。生きられる自分、生きられなくこの世から去った人もたくさんいる。なのに、自分は生きていられる。60歳、65歳、70歳、長く生きれば生きるほど、生きていられたのである。なぜ、生きていられたのか、生きられるようにがんばったから生きられたのである。神仏の後押しをうけて、頑張ってきたのである。

 

 

 歳をとれば、活動の場が狭くなる。体が思うようにいかなくなる。70歳、80歳、90歳まで生きてこれたことは、とんでもないことなのである。それを、若い人に伝えるべきである。体が許すかぎり、頭が働くかぎり、神仏の代弁者として、自分が生きてきた経験を、どんな形でもいいから、残すべきである。そうして、力尽きて、疲れたといって、最後は、自分を育ててくれたものからの愛を感じながら、そこへ帰る事を夢見ながら、静かに、息を引き取ったらいいのである。それこそが、人間としての最高の生き方だと思う、最高の幸せだと想像する。それでいいと、神は、私の耳元で、そっと囁いているようである。