人生、どのように、制御をかけるか。 | ”秋山なお”の美粒ブログ

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音楽、ナノテク、微粒化、日々の思いをつづっています。
微粒は、美流でつくられ、美粒となります。その思いをつづっています。

 私は、美粒システムという装置を作り上げた。これから、色々な用途に応用されるだろうし、将来の社会を変えるような素材がこれでできるかもしれない。そう期待している。最近、ある乳化目的で、とある会社に装置を入れた。その部署の若手の研究者は、その結果をみて、ひっくり返った。その部署全員が、ひっくり返った。いままで、こんな結果を見たことがないからである。これ以上、書くと怒られるから書かないが、若手の研究者から、なぜ、できるのか、と聞かれた。それは、美流だからと、いったら、それじゃ、誰も、理解しないですと、言われたので、乱さないように、制御をかけているからだと、答えた。定性的に、いえば、その通りだからである。もちろん、それは、処方条件と装置条件が合わないと、綺麗なものはできない。すべてに当てはまるわけではない。それは、乳化だけでなく、グラフェンに代表されるような層状化合物の剥離、CNTやCNFに代表されるようなアスペクト比の大きいファイバー状なものの解砕や解繊にも、同じことが言える。乱さないように制御をかけるから、うまくいくのである。その制御方法が、各自各様だということである。そこにノーハウがある。では、なぜ、いままで、できなかったのか、それは、制御をかけている装置など世の中にないからである。制御をかけていると言っておきながら、実際には、なにも制御などかけていない、出たとこ勝負の装置がほとんどだからである。

 


 人生も、また、これとまったく同じことが言える。うまく、人生を生きる人、なんとか、自分の命を使いきって、大往生するひと、それらの人は、自分の生にあったように、乱さないように制御をかけて、人生を生き抜いた人なのである。制御というと、電気的なシステムと思うが、それだけでなく、自分の状況を客観的にみながら、自分がどういきたらいいか、それを判断し、乱れないように、生き抜くことなのである。強すぎたら、どうなるか、自分で自分を壊すことになる。逆に、びくびくして、うごかなかったら、勝機を逃すことになる。人生に一番重要なのは、生きる制御を自分にどうかけて生きていくかなのである。私は、自分が作り上げた装置を通じて、この世の原理をみたような気がする。それをいろんな人さまの人生、そして、自分の人生に当てはめると、驚くべきことに、その通りになっているのである。

 


 若い時は、何をやってもいい。多少無茶をやってもいい、しかし、やりすぎたらどうなるか、日常の範囲の中で、戻れる範囲ならいい、しかし、度がすぎて、暴力を起こしたらどうなるか、それで、学校を退学したら、どうなるか、虫の居所がわるく、若いにいちゃんに突っかかって、ぼこぼこにして、少年院ということもある、逆にぼこぼこにされて、半身麻痺ということもある。本当に、ちょっとしたことで、日常性から非日常性へと墜落することがある。やり直しがきくというが、社会は、そんなに甘くない。超難関な学校の大学生が、破廉恥なことをやって、捕まった。実名がでた。その大学生の将来は、決して、明るくない。かならず、そのことが、最後まで付きまとう。10年たとうが、20年たとうが、死ぬまでつきまとう。それが人生である。学歴もそうかもしれない。最後の最後まで、付きまとうことがある。私は、大した学歴はない。だから、逆に隠さず、病歴をどうどうとだす。そして、開き直る。博士を金で買った企業経営者も知っているし、自分で実験もしないで、金でデーターをとらせ、それで博士というものをとった経営者の息子も知っている。私のまわりにも博士はたくさんいる。本当に、苦学して勉強して、とった有能な人もいれば、金でとった名ばかりの愚かな博士もいる。しかし、社会は、肩書きで、人を差別することがおおいのも、また事実である。だから、本当の博士か嘘の博士か、話をすればすぐわかる、その人が何をしてきて、何を考えてきたのか、中卒の人でも、一流の大学のマスター、ドクターをでていても、ろくでもない人間はろくでもないし、優れた人はやはり優れている。

 


 話はそれたが、再度いえば、乱れたらどうなるか、一生を棒にふることもあるということである。健康のためと思い、息をきらして、走っている人がいる。無謀である。あきらかに、無酸素運動になっている。制御を忘れている。過ぎたるは及ばざるがごとしである。有酸素運動になるぐらいのスピードに抑えて、ゆっくりと走ればいいし、走らなくても、歩いてもいいはずである。なんのために、走るのか、健康のためとおもって、病気になったら、これほど愚かなことはない。昔、これと同じことを自分でやったから、分かるのである。それとおなじことをしている人を、公園で多く見かける。人さまのことはわかっても、自分を制御することは、難しいのである。

 


 こんど、これとは逆に動かなかったらどうなるのか、メタボになるか、体が固化するか、である。ぶくぶくとふとってアウトになるか、体の柔軟性がなくなってアウトになるかである。年齢はわからないが、老人と思える人は、だいたい体が固化している。メタボでなくても、痩せていても、柔軟性がなくなっていれば、老人だとわかる。同じ歳でも、柔軟性があれば、若く見られるし、50代ぐらいの柔軟性があれば、70歳でも、老人だとは思えない。逆に、
50代、60代でも、柔軟性がなかったら、年よりはふけて見られるはずである。

 


 人生は、一度きり、再現性のない、自分だけのドラマである。どのように、生きるのも勝手である。歳をとれば、だんだんとぼけてくる。記憶が飛んでくる。どんなに社会的地位があっても、どんなに知識があった人でも、ぼけて、よろよろになれば、単なる、わがままなじいさんと呼ばれるだけである。金があれば、その金目当てに、よいしょする人もでてくるだろう。それも、なにかみじめである。人生、最後の最後まで、制御である。どのように、人に迷惑をかけずに、最後の最後まで、人のため、子孫のために、尽くせるか、何を残して、あの世へと旅立てるか。それを考えて、どう人生の終着点に、制御をかけて、着陸するかである。神様はそれを見ているような気がする。